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2008年2月23日土曜日

インド庶民の多くは靴をはかない。
裸足かビーサンである。
そういう人の足の指は見事にまっすぐだ。
ヒンディー語の辞書に「外反母趾」の文字はないとみた。

以前砂漠の民で今まで靴・サンダルのたぐいを履いたことがない、という人に会った。
その人の足の裏は見事に角質化していた。
いや、それを通り越して岩のように固まっていた。
足自体が靴と化していた。

今まで色んなすごい人を見てきた。
山のような荷物をボロ自転車で運ぶ中国人、希薄な空気の中を元気に走り回るチベット人、ボロビーサンで荷揚げするネパール人ポーター、歯でビンのふたを開けるエジプト人(←これは違うか)。
そういう人らに比べ、自分を含め「先進国」といわれる国の人々の何と貧弱なことか。
何をもってして「先進」なのか?
「先進」どころか人間としては「退化」しきってしまっている。

これではいかん、と修行のため裸足で買い物に出てみた。
角を曲がったところで牛のウンコを踏んでしまった。
慣れないことをするもんではない。

2007年4月3日火曜日

チベットの恩返し その5『父と娘』


それはラサでの馴染みのチベタン飲み屋から帰ろうとした時だ。帰り道一緒になった客のオヤジがこっそりオレに告げてきた。
「実は私の娘が今インド・ダラムサラの学校で勉強している。6年前に亡命させたのだが、それ以来娘の姿を見ていない。お前はこの後ダラムサラへ行くのだろう?娘の学校を訪ね、成長した姿を写真に撮ってラサへ送ってくれ。」
この手の頼まれ事はもうお手の物だ。二つ返事で承諾し、オヤジの写真もそこで撮っておき、オレはダラムサラへ向かった。

そしてその亡命チベット人の子どもが多く寄宿している学校へやって来た(実はその学校はダラムサラにはなく、100kmくらい離れた所にあって探し出すのに随分苦労したのだが・・・)。そこの先生に事情を話し、その娘の名を告げるとすぐさま連れて来てくれた。15歳の小柄な女の子だった。
ラサであなたのお父さんに会いましたよ、と写真を渡すとそれだけで止め処もなく涙が彼女の頬を伝った。思わずこちらももらい泣きしてしまいそうになるのを堪え、彼女の話を聞く。
「少しの間だけでもいいからラサに帰ってお父さんお母さんに会いたい」
パスポート無しの亡命の身分ではそれはちと難しいかも・・・とはとても言えず、ご両親はあなたがここで頑張って勉強し続けることを望んでいるはずだよ、と言うと、
「じゃあ頑張って勉強して大学卒業してからラサへ帰る!」
と力強く答えてくれた。

彼女が立派に学を修め、堂々と祖国へ凱旋できることを強く願いつつ、オレは帰路についた。獅子の描かれたチベットの国旗がポタラ宮の上にはためくことを夢見ながら・・・。

(写真:中央が娘。両脇も亡命してきた子供たち)

あとは帰るだけ

涼しく快適だったダラムサラをあとにし、インドの首都デリーにやって来た。
山から下界へ下りて来てみると既にそこは40℃近い灼熱地獄。
2ヶ月間ダラムサラで充分すぎる静養をとってしまったために、この暑さは体にこたえた。
しかしこれでもうお仕舞いだ、と思うと多少無理も効いて、その炎天下の中150km以上を連日走り続けた。さすがにバテた。
でももうあとは日本に向けて飛ぶ日を待つだけだ。

2007年3月20日火曜日

真説・法王に謁見


それは乾季にもかかわらず冷たい雨の降り続く日だった。
私を含めた日本人30人、他に韓国・台湾・ベトナムなどのアジア仏教国の人々のための特別謁見が王宮で行われた。普段は固く閉ざされた門の奥深くにある謁見の間に通された我々は、法王の到着するのを祝福のカター(白い布)を手にじっと待つ。やがて侍従に付き添われ法王が現れた。優しい笑顔で有り難いお言葉を頂く。
「皆さんの国の仏教の歴史に比べ我々チベットの仏教の歴史は短い(チベットに仏教伝来したのは7世紀)ので皆さんの方が先輩です」と言って深く頭を下げられた。その姿に自称仏教徒の私をはじめ一同驚いてしまい慌てて頭を垂れるが、顔を上げてみるとまだラマは深々と頭を下げており、更に驚いて頭を下げた。

して国ごとに一緒に記念撮影。撮影が終わるとみなラマに群がってその手を握る。ラマの手は73歳とは思えぬくらい柔らかく福よかで、そして温かかった。
その手を握った時、私の5年弱の旅もこれで本当に気持ち良く終わることが出来るな、と思った。

2007年3月18日日曜日

チベットの恩返し その4 『幸せ配達人』

私がダラムサラに来た目的の一つが小包配達であった。
その荷物は、ラサのお寺にいる尼さんに私がこれからダラムサラへ行くということを話した際、「それなら私の兄(僧侶)が亡命してそこの寺にいるので荷物を届けてほしい」と託された物だった。

チベット(中国領)⇔ダラムサラ(インド領)でも電話で話すことはでき(もちろん中国当局により盗聴されている)、手紙も送れるし(もちろん検閲される、そしてたまに消える。私が以前インド→ラサで出した手紙は届いていなかった)、荷物も送れる(がやっぱり開封される)。
しかし何といっても確実なのは郵便局を通さず人の手を通しての配達だろう、ということで私に白羽の矢が立ったわけだ。

果たしてどんな大切な物を託されるのだろう?とドキドキしながら取りに行ってみると、渡されたものは何と「豆」。
しかも小型枕くらいの大きさでかなり重い。
これからヒマラヤ越えねばならぬのに…と少々たじろいでしまったが「この豆はロサール(チベット正月)のお供え物として欠かせないのですが、インドでは採れないものなのです」と説明され俄然やる気が起きた。絶対届けます!!

という訳でその豆担いでヒマラヤ越えてタライ平原を西に突っ切って標高1800mのダラムサラへ到着した。
あとはその人のいる寺へ行って渡すだけなのだが、数千人規模の亡命僧のいる寺もいくつかあるくらいなので探すのに四苦八苦するかも、と心配していたが、その寺内でブラブラしていた坊さんに名を告げるとアッサリ見つけ出してくれ、アッサリ手渡すことに成功した。
通じる言葉がチベット語しかなかったので説明するのが大変かと思われたが、その妹(ラサの尼)の写真と共に渡すとすぐ理解してくれた。
どうもありがとう、と出してくれたコーヒーはインド風のとても甘い味だった。

9年振りに添えられた豆と共に2月18日、チベットの新年は明けた。

(写真:ラサに住む妹(左)とダラムサラに住む兄(右))

法王に謁見

重厚な扉には50数年前この地球上から公式的に姿を消してしまった国の国旗がモールドされていた。私は緊張に手を震わせながらその扉をノックした。中から低い声で「どうぞ」と聞こえ、私はその重い扉を開いた。

彼はゆったりとした椅子に深く腰掛けたまま静かな笑みをたたえていた。私達はしばらく近況を報告しあった。話題が途切れたのを見計らって、私は以前からあたためていた事を意を決して切り出した。

「法王!2008年の北京オリンピックの開会式にはぜひインド選手団の旗手となってチベット国旗を掲げ堂々入場してください!忌まわしき中国共産党の度肝を抜き、チベット独立を世界にアピールする最大のチャンスです!」

あまりの唐突な申し出にさすがの彼も驚きの表情を隠せず、沈黙のまま遠く東の方を見つめた。それは、そう、本来彼の住むべき天空の城のある方角だった。

どれくらいの沈黙が続いたろう。私はまんじりともせず彼の返事を待っていた。やがて彼はその遠くを見つめたまま、あの静かな菩薩の笑みを取り戻し、ゆっくりと、そして深くうなずいた。

(了)

非行よ非行よ

ついに最終目的地ダラムサラに着いた。
その足で私は郵便局に向かい局員に告げた。
「電報を打ちたいんですけど…用紙はどこにあるんですか?」
しかしカウンターのヒゲ面の太った典型的インド人のその男は、まるで私の声がまったく聞こえないかのように新聞に目を落とし続けている。私は台をバンバン叩き、足でボコボコ蹴って注意を引こうとした。さすがにうるさく思ったか、男はモッソリ顔を上げ面倒臭そうに言った。
「君はここから電報は打てない」
私は、どうしてなのか、と少し強い調子で訊ねた。
「ここは電話局じゃない」
「えっ?」
私には彼の言っている意味がわからなかった。
「電報は電話局から打つんだよ」
「あっ!」
ようやく私は自分の誤りに気がついた。電報は郵便局からではなく、電話局から打つのだという。言われてみれば当然のことだった。私は恥ずかしくなり小さな声で訊ねた。
「電話局はどこにあるんでしょう」
すると相手は本物の笑い顔になって言った。
「どこでもいいんだよ」
「どういうことでしょうか…」
「電報は電話から打てるんだよ」
「!」

歩きながら次第に私はおかしくなってきた。電報は電話のあるところならどこからでも打てるらしい。ということはダラムサラのどこからでも可能ということになる。いやもうそこがダラムサラである必要はないのかもしれない。
クックックッと笑いが洩れそうになる。私はそれを抑えるのに苦労した。これからまだ旅を続けたって構わないのだ。旅を終えようと思ったところ、そこが私の中央郵便局なのだ。

私は近くの電話屋のボックスに入った。そして受話器を取り上げると1ルピーも入れずにダイヤルを廻した。
<725872-7258>
それはダイヤル盤についているアルファベットではこうなるはずだった。
SAKURA-SAKU
<サクラ咲ク>と。

2005年6月7日火曜日

そして奇跡は起こった

もう一台のカメラは長年愛用しているオリンパスのミュー・ズーム。
いわゆる普通の「バカチョンカメラ」というやつだ。

3ヶ月前インドのホーリー祭の時。
この祭りは色水をぶっ掛けあう狂った祭りである、というのは以前ここに書いた。
その色水はプラスチック製品や衣類に強力に浸透してしまって色が取れなくなるので宿の屋上で色水を掛け合う前に、ビニール袋の中にカメラと身に着けていたお守りの品々を外して入れておいたのだ。

ビシャビシャギャーギャーやっていたその時、一匹の大きなサルがノソッと寄って来てその大切なビニール袋を強奪してしまった。
ワーワー追っかけてもサルは屋根から木へとヒョイヒョイ飛び移ってしまって手が出せない。
サルは悠々と袋の中を調べるが、食べ物がないと知るとアッサリその袋を放棄してしまった。
といってもそこは地上5階に匹敵する木の上。
あわれ私のカメラの入った袋は(重力加速度)×(地上に達するまでの時間)のスピードで地面に叩きつけられた…。

気を失いそうになる身を立て直し、ダッシュで階段を駆け下り、頑丈に施錠してある扉を「緊急事態だ!すぐ開けろ!!」と開けさせ、袋の所へ駆け寄る。
袋の中にはグチャグチャに潰れたカメラの残骸が……なかった。
プラスチック製のスライド式レンズカバーが割れて外れていたが、他は何にも問題なく作動する。
地上15mから落下してこれだけの損害で済むのか?!
そんなことってあるのか?!?!

しかし、同じく袋の中に入れてあった、以前チベットのラサを発つ時もらった石の腕輪がグシャッと潰されたようにひしゃげていた。
チベットのお寺で買った木製の数珠に傷がついていた。
この2つがクッションとなりカメラを守ってくれたというのか?!

今でもそのカメラはレンズカバーはないものの何の支障もなく写真を撮り続けている。
チベットの神様、ありがとう。
オリンパスの方々、ちょっとの間でもミノルタに浮気してしまった私をお許しください。
それ以降チベットとオリンパスの方向には足を向けて寝られない。
なるべくミノルタの方向に足を向けて寝るようにしている。

自転車空輸

よく聞かれる質問。
「自転車を飛行機に載せる時お金取られるんですか?」
答えは「NO」。
タイヤを外して梱包すれば、一般の預け荷物と同じ扱いとなる。
ただし引っ掛かってくるのは重量の方。
自転車本体だけなら15kgぐらいだが、諸々の付属品があるため。
アジア便エコノミー客は原則20kgまで。
25kgまでなら何も言われずに受け取ってくれ、
25-30kgだとちょっとシブイ顔をされるが「頼む!」で切り抜け、
30kgを超えると「減らせ」と言われ機内持ち込みに移す、
というのが今までのチェックインのパターンだった。
チェックインカウンターで秤に巨大な輪行バッグを載せるときは減量に失敗したボクサーの計量のような心境となり、揺れる数字を見ながら「頼む、30kgを超えないでくれ…」と祈るような心境になる。

で今回カルカッタ空港にて。
生意気にもシンガポール航空を選んだ私はカウンターに並んだ。
自分の番が来て、カートから輪行バッグを持ち上げる。
その時今まで持ったことのないとてつもない重量を両腕に感じた。
揺れが止まったデジタル数字が示したのは
「38.9kg」
係員、ため息一つ。「重すぎる」
私、引きつり顔で。「て、手荷物に移しますから…」

しかし、カウンターの陰には既に重量級の荷物でいっぱいの45Lのザック。アッサリ係員に見つかり
「これはデカ過ぎる。機内に持ち込むのは許さん。これも預け荷物にせよ。」
ドーン。
更に14kg。加えて52kg。弁解の余地なし。
示された超過重量代金、痛恨の160USドル。
「我々シンガポール航空は英国航空に準じた厳しいルールの元で運営しております。規則ですので払っていただかなければお客様を機内にご案内するわけにはまいりません」
インド人とは思えぬテキパキした反応の能面のような男が話す。
私はこの時ほど、機体はオンボロでサービスは最悪だが、規則はナアナアのアエロフロートやエアインディアを恋しく思ったことはない。

しかし私は戦った。
平身低頭、額の皮が剥けるほどカウンターに頭を擦りつけ30分ほど戦った。
戦果は多少あった。
160ドル→120ドル。
だが元々のチケット代330ドルと加えて計450ドル。
4時間のフライトに5か月分のインド生活費が吹っ飛んだ。
こうなったら機内でビール150本飲んで元を取ってやる!!
…つもりだったが9ヶ月ぶりのアルコールのせいで1本飲んだだけでフワフワになってしまっていた…。

2005年6月3日金曜日

スターウォーズと私

「スターウォーズ・エピソード3」をカルカッタで観てきました。
ヒンディー語あるいはベンガル語吹き替えで、ユアン・マグレガーが「チョロ!(行くぞ)」とか「アッチャー!(よし)」とか言うのを期待していったのですが、さすがここは国際都市カルカッタ、英語そのまんまでした。
そのせいかヒンディードンチャカ映画を見に来るような客層とちょっと違った
「ワシら英語も理解できるハイクラスですねん。忙しい身でんねんから、携帯電話は手放せまへん。」
といった人が多く、劇中ひっきりなしにあちこちで液晶画面がピカピカ光り、その度にロビーに出て行くので気が散って仕方がないですねん。

思い起こせば8年前、マーク・ハミル主演の「スターウォーズ・エピソード4・5・6」のデジタル再処理版(アラビア語吹き替え)は全てエジプトで観て、「エピソード1」(英語+日本語字幕)だけは日本で観たものの、「エピソード2」はニューヨーク(英語)と中国(中国語吹き替え)で。
そして今回「3」はインド(英語)。
私の旅には何故かスターウォーズがつきまとっているようで。

しかしながら「1・2・3」の最重要テーマである
「なぜダースベーダーはダークサイドにはしってしまったか?」
は結局理解できずじまい・・・。
オソマツ。

2005年6月1日水曜日

ブータンへ

「ブータン」と聞いて、ああ、あそこにあって、首都はティンプーね、と即答できる人は少ないのではないでしょうか。
ブータンは中国(チベット)とネパールとインドとバングラデシュに囲まれるようにひっそりと存在するチベット仏教を信仰する山国です。
半鎖国政策をとっていて、入国しようと思ったら一日に付き240ドル(!)のビザ代を払わねばならないので、貧乏旅行者には縁のないところですが、1ヶ所だけインドと国境を接する町が開放されているのでそこへ行ってきました。

そこは1つの町を横切るように国境線が引かれ、「ブータン版ベルリンの壁」とも言うべき幅2mくらいのドブ川が国境となっています。
若者はジャンプで飛び越えたりしていますが、町の中心にはちゃんとしたゲートがあって普通はそこを通ります。
地元民も外国人も何のチェックも無く自由に行き来しているのでインド側にモンゴロイド顔のブータン人やチベット僧がいたり、ブータン側にサリーのインド人がいたり、混ぜん一体となっている感じでどちらがどちらというような堅苦しいことはあまり感じません。

ただ、町で店に並ぶ品々を比較すると、国力の歴然たる差、というものを感じます。
しかし唯一、インド側には無くて、ブータン側にはこれでもか、とある品があります。
それは「酒」。
インドの食堂にはコーラやファンタが並べられていますが、ブータンの食堂にはビールにウイスキー。
スーパーマーケットでも冷えたビールが・・・
そういえばここ9ヶ月ほどアルコールは口にしていなかったなあ・・・。

2005年5月28日土曜日

交通ルールを守ろう!

カルカッタの街を自転車で走っていて、とある大きな交差点を渡ろうとしていた時のこと。
車の流れが一瞬なくなり、待っていた人がいっせいに渡り始める。
私もそれに続いて移動し、間もなく反対側の歩道へたどり着く、その時だった。

突然一人の男が私の自転車をガシッと掴み車道の方に引きずり出そうとする。
一瞬自転車泥棒かと思った。
しかし白昼堂々、周りには何十人も見ている中だ。
どうもそうではない。
途切れていた車の流れがまた迫ってきたのでとりあえず歩道につけたかったのだが、その男は執拗に食い下がって、なにやら大きな声でわめき続けている。
その声の中に「ポリス!ポリス!」というのが聞こえた。
向こうに交通ポリスの姿が見える。
そこでピンときた。
この男は信号無視した人を捕まえ、警察に引っ立てる役なのだ。
というと「春の交通安全週間、取り締まり実施中!」みたいだが、ようはポリとグルになってとった罰金(ワイロ)のおこぼれをいただこうという算段なのだろう。
インド警官の腐敗ぶりはこと有名なので、これはマズイことになった・・・
と思ったが、ポリのほうは私のほうをチラと見て外人なので面倒だと思ったのかすぐどこかへ行ってしまったが、その男だけはしつこくわめき続けた。
でもポリがいなけりゃこっちのもの。
弾みでブレーキのスプリングが外れたので
「お前のせいで自転車が壊れたじゃないか!」
と仰々しく自転車をひっくり返し、タイヤを外し大修理・・・
を見せかけているうち、男も諦めてどっかに行ってしまった。

道路上で私らがギャーギャーもめている間、周りの人はじっと見守るだけだったが(警察絡みなので止むを得ないだろう)、開放されたのを見ると「可哀想に、災難だったね、これからは気をつけなよ、ウンウン」と慰めてくれる。

信号無視したことは事実なので弁解の余地はないのだがこの国では渡らない方がおかしいし、誰もが、警官までもがそうしている。
バングラデシュ、インドの悪徳警官の話はこれでもか、というくらい聞かされてきただけに自分が危うくその被害を被りそうになり肝を冷やした。

赤信号はみんなで渡っても怖いときがあるのだ。

経済学入門

ここら辺りの国には、お金には大変興味はあるものの、経済にはいまいち暗い、という人がたくさんいる。
そういう人らとの代表的な会話例。

インド人:1米ドルは40ルピーで、1英ポンドは80ルピーだ。で、1日本円は何ルピーになるのだ?
私:0.4ルピーくらいですね。
インド人:そんなバカな!日本円がそんな安いわけないじゃないか!

この彼の言い分の根底にある理論は「通貨単位1」の持つ価値は、それぞれの国において同じである、というところにある。
つまり、インドで1ルピーで買えるのは飴玉2つだが、アメリカで1ドル払っても、イギリスで1ポンド払っても、ヨーロッパで1ユーロ払っても、日本で1円払っても、中国で1元払っても、タイで1バーツ払っても、サウジアラビアで1リエル払っても、買えるのは飴玉2つでなければならない。
そして1米ドル=40インドルピーというこの40倍の差がその国の経済力の差である、という考えにつながっていく。
だから世界で一番強い通貨は80倍の差がある英ポンドであり、日本円も、1円=0.4ルピーではなく60ルピーくらいあって当然なわけだ。
その考えでいくと、超インフレ国家トルコの経済力はインドの1千万分の1くらいしかないことになってしまう。
哀れトルコ国民よ。。

このとんでもない勘違いをしている人々は驚くほど多く、いろいろな人と話した感触からして、インド10億人のうち8億人はそう思っているだろう。
バングラ1.5億人のうち1.2億人はそう思っているだろう。

彼らに1円は間違いなく0.4ルピーの価値しかないことをわからせてやりたいのだが、そのためには「現地語で」間違いを説明する、というとてつもない難題を越えなければならない。
だから私はこう言ってしまうのだ。
「ごめん、私が勘違いしていたよ。1円は60ルピーだった・・・・」

2005年4月26日火曜日

今晩の献立は何にしようかしら・・・

今回のバラナシ滞在の4ヶ月間は、昼食・夕食は全て泊まっていた宿の家庭料理を食べた。
しかし宿の一家には申し訳ないが、この4ヶ月間の食生活は本当に苦痛だった。
メニューが5種類くらいしかないのである。

この家はおそらくインドの中流家庭の典型で、メシ自体は正直言って美味しい。
それにこのコラムで何度も書いているが、私は味の好みはうるさくない。
しかし5種類のひたすら繰り返しではやっぱり「飽き」が来てしまうのだ。
5種類、と言っても日本のように、今日はハンバーグ、明日は焼き魚、次は鍋料理・・・といったものではなく、昼食メニューはごはん・チャパティー(ペラペラパン)・ダール(豆汁)は毎日変わらず、付け合せの大さじ一杯分くらいのカレー味のおかずの具がイモだったり、豆だったり、ナスだったり・・・といっただけの変化なのだ。
夕食はさらにひどくて、チャパティーとイモカレー煮込みのみが連日。
おまけにこの家庭はピュアベジタリアンなので、卵・肉・魚、一切ご法度。
メニューの少ないのも無理ないか・・・

料理するお母ちゃん達も、料理番組見て新メニューを・・・なんて気は全くこれっぽっちも持ってないようで、料理してやるだけありがたいと思いな、って感じ。

今回は初めからバラナシ滞在は4ヶ月限定!と決めていたので何とか耐え抜いたが、もしこれが永久にだったら・・・と考えると心からインド人に生まれなくてよかったと思う。

それにしても、当のインド人はこんな食生活で満足しているのだろうか??と疑問に思っていたところ、ある象徴的なテレビCMを見た。
それはインド風ヤキソバを作るためのインスタント麺のCMなのだが、ストーリーはこんな感じ。

子供達:パパ、今日のご飯はなんだろうね?
パパ:チャパティーとカレー煮込みじゃないかな?
子供達:えー!またなのー!?(子供達ガッカリ顔)
  そこへエプロン姿のママがヤキソバのお皿を持って登場
ママ:今日はヤキソバなのよ!
パパ・子供達:わーい!ママ大好き!!

インド人だってやっぱりいろんなもの食いたいわな。

ボクねぱあるジンデス

道中、自転車を停め、メシ食ったり、休んでたりすると集まってきた地元インド人が話す声の中に「ネパリ、ネパリ」と言うのが聞こえる。
どうやら私のことをネパール人だと言っているようだ。
真っ黒に日焼けし、埃まみれで、この酷暑の中を、大荷物を載せて、自転車で行く。
一般インド人の想像する金満ニッポンとは遠くかけ離れた姿にネパールの奥地から来た行商人と思われても仕方あるまい。
ただしこれが一度や二度の話ではなく、自転車移動中の数十件、ほぼ100%の割合で「ネパール人」と言われたのはちょっと驚いた。

「日本人だ」と明かすと
「何でまたこのクソ暑い中を? 何かの罰なのか??」
なかなか理解してもらうのに苦労する。

これが、午後のこっちがクタクタになっている頃になると説明するのも億劫になってしまい、ある時「ネパール人」で通してみた。
設定はこう。
「私はカトマンズに住むシェルパ族。自転車のパーツを日本から輸入するビジネスをしている。だから今は休暇中の自転車旅行。東京にも2度行ったことがある。」

どうやら相手は完全に信じてしまったようで
「日本はどんな国だった? いい所か?」
とかいろいろ聞いてくる。
「シブヤという街にはこんな短いスカートを穿いて化粧をした16-18歳のストリートガールがいっぱいいたぞ!」と言うと
「いくらだろう?日本は金持ちの国だから2000円くらいではないか?」
といろいろ会話がはずんだ。

熱風吹きつけるある日の午後の話。

暑い所を走ると・・・

バラナシからカルカッタにやってきました。
今がインドでは一番暑い季節。
天気予報では連日40℃以上を伝えています。
しかしこれは「地面から1m離れた風通しの良い日陰」で測った温度なので、直射の元、アスファルトの照り返しの中ではプラス5-10℃くらいなものでしょうか。

当然そんな中を自転車で走るわけだからとっても暑いです。
吹きつけてくるのは熱風。
熱い風呂に入ると体を動かすよりジッとしていたほうが暑さを感じないように、この場合の熱風は苦痛でしかない。
ただ道中水だけはふんだんにあるので(井戸水)、それを頭からザバザバかぶってパンツまでビショ濡れになった状態で走れば気化熱が奪われてかなりヒンヤリ気持ちいい!
しかし天然の乾燥機の中を走っているようなものなので、15分もすればパリパリに乾ききってしまい、また熱風地獄。
井戸を見つけてはまたズブ濡れになり・・・をひたすら繰り返して何とか生き延びました。

水は一日で10L以上は飲んでいたでしょうか。
それでも汗(液体)は全くかかないし、小便も全然したくならない。
いったい水はどこへ行ってしまったのでしょう??

あと、これは走っている時の話ではなく、バラナシにいたときの話ですが、あるすごく暑い日、ちょっと熱っぽさを感じたので体温を測ろうと水銀体温計を取り出したところ、既に「40」の所まで水銀柱が伸びてました。
振って戻しても目前でミヨヨーンと「40」まで戻ってしまいます。
普段あまり見られない光景なので思わず自分の熱を測るのも忘れて何度も繰り返してしまいました。

2005年4月7日木曜日

インドを知る

蔵前仁一著「ホテルアジアの眠れない夜」の中に「威張るなビンボー旅行者」という項があって、そこには
「ビンボー旅行者の中には過剰に倹約に徹し『こうしないとインド民衆の真実は分からぬ』と説く人がいるが貧乏な民衆の誰一人として外国に来れるような『ビンボー旅行者』のことを自分たちと同じ貧乏人とは思っていない」とある。
これはまさにその通りであって否の打ち所はないのだが、全く別の観点から考えると、ビンボー旅行者というのはどのインド人よりもインドのことを知っている、あるいは知ることができる、といえると思う。

インドの列車には常時ギュウギュウ激混みの自由席車両から飛行機代よりも高い一等車両まである。
宿には南京虫ウジョウジョお布施式巡礼宿からマハラジャの邸宅を改造した宮殿ホテルまである。
ビンボー旅行者といっても胴巻きにはそれなりの金は入っているのだからちょっと奮発すれば物価の安いインドにおいては最高ランクの経験もできるのだ。
カーストにこだわることなく誰とでも普通に接することができる。
ヒンズー教の寺だって、イスラム教のモスクだって気兼ねなく入ることができる(異教徒入場禁止の所も多いが)。
広いインドの北から南までどこだって行ける(パーミッションが必要なところもある)。
その辺で知り合ったオッチャンの家でチャイをごちそうになることもあれば、日本に留学してるインド人の友人があれば上流階級のお宅で食事させてもらえることもあるだろう。

対してインド人の場合はどうだろう。
貧乏な庶民がマハラジャホテルに泊まれないのは明白として、金持ちが敢えて「貧乏暮らしを経験したい!」といって南京虫宿に泊まるとは考えられない。
カースト・宗教・男女性差によって行動も大きく制限されるだろう。

そう考えれば貧乏外国人の方がはるかに多種多様なインドを知ることができる立場にある訳だ。
もちろんこれは「広く浅く」知ることができるだけであって「狭いが深い」生活をしている彼らにかなわないことも事実ではあるのだが。

バラナシでホーリー その2


2年前と同じくバラナシでホーリーを迎えた。
ホーリーとは男女も年齢もカーストも関係なく無礼講で色水を掛け合うお祭りなのだが、ここバラナシにおいては無礼講の解釈の度が過ぎて破壊・強姦・殺人なんでもあり。
こと外国人は格好のターゲットなので宿はどこも終日外出厳禁になる。

という訳なので、おそらく世界中のどんなガイドブックや写真集にも「バラナシのホーリー」をまともに写したものはないのではないだろうか?
「危険な撮影」といえば真っ先に戦場カメラマンが思い浮かぶが、あれはあくまで戦争当事者の間に入った第三者的立場であって、石ころや木と同じようなもの。
もちろん流れ弾に当たれば死ぬが、狙われている訳ではない。
ところがバラナシでホーリーの時出歩けば、間違いなく集中砲火を浴びるのである。
周り全員が敵。
しかも何されたって「そんな時出歩く奴が悪い」と同情もされないだろう。

さあ、勇気あるカメラマン諸君、ピューリッツァー賞はここにある。
毎年3月の満月の晩、バラナシに集結せよ。

(写真:家の中にいればこの程度で済む)

2005年3月9日水曜日

人種

物心つき始めた頃、テレビなんかを見て、どうやらこの世には自分らとは異なる顔つきや異なる肌の色の人間がいることを知る。
肌の白い人=「アメリカ人」
肌の黒い人=「クロンボ」
自分らと似てるけど違う言葉を話す人=「ジャッキーチェン」

このあたりはインドの子供も同様に分類するようだが、日本人と決定的に違うのは、肌の白い人を見ると「イングリージェ(イギリス人)」と言うことだ。
長い植民地支配の影響だろうか。

以下はとある本で読んだ話なのだが、200年ほど前までは人類学者による人種分類法は
1.白人
2.黒人
3.黄色人種
4.野蛮人(!)
5.化け物(!!)
と大真面目に考えられていたそうである。

イエティよ永遠なれ。

牛角

先日ガンガー沿いのメインガート(ダシャシュワメード)で爆発事故があってインド人数名が死亡、外国人を含む数十名が怪我で病院に運ばれた。
そこはバラナシに来た人が、インド人外国人問わず間違いなく訪れる最重要ポイントなので、この程度の被害で済んだのが不思議なくらい。
警察の発表ではチャイ屋のガスボンベの爆発、となっているけど、そのあまりの破壊ぶりに爆弾テロの噂もある。
ニュースや新聞には白目をむいて倒れている死体とか飛び散った肉片とかがバンバン映りまくっていてマニアが見たら大喜びしそう。
わたしも久し振りに焼き肉が食べたくなりました。

追記
後日、バラナシのメイン寺(ビシュワナート・ゴールデンテンプル)近くはじめ計3個所で爆弾が発見された(不発)。
それとは別件で警官同士が大喧嘩をして5人死亡(←勝手に死ね)。
今日も何か起こりそうな予感のするステキな街、バラナシ。