蔵前仁一著「ホテルアジアの眠れない夜」の中に「威張るなビンボー旅行者」という項があって、そこには
「ビンボー旅行者の中には過剰に倹約に徹し『こうしないとインド民衆の真実は分からぬ』と説く人がいるが貧乏な民衆の誰一人として外国に来れるような『ビンボー旅行者』のことを自分たちと同じ貧乏人とは思っていない」とある。
これはまさにその通りであって否の打ち所はないのだが、全く別の観点から考えると、ビンボー旅行者というのはどのインド人よりもインドのことを知っている、あるいは知ることができる、といえると思う。
インドの列車には常時ギュウギュウ激混みの自由席車両から飛行機代よりも高い一等車両まである。
宿には南京虫ウジョウジョお布施式巡礼宿からマハラジャの邸宅を改造した宮殿ホテルまである。
ビンボー旅行者といっても胴巻きにはそれなりの金は入っているのだからちょっと奮発すれば物価の安いインドにおいては最高ランクの経験もできるのだ。
カーストにこだわることなく誰とでも普通に接することができる。
ヒンズー教の寺だって、イスラム教のモスクだって気兼ねなく入ることができる(異教徒入場禁止の所も多いが)。
広いインドの北から南までどこだって行ける(パーミッションが必要なところもある)。
その辺で知り合ったオッチャンの家でチャイをごちそうになることもあれば、日本に留学してるインド人の友人があれば上流階級のお宅で食事させてもらえることもあるだろう。
対してインド人の場合はどうだろう。
貧乏な庶民がマハラジャホテルに泊まれないのは明白として、金持ちが敢えて「貧乏暮らしを経験したい!」といって南京虫宿に泊まるとは考えられない。
カースト・宗教・男女性差によって行動も大きく制限されるだろう。
そう考えれば貧乏外国人の方がはるかに多種多様なインドを知ることができる立場にある訳だ。
もちろんこれは「広く浅く」知ることができるだけであって「狭いが深い」生活をしている彼らにかなわないことも事実ではあるのだが。
2005年4月7日木曜日
インドを知る