2004年1月29日木曜日

タイにはあってインドにはないもの

バンコクで夕暮れ時になると公園に大勢の人がやって来てジョギングしたり、サイクリングしたり、セパタクローしたり、エアロビクス(!)したりしています。
日本でもジムなどで頑張っている人が沢山いますが、よく考えてみればせっかく吸収したカロリーを自ら苦労して消費するなんて、なんと無駄な事なんでしょう!!
インドでは見たことない!

もちろんインドでも上流階級の人はカロリー過多ですが大抵なすがまま、ブヨブヨに太っています。
それが金持ちの証でもあるわけです。

あとタイにはあってインドにはないもの、それはペットフード。
スーパーの棚にずらり並ぶ「猫まっしぐら」。
富める国ならでは、ですね。

国によっては犬・猫自体が食われてしまうというのに・・・

2004年1月28日水曜日

ゾンビ

死体博物館に行ってきました。
寺もムエタイもオカマバーも行ってないけど、死体博物館には行ってきました。

ここはある病院の一角にある標本室のようなものでいろんな病気とか事故とかで死んだ人間のエグイ標本がこれでもかと並んでいます。
お食事中の方に申し訳ないので詳細は省きますがとにかくエグイです。

どうも私はこの手のエグイのが好きで、大学で東京に初めて来た際は、いの一番に目黒の寄生虫博物館に行きました。
「樹脂で固められた人間が輪切りの標本になっている」展が上野の博物館に来た時は学校をサボって見に行きました。
エジプトのミイラ室では食い入るように凝視し、絵葉書まで買ってしまいました。
イタリアのカタコンベ(地下墳墓)の何百体というタキシードやドレスを着たガイコツを見た時は夢に出てきてうなされました。

しかしこれは人間ではなく物体として見ているので平気な気分でいられるわけですが、お葬式の時に棺桶の窓からみんなで覗いて「あら綺麗なお顔、生きてるみたいねえ。」といったりするのはどうも・・・。
「死んでるよ!」と突っ込みたくなります。
見る方も見られる方も嫌だろうにねえ。

伊丹十三も映画「お葬式」で皮肉ってましたよね。

2004年1月23日金曜日

後日談 その2

旅に出る前に掛け捨ての海外旅行傷害保険をかけてあったので、現地での手術・入院代、日本への飛行機代、日本での入院・リハビリ代その他諸々、全て保険で払ってくれた。

その額、総額300万円!!
こりゃもう保険無しでは怖くて旅できませんわ!

後日談 その1

第8話にて、全身麻酔から目覚めたとき私の周りには大勢の医者や看護婦がいた。
そのときはどうも思わなかったのだけど、後日気になることを聞いた。

ごく稀にある事故らしいのだが、麻酔の量を間違えて多く入れてしまうとそのまま昏睡してしまって一生目覚めないのだとか。

もしかしてあの大勢の顔ぶれは
「こいつ全然目覚まさないじゃないか・・・」
という集まりだったのかも・・・??

あるいは、全裸(パンツも無し)にて手術を受けさせられたので
「やはり日本人のチ○コは小さかった!」
とみんなで話していたのか?!

2004年1月20日火曜日

第31話 大団円

病院にやって来た。
あの時は夜に入り、早朝に出ていったのでどんな所か分からなかったのだが来てみてビックリ。
庭・噴水付の豪華私立病院だったのだ。

懐かしい院内に入り、通りかかった人に当時一番よくしてくれた看護士さんの名前を伝えた。
しかしその人は数ヶ月前にここを辞めていたのだった。
残念な気持ちで帰ろうとすると、そこに白衣に身を包んだ男が通りかかった。
「あっ!」と声をあげたのは同時だった。

そう、その人は足の手術を担当し、入院中にいろいろ面倒を見てくれた主事の先生なのだ。
元気にピョンピョン走り回って見せるととても喜んでくれ、
「また事故ったらここに運んでもらえよ!」
とニコニコ話してくれた。
でもそれは勘弁。

・・・
2ヶ月後、ついに目的の地であるユーラシア大陸最西端、ロカ岬に立った。

         <完>

第30話 再訪

走り始めると不思議なことに気付いた。

覚えているのである、何もかも。
店、看板、道のカーブ具合、木、普段なら目に入ってくるだけで記憶には残らないちょっとした風景が全て。

そしてしばらく進むと、突然記憶にない風景が続くようになった。
そう、そここそが2年前事故に遭った場所に違いないのだ。
私は自転車を降り、辺りの草むらを探し回った。
もしかしてそこにクシャクシャになったあの自転車の残骸があるかもしれないと思ったからだ。

何度も何度も往復したが結局それをみつけることはできなかった。
トルコで最期を迎えてしまったあの愛車に静かに手を合わせた。
学生時代の思い出の全てを共有したあの自転車に。

気を取り直し、再び漕ぎ始めた。
次なる目的地はあの9日間入院した病院である。

第29話 復活

しかし一年間全く動くことのなかった足の筋肉はすっかり退化してしまっていた。
完全復活に向け、ピンポンダッシュや食い逃げなどの厳しいトレーニングを自らに課した。

そしてさらに時は流れ、事故から2年後の夏、私は再びトルコの大地に降り立った。
あの時、あの事故で中断してしまったあの旅を完結させるためである。

私は新しい自転車にまたがり、同じ道を走り始めた。

第28話 奇跡

3ヶ月の入院・リハビリ生活が続いた。
この間先生に言われたことは
「たとえ反応がなくても動くのを意識して念じろ。そうすれば神経の回復も早まる」
ということだった。

時は流れた。
あの忌まわしい事故から約一年後。
私はサザエさんを観ながらもはや日課となった自己リハビリをしていた。
動くことのない左足首に手をあてながら。

・・・はじめそれは脈だと思った。
あまりにも弱いピクピクとした動きだったから。
しかしその脈は自分の意思で動かすことができるのだ。

そう、これは脈ではない!
弱々しくはあるが紛れもない、筋肉の動きなのだ!
ついに、ついに復活したのだ!
トルコの医者が行った手術は成功していたのだ!
毎日毎日念じ続けた甲斐があった!

その甲斐あって、今では手を使わずともテーブルの上の灰皿を動かしたり、女子高生のスカートをめくったりできるようにもなった。
怪我の功名である。

第27話 更に真実

更に遅れて届いた事故証明書から事故発生の状況も明らかになる。

追越をかけた車は私に斜め前方から衝突する形になったため、私の体は道の脇に吹っ飛ばされた。
落ちた所が草地で、しかも顔面から落ちたため顔の表面を軽くこすっただけで済んだのだ。
だからそれで出来たカサブタも数日後にははがれている。(第16話参照)

もし落ちた所がアスファルトの上で、しかも後頭部から行っていたら今ごろはあの世行き、よくて植物人間か。

事故直後、右目が見えなくなったのは一時的なショックなためでこの日本帰国時点で既に回復していた。

また、右足ひざ裏の切れた個所も、その豪快なえぐれかたの割に神経切断程度で済んだのは奇跡であり、すぐ真横にある靭帯が切れていたら半年は歩行不可能、動脈が切れていたらオダブツか切断は免れなかったらしい。

第26話 真実

日本の病院にそのまま入院することになった。

こちらの担当の先生(もちろん日本人)にトルコの病院から預かってきた診断書・手術経過書・レントゲン写真などを渡す。
診断書などはもちろん全て英語で書いてあって読んでみようと思ったのだが、一分で眠くなってしまうような代物だったのでそのまま先生に渡した。

その結果、驚くべき事実が明らかになった。
まず私が日本の病院に真っ先に期待していたのは、この動かなくなってしまった足を何とかしてもらいたいということだった。
しかしそのための処置はもう既に完璧に済んでいたのだった。

つまり、私がガスでグースカ寝ている間にトルコのお医者様は切れた神経を顕微鏡で覗きながら縫合手術をしてくれていたのだ。
ただ神経というのは、切れたのを結んだからといってすぐに回復するわけじゃなくて、切れた個所から1日1ミリずつゆっくり感覚が戻っていくらしいのだ。
ひざから下、全て戻るまで約一年。

そう言われてみればトルコでの初めての回診のとき、医者はいろいろ説明してくれていたのだが私は頭が真っ白になってしまって全然聞いていなかっただけで、もしかしたらその辺も言ってくれていたのかもしれない。(第9話参照のこと)

第25話 賭け

ついに日本に着いてしまった。
しかし喜ぶのはまだ早い、大きな関門があった。
というのは、この時私のかばんの中には税関の人が見たら大喜びでカツアゲされてしまいそうな写真がたくさん載っている本が入っていたのである。

トルコを出る時病院の人にあげてしまおうとも考えたのだが、せっかく築いた日本人の信頼を本ごときで壊しちゃいかんと思い持って帰って来てしまった。
しかしもし税関で見つかった時には
「あなた、こんな姿になりながら何考えてるんですか?!」
と大目玉食らってしまう可能性もある。
これは大きな賭けであった。

で結果、税関はフリーパス。
こんなんだったら拳銃でも麻薬でも象牙でも何でも持ち込めたかも。
密輸に携わるみなさんは、私くらい体を張ってやってもらいたいもんである。

第24話 祭り

優しいスッチーが言う。
「もしトイレに行きたくなったら遠慮なくお申し付け下さい。肩をお貸ししますので。」

な、なにー!
これはぜひ遠慮なく肩をお借りしたい!
私は遠慮なく水やビールをがぶ飲みし、遠慮なく膀胱をいっぱいにさせ、遠慮なく言った。

「はいはーい!すみません!トイレに行きたいんですけど!」
「承知しました。少々お待ち下さいませ。」

あれれ?
スッチーはどこかに行ってしまった。
代わりにやって来たのは、フランス人大型スチュワード3人。
3人にひょいと担ぎ上げられ他の乗客の視線を浴びながら通路を運ばれる。

「祭りだ祭りだ!ケンカ神輿だ!ワッショイ!ワッショイ!」

神輿はトイレに到着したが、狭い室内で四苦八苦していると外から「ドンドンドン!大丈夫か?!何かあったのか?」と必要以上に気を遣ってくれて嬉しい限りであります。

もちろん帰りもケンカ神輿。
以降水分を控えたのはいうまでもない。

第23話 上客

パリの空港のラウンジでメシを食っていると(一応ビジネス客なので)同じ飛行機に乗るらしき日本人がドヤドヤやって来て、バカデカ声でゴルフの話とか下らぬシャレとか言いガハハと笑う。
別の所ではブランド品がどーのこーのとか免税店がどーのとか話すおばさん。
私は今からこういう人たちのいる国に行くのか、と思うと吐き気がしてきた。

ここから名古屋までの12時間はビジネスクラスの旅。
スチュワーデスは半分は日本人。
いろいろ丁寧に面倒みてくれ、気遣ってくれる。
自分はお金払っていないのにこんなにサービスしてもらっていいの?!と思うくらいで逆に恐縮してしまった。

2004年1月16日金曜日

第22話 世界の車窓から

飛行機の窓からはいろいろな風景が眺められる。

日の出の太陽でエーゲ海がキラキラと黄金色に輝いていた。
ギリシャの台地、アルプス山脈の険しい山々、フランスのパズルのような畑地帯。

細く道も見える。
もしかしたら自分はあの道を走っていたかもしれないのだ。
時速20kmでノロノロと。
それなのに今自分は1万m上空から時速800kmの速さでその道を見ているのだ。
なんでだ?どういうことなんだ?
窓の外の景色は悔しさの涙でにじんでしまった。

まもなく花の都パリに着く。

第21話 帰国の途

入院9日目、最終日。

早朝、いよいよ病院を出る。
ここから日本までの道のりは、

病院から最寄りの空港まで救急車

イスタンブールまで飛行機(トルコ航空・前後2席)

パリまで飛行機(エールフランス・前後2席)

名古屋まで飛行機(エールフランス・ビジネス横2席)

空港から名古屋の病院まで救急車

という豪華24時間の旅である。

飛行機の搭乗者名簿の「VIP」リストにはしっかり私の名前が載っていて乗り降り時などいろいろ面倒みてくれる。

また空港に着けば、私の名前の書いてあるプラカードを掲げた人が待っていてその人が乗り継ぎの手続きとかをやってくれるのだ。

だから名古屋の病院に着くまで私がやったことといえば、飛行機の席の横までつけられた車椅子からよいしょっと席に移動するだけ。
ただこれだけであった。

第20話 準備完了!

出発に備えての準備をする。
半年間一緒に旅してきた数々の品々。
でも全部持って帰るには重過ぎるので多くをここで処分した。
ほとんどは病室に出入りする人々がもらってくれた。
それらには折鶴と「ありがとう」の言葉を添えて。

明日日本に帰ることを話すと、みんな
「よかったねー!でも寂しいねえ。また来てね!」
と言ってくれ、うれしいのだが事故では来たくない。

中には見たことのない人まで混じっているので私が不思議そうな顔をしていると、その人は言った。
「私の声に聞き覚えがないかな?」
おー!その声は電話交換手の人ではないですか!
毎日のように話はしてたんだけど、わざわざ見送りに来てくれるとは感激!

みんな頼んでもほとんど仕事をしてくれない人達でイライラすることも多かったけど、ベッドから動けない私にとって時々現れる彼ら彼女らと話ができる時間は一時の安らぎであったことは確かだ。
病院という一種変わった世界の中にも感動的な出会いがあった。
まるでこの旅の最後を象徴するかのようだ。

そう、あと4時間後、一眠りした後にはここを出て日本への道が始まるのだから…

2004年1月15日木曜日

第19話 改造人間

入院8日目。

いよいよ明日日本に向け出発する。
朝、顔の手術担当の先生が来て、自分の作品の出来栄えを見て大変満足しておられた。
そして私の顔をあちこちなでたり押したりしてきた。
その指が目の下の所をグッと押したとき骨の方に痛みを感じたので
「痛イヨーセンセ〜!」
と言うと、先生はニコッと笑って
「君の顔のブロークンした骨はメタルワイヤーでつないである。そのワイヤーは永久にそのままだが心配はいらないよ。そう、君はこれからメタルマンなのだ!」
と冗談にしてはキツイことをおっしゃる。

空港の金属探知ゲートで裸になってもキンコンキンコン鳴り続ける自分の姿を想像してしまった。

2004年1月13日火曜日

第18話 洪水

私はベッドから一歩も降りられないので、何か用事があるときは頭のところにあるナースコールのボタンを押して看護婦さんに来てもらう。
しかしいつもは呼んでもいないのに勝手に来て話しして行くのに、こっちが用事があるときは全然来てくれないのだ。

ある時小便がしたくなってシビンを持って来てくれるよう頼もうとボタンを押すが、全く来る気配がない。
30分くらいしてようやく「どうかしたの〜?」とのん気にやって来た。

「早くシビンを!」
「ちょっと待ってね、男の人に頼むから」

そうなのだ、イスラム教のこの国では男のシモの世話は男の看護士がやるのだ。
当然彼は全然やってこない。
10分くらいしてようやく
「どうかしたのか?」

もうこの時には膀胱ははちきれんばかり。
やっと持ってきてくれたシビンにジョボジョボジョボ・・・

しかしあまりに待たされた私のお小水は、このビンには収まりきらずあふれ服を濡らしてしまったのだった。

教訓
「したくなりそうな30分前にはボタンを押せ」


<筆者注>
このネタは「旅行人」2002年6月号3ページに掲載

第17話 病院の日常

入院7日目。

保険会社から連絡があり、2日後に日本に帰る便が準備できたと伝えられた。
事故証明などの手配も整ったということで落ち着いて残りの時間を過ごせそうだ。

各方面への連絡も済み、自由な時間が多くなった。
でも暇で暇でしょうがない、というわけでもないのだ。
この病院は地中海に面したリゾートにある大病院で、ヨーロッパ方面の外国人もよく来る所らしいのだが、日本人がやってくるのは珍しいということで医者・看護婦・看護士・事務の人が特に用もないのに次々とやって来て世間話をしていくのだ。

というわけで暇つぶしの相手としてはもってこいなのだが・・

第16話 気分爽快

ここでは有り難いことに毎日体を拭いてくれる。
シャツも替えてくれる。
頭も洗ってくれる。

今日の体拭きは特に念入りだった。
抜糸が済んだこともあろう。
顔のすみずみまでゴシゴシ。
うれしいことにまだ生乾きのカサブタまではがそうとしてくれる。
顔はすっかりきれいになった。

次はシャツとズボンを脱がされ体と手足。
トルコの美人看護婦2人に手の先から足の先までゴシゴシされるのは天にも昇る気持ちだ。
ハンマーム(蒸し風呂)で毛むくじゃらのマッチョオヤジに垢すりされるのとはわけが違う。

体・手足もすっかりきれいになった。
さあて、次はいよいよメインのところですよ〜
ウヒャヒャ、これこそが正真正銘のトルコ風呂!
優しくお願いしますよ〜!

ア、アレ?!
おねえさま方はシーツを取り替えるとタオルを渡して出ていってしまった。
チッ、やっぱり駄目でしたか。
結局自分で拭きました。
しかもその後、痛む体を曲げてシャツを着るのにえらい難儀した。
トホホ、、

2004年1月12日月曜日

第15話 いつもより余計に・・・

入院6日目。

今朝、顔を縫ってあった糸が抜かれた。
それと鼻の骨折のために詰めてあった綿も抜かれた。

「じゃあ抜くよ」
ピンセットで鼻の穴の入り口の綿をちょっと引っ張った時ビックリした。
それにつながる感じが目の後ろの方まであるのだ。
そのまま引っ張られると、出てくる出てくる!
いったいいつまで続くのか?!
この先万国旗とかまで出てくるんじゃないかと思うくらい長い。
映画「トータルリコール」でシュワちゃんの鼻から発信機を引っ張り出すシーンがあったが、あれに負けないくらいのすごさだった。

結局小指の長さくらいの綿がすっぽり抜け出た。
眠っている時とはいえ、よくもまあこんなに詰め込んだものだなあ。

第14話 食い道楽

昨日から精力的に動き始めたし、精神的・肉体的に落ち着いてきたこともあろう。
今日は腹が減るという感覚が久し振りにあった。

数日前は見ただけで「オエッ」となった料理も今日はペロリ。
食事する楽しみが戻ってきた。
まあ受け入れる側は良くなったのだが出す側は相変わらずヒドイ。
今日のメニューは「パン、ご飯(バター炒め)、マカロニ(ケチャップ味)、ヨーグルトスープ(きゅうりが浮いている)」というほとんど炭水化物しかない食事が、全く同じメニューで昼夜2回出た。
日本の栄養士さんが見たら気絶しそうなバランスだ。
動物園のサルの方がましなものを食っているような気がする。

第13話 顔面麻痺

入院5日目。

昨日荷物が返ったことで視力の回復が可能となった。
それとともに鏡も戻り、事故後初めて自分の顔を見ることができた。
やはりショックだった。

しかしそのショックには2つの意味がある。
1つは当然のように、目の回りのあざ、右半分カサブタだらけで所々に縫った跡があるという惨めな顔。
そしてもう1つは意外に軽い怪我だったということだ。
実際見てみるまでは鼻の右側から唇にかけて何やらべったりと重いものが張りついているような感覚があった。
きっとカサブタの上に大きなバンソウコウでもあるのだと思っていた。
しかし実際は何もなし。
つまりこの重い感覚はそうではなく、この部分の触覚が麻痺してしまったために起こっていたのだ。
足だけでなく顔面の一部の感覚まで失ってしまった。
少なからずショックだった。

まあここでも不幸中の幸いというか、顔の縦に細い部分の麻痺だけに表情を失うことも無さそうだし、目・鼻・口も正常に動きそうだし、日常生活には問題無さそうだ。

第12話 連絡

荷物が返ってきたことで突然忙しくなった。
各方面への電話連絡ができるようになったのだ。
日本の実家へ、友人宅へ、そして保険会社へ。
トルコの日本大使館へ、警察へ。

ベッドからは一歩も下りられない状態なので枕もとの電話から病院の交換手を通して電話する。
電話回線が貧弱なのでなかなかつながらなくてもどかしい。

保険会社。
非常に親身に対応してくれてありがたかった。
諸々の治療費、輸送費、帰国の手配、リハビリ代、全て面倒みてくれることになった。
自分では何もできない今の状況でこれ以上の助けはない。
ありがとうございました。

大使館。
日本人大使館員が出て、全く感情のこもっていない機械的な対応で事務的なことだけ質問してきた。
「あなたのいる所はイスタンブールの領事館の受け持ちなのでそちらに連絡してください。」
ガチャ、ツーツー。
最後まで機械的な対応で締めくくりやがった。
死ね。

気を取り直して領事館。
こちらでは人間的な対応をしてくれ、警察・軍隊への証明書の発行などのサポートをしてくれることになった。
以前イスタンブールの領事館に手紙を取りに行った時、超豪華ホテル別館ワンフロア−貸し切って使っているのを見て外務省の贅沢さにあきれたものだったが、今回の対応の素早さに、それくらいは免じてやるものとする。

やはり気が重いのは日本の家族・友人への連絡である。
ドヨ〜ンとした感じで伝えるのも嫌だし明るくバカっぽく伝えるのも変だし・・・
冷静に事実だけを伝えることにした。

2004年1月11日日曜日

第11話 視界良好

入院4日目。

足への心配が多少薄らいだことと反比例するように右目への不安感が強くなっていった。
事故直後の視界の中心が全く見えない、というようなひどい状況からはかなり回復したものの以前より遥かに視力が落ちているのが分かる。
オマケに近い所にあるものに焦点が合いにくい。
これはメガネで矯正可能なのだろうか。
ちょっと、いやかなり心配である。

さらに不安なこともある。
それは、事故の後体一つで搬送されたため今は荷物どころかパスポートもお金も何も持っていないということだ。
これでは支払いどころか自分が何者であるのかの証明すらできない。

しかしこの日の夕方やっとのこさ荷物が戻ってきた。
事故処理の管轄は軍隊にあるようで軍服姿の人が荷物を運んでくれた。
一部無くなっているものもあったが、チップということで大目にみてしんぜよう。

事故の衝撃を物語るかのように、プラスチックのケースはバキバキに割れ、缶のケースはベコベコにへこんでいた。

この時は私をはねた車の人と、警察も来ていて通訳を通していろいろ事務上のお願いもできた。
なんか事が良い方へ急展開しているようでうれしかった。

2004年1月10日土曜日

第10話 希望の光

入院3日目。

なんとわずかであるが左足の指が動いた。
ピクピクとではあるが動いたのだ。
やっぱり私はついているなあ、先生、看護婦さん、見てよ!この足!
ほら!ほら!動くでしょ!

・・・というところで目が覚めた。
ぼんやりした頭で左足に神経を集中してみた。
何も感じない。
ピクリとも動かない。
そんな事起こるわけないよなあ、とあきらめの思い。
夢にまで出るほどのショックであることの悲しさ。

しかしいつまでもクヨクヨしていては埒があかない。
この事態を少しでも良い方向に向けられるよう考えねば。
幸いなことにひざより上は大丈夫だ。
アキレス腱も正常である。
おそらく普通に立ち上がることは難無いだろう。
あとはブラブラになる足首をテーピングなどで固定すればいいのではないか。
そうすれば多少不格好でも歩くことはできそうだ。

そう考えていたらこんな怪我たいした怪我じゃないような気がしてきた。
それより逆にこの怪我をなんとかうまく利用できないものか。
障害者手帳とって、電車に只で乗れたりしないかな。
18切符ともこれでおさらばだぜ!
何だかウキウキしてきたぞ!

しかしこのウキウキ感も心の底からの本物のウキウキ感ではないことは充分過ぎるほどその時の私には分かっていた。

2004年1月8日木曜日

第9話 検診

入院2日目。

朝の検診でドクターがやってきて包帯を取り替えたりひざの調子を診たりしていた。
彼は何も言わず黙々としているのでこっちから聞いてみた。

「左足の骨はどうだったんですか?」
「君の足の骨はNOブロークンだ」

そうか、骨は大丈夫だったのか。
しかしもう一つ昨日の夕方頃から気になっていたことがあった。
それはしびれたままの左足である。
包帯でグルグル巻きにされた足でも、ひざは微妙に前後に動く。
しかし足首や足の指は後方へ曲げることはできてもそれを戻すことができないのだ。
そのことをドクターに聞いてみた。
すると包帯の先に少し出ている指をペンでツンツンし、動かしてみろ、と言う。
しかし曲げれても戻せないことを説明すると悲しそうに首を振りまたよく分からぬ言葉でフニャフニャ話し出した。
その中に「Cut」と言う単語だけが強い衝撃を伴って耳に入ってきた。
神経が切れてしまって動かないことを説明していることは明らかだった。

私は再び聞いてみた。
「それは復活しないのか?」
「No」

事故が発生して以来私は常に気を強く持ち続けてきた。
一人で全てやらねばならぬ、今動きを止めては何も前進しないからだ。
ただ、この時初めてうろたえた。

もうあの足の感覚は永久に戻らないのか?
自由に歩いたり走ったり跳びまわったり野球したりサッカーしたり、そして自転車に乗って世界を旅することももうできないのか?
私は一生身体障害者のレッテルを貼られ不自由な生活を送らねばならないのか?

なんとなく覚悟していたとはいえ、現実に言葉に出して言われた時のショックはここに書き記すことはできない。
私の乏しい表現能力ではこの深い悲しみを表すことはできないくらいのショックなのだ。

その日1日色々な事が頭をよぎり去っていった。
今となってはもう覚えていない。
覚えていたとしてもここに書き切れない程のことを考えていただろう。

ただその日、ズタズタにされた体を心を少し癒してくれたことは事故の加害者、つまり反対車線に飛び出し、私をはね、町の病院まで輸送してくれたオッサンら三人が見舞いに来たことだった。

第8話 目覚め

目が覚めた。
何だかすごく明るい部屋にいた。
ここはどこだろう?
そうだ、トルコだ、そして確か車にはねられ病院に連れてこられたのだ。
そしていい気分のガスを吸ったのだ。
ということはここは手術室だな。
はあ、これから足の手術か、痛いだろうな、嫌だな。
いろいろ考えた。
そして横にいた看護婦さんに聞いてみた。

「私のオペは?」
「終わったわよ」
「へ?!?!」

ビックリした。
確かに妙に明るいと思ったのは体を照らすライトの光ではなく窓から入ってくる日光の光だった。
妙に重く感じていた左足は、痛みのためではなくギプスと包帯のためであった。
体は硬い手術台ではなく、柔らかいベッドと枕の上に横たわっていた。
全てが終わっていたのだ。
全身麻酔の威力がここまですさまじいとは思わなかった。

でもこの日はその余波を受け一日中眠かった。
食事が配られても「ありがとう」と言った直後に寝ていたし、もう食べ終わったと思って食器を下げに来たときに目覚めて「は、今食べます!」と体を動かしたところで再びお眠り。
三度目に「いいかげんに食べなさい!」と怒られやっと口をつけることとなった。
でもあんまり美味いものではなく食欲も無いので、ほとんど無理矢理口に押し込んでいたようなものだ。

とにかく一日中眠くて食事以外はひたすら眠っていた。

2004年1月7日水曜日

第7話 本番

さっきの部屋に戻り顔面の裂傷部を縫う手術をした。
チクチクチクと、まあ手際よく顔の手術は終了。

さていよいよ足の方かな、と思ったら私がさっき夕食を食べたばかりだというのでしばらく待つことになってしまった。
仕方ないのでその先生相手に今までの旅のバカ話をしたところゲラゲラウケてくれたのはよかったのだけどこっちは顔も足もグチャグチャの状態なのでつらいところ。

ネタも尽きかけたところでやっと
「それではそろそろオペします、フニャララ」
とまた流暢な英語で説明された。
相変わらず理解できてないけど、彼に任せておけば大丈夫だろう。
でもいちおう最後に彼に言っておいた。
「Don't cut my left leg!」

明るい手術室に入るとすぐ顔前に「シュー!」と音を立てるガスマスクのようなものが近づけられた。
「これは眠るためのもの?」
「Yes」
「それじゃ、おやすみなさい」
そう言ってこの気体を胸一杯吸い込んだ。

うおー!すごくいい気持ち!
体中の痛みがスゥーと消え、まさに天にも昇る気持ち!
どんな麻薬もこれにはかなわないだろう!
こりゃいっぱい吸っとかなきゃ損だ!
と二口目を吸いこんでいる最中、私の意識は百億万光年遥か彼方に飛んでいった。

第6話 開始

担架(キャスター付)に乗せられ救急口から中に入り病院の廊下を駆け足で進んでゆく。
流れゆく天井を見ながら「ううむ、テレビドラマみたいだな」と思った。
しかしドラマと違うのは、勢いよすぎて曲り角で壁にぶつかったり押し戸の部屋に入ろうとしたが扉に鍵がかかっていて激突したりすること。
そのたびに担架の上でのたうちわまる私であった。

とりあえず検査室のようなところに入り応急処置が施された。
落ち着いた雰囲気の先生が来て、落ち着いた感じで英語で説明された。
でも専門用語が多く私の達者な理解力を持ってしてもあまり理解できず、とりあえず
「ウンウン、サインですね、ハイしましたよ、もうさっさと麻酔でもしてこの痛みから開放してくださいな」
と投げやりにはなってないがとにかく何かしてもらいたかった。

担架は再びテレビドラマ風にX線室に向かい何ヶ所か写真を撮った。
そこの係の兄ちゃんが涙が出るほど不親切で、こっちの体がボロボロなの知ってるくせに
「さあこっちの台に移って!」
「もっと横だよ!」
「ハイひっくり返って!」
「もっと下へもっと下へ!」
とやたらうるさい。
少しは優しくしてもらいたいもんだ。

2004年1月6日火曜日

第5話 再輸送

揺れる車の中で私は思っていた。
たった1000円くらいの宿代をケチったためにこのような惨事になってしまったのだ。
こんなバカ者はざらにはいないだろう。
事故を引き起こした無謀なナイトランの判断を下してしまった自分をひどく呪った。
直接の原因である、あの飛び出してきた車に対する怒りは不思議と無かった。
とにかく自分に腹を立てた。
自分をののしった。
自分を呪った。

救急車は舗装状態のよくない道を結構なスピードで進んでゆく。
だから時々跳ねたりして足へショックはかなりのもの。
途中数回止まり看護婦さんが私の様子を見に来てくれる。
この時足にはエアバッグのようなものが巻きつけられており圧迫しちゃいけないという配慮で1回おきに空気を出し入れしてくれるのだが、この人らの肺活量はかなり少ないらしく空気を一杯にしても圧迫どころかあんまりショック吸収すらしてくれない。
毎日エアマットを膨らませている私の強靭な肺をお貸ししたいくらいだったがそうもいかず歯がゆい。

空気を入れた時ですらそうなのだから抜いたときはもうひどいもんだ。
車がゴトンとなると足に激痛が。
何回目かの停車でもう我慢ならず、空気は抜かないでくれ!と頼もうとしたとき、目的の町に到着したのだった。

2004年1月5日月曜日

第4話 初診

担架に乗せられ広い部屋の中央に置かれた。
医者が来ていろいろ聞いてきた。
彼は私が頭を打っていることを心配していたようで、ひたすら「黙るな!話し続けろ!」と言う。
仕方ないので「エジプトからヨルダンシリアと自転車で・・・」とお決まりのトルコ語を披露した。
もちろんそんなの誰も聞いておらず、みんなドタバタドタバタ部屋を出入りしている。
そして大概の人が私の左足を見て「こりゃヒドイ!」みたいなことを言うので、これは相当なことになっているのかとドクターに聞いてみた。
「私の体には何が起こったんですか?」
「君の左足はブロークンしている。」
やっぱりか・・・

それにしてもどんなひどい状況になっているんだろう?
私は痛む体を無理に起こし自分の左足をその時始めて見てみた。
メガネは吹っ飛んでしまって無い。
右目は全然見えない。
そんな劣悪な視界状況の中でも私にははっきり見えた。
左足ふくらはぎの皮膚を突き破って中から赤黒い物体が飛び出しているのを・・・

結局その病院でやったことは左足に水をジャバジャバかけ顔を少し拭いたくらいで、これ以上は手におえましぇ〜〜んって感じでドクターから「君を大きな町の病院に輸送する」と告げられた。
そうだろう、その方がいいよ。こんなちっぽけな病院じゃ「こりゃ直せないからちょん切っちゃった方がいいな」ってなりかねないもんね。

私の体は今度は救急車に乗せられ大きな町に向かった。
ここからそこまでは山道を70km行かねばならない。

2004年1月4日日曜日

第3話 緊急輸送

車は近くの町に向かっていた。
軽い振動を体に受けながら自分の体について何がどんな状態なのか判断していた。

この時点で一番ひどいことになっているだろうと思われたのは顔面の右半分。
特に右眼球である。
左目を隠して右目だけで見てみると視界の中心部が全く見えない。
右目が失明という事態は想定せねばならないな、と思った。

口の中は大丈夫そうだ。
歯も揃っている。
両腕、指の関節を動かしてみる。
全て問題無し。
同様に右足も問題無し。
なんだ、意外と平気じゃないか。
ただ一つだけ気がかりなことがあった。
左足のふくらはぎに強い痛みと腫れを感じ始めていたことだった。
これはもしかしたら骨折しているかもしれないな、そうなったら入院も長くなり、ちょっとやっかいだな。

なんて思っているうち町の病院に到着した。

第2話 そしてそれは起こった

辺りはますます暗くなり道はどんどん細くなる。
そのうち町の終わりを印す看板も見え街灯も無くなった。
しかし交通量もそれほどではなく追い風なので頑張ればそのうちスタンドもあるだろう、それにもし見つからなくてもその辺の道端で寝ればいいや。
明日でトルコともお別れなのに最後に辛いことになっちゃったなあ・・・なんてことを考えながら先を急いでいた。

そんな時である。
前方から数台の車の照らすヘッドライトが見えた。
そして後方からも一台の車が来る。
このままだと逃げ場を失ってしまう!
横へそれねば危ない!
そう思った直後、横を通りすぎる車の列から一台の車が対向車線に飛び出してきた。
アッ!と思う暇はあったのだろうか?
その次には私の体は無残な形で道に転がっていた。
ヘッドライトの強烈な光と人々の声が聞こえる。
「ヤバンジュ(外人)!ヤバンジュ!」
それ以外にもワイワイ聞こえたがそれだけが聞き取れる単語だった。
どっかのおばさんだろう、ライトに照らされた私の顔を見て「ヒャッ!!」と悲鳴を上げていた。
自分でも感じていた。
生ぬるい液体が顔を滴り落ちるのを。

そして私のくしゃけた体は何人かに担ぎ上げられバンの荷台に押し込まれた。

2004年1月3日土曜日

第1話 それは涙で始まった

時は1997年9月4日。
当時私は大学一年間の休学中で地中海一周の自転車旅をしていた。
エジプトからトルコまで走り、そのトルコ生活も3ヶ月に近づいた。
そろそろ次国ギリシャに入るべく、エーゲ海沿いを行き明日国際フェリーに乗り、いよいよトルコともお別れになる予定になっていた。

トルコではほとんどがガソリンスタンドで泊めてもらい、それがよい出会いを生み、一番の思い出となっていた。
これがトルコ最後の夜なのだから、やっぱりこのパターンで締めたかった。

町はあったのだがここはリゾート地帯。
きっとホテル代も高いだろう。
まあちょっと走ればすぐスタンドもあるはずさ。
そこならまた新しい出会い、感動があるに違いない。
よし出発だ!

・・・と既に薄暗くなりかけた道に向かって私は走り出した。
その時、当然私は何も知らない。
その後何が起こるかについて。
それが出会いや感動ではなく、
今まで感じたことのない世界、
悪夢のような事態であることなど・・・