2007年12月29日土曜日

チベット鉄道


ラサから北京へは2006年に開通したあのチベット鉄道に乗っての移動。
超期待していたのだが結果は・・・、うーん、いまいち。
理由は明瞭。
暖かい車内にいて、その車窓から見る部分的に切り取られた風景というのは、まるで家でテレビでも見ているようなもので、既に幾度もあの大地を自転車で走り、フルパノラマの風景をこの目で見、寒さをこの肌で感じたことのある者にとってはすべてが物足らなく感じて当然なのだ。
未だチベットに行ったことの無い人が初めてラサに向かうときに乗ると本当に楽しめると思う。
実際他の乗客らも、もうこの風景には見飽きたか寝てる人ばかり。

この列車の売りの一つは、高地を走るため飛行機のように車内を与圧する装置がついていることだ。
密閉されているので全面禁煙のはずなのだが、なんと車掌が窓を開けてタバコを吸っていた・・・。
外の方が気圧が低いため煙は自動的に外へ流れていくので理にかなっているといえばかなっているのだが・・・。

お土産

今回でラサ訪問は4回目。
当然行けば行くほど知り合いは増えてくる。
毎回ラサを離れるときには各家庭を訪ねお別れの挨拶をするのだが、その際「餞別に」とツァンパをいただく事が多い。
私が自転車旅中にはツァンパを常食していることを知っているからだ。
でも今回はそうじゃないので断るのだが「またまたそんな遠慮して!」とどうしても押し付けられてしまうので仕方なくいただくこと約10回。
出発前夜いざパッキングしようとしたところで青くなった。
「お、重すぎる・・」
貰うにまかせたツァンパ袋はいつしか10数kgに。
45Lのバックパックが完全に白い粉で一杯になってしまった。
仕方ないので農民ご用達のズダ袋にその他生活用品を入れ持ち帰る羽目に。
今回往路は中国人チベット人へのお土産で一杯で、すべて渡し切った復路は軽々と帰って来られるはずだったのに。
うれしい誤算?!

チベットの恩返しその5『父と娘』のその後

今回のラサ訪問最大の目的は3月に訪れたインド・ダラムサラの学校で撮った娘の写真を父へ手渡すことにあった。(これについては9つ前のコラムをお読み下さい)

5:00PM
オヤジに電話。ラサに来たことを伝えると「すぐ宿まで迎えに行く!」
5:10PM
オヤジに再会。立ち話は何なので飲み屋へ行こうと言われる。
5:20PM
席について娘の写真を渡す。
ダラムサラで娘に会った時のことを話す。
両親を想い涙を流したこと、ラサへ戻って一目でもいいから会いたいと言ったこと、学校の様子、寮の様子、日々の生活、などなど私が見たこと聞いたことをそのまま伝えた。
オヤジの目から涙があふれた。
男泣きを見た。
5:40PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれる。
7:00PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
8:00PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
9:00PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
10:00PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
11:00PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれようとしたら店の女将から「アンタ達いい加減にしなさい。もう閉店よ」と追い出される。
11:10PM
他の店をいくらかあたるがどこも閉まっているので、ならばうちへ来いと言われお邪魔する。
11:20PM
部屋に飾ってある娘の写真を見ながら「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれる。
0:00AM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
1:00AM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
2:00AM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれようとしたが、さすがに2人とも飲みすぎで眠くなりそのまま倒れこむように寝る。
・・・・・・
11:00AM
目が覚めてそのまま出かける。どこへいくかと思ったら飲み屋だった・・・。
そして「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれる。
12:00AM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
2:00PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれ続ける。
4:00PM
「ありがとう、ありがとう」とビールやチャンをつがれそうになったが、これ以上感謝されたら死ぬと思い、おいとまする。

以上計約13時間口に入れたのはビールとチャンのみ。
感謝してくれるのは全くもって嬉しいことなのだが、はじめの2時間以降は苦痛でしかなかった・・・。

ちなみに今回も娘に送るためにオヤジの写真を撮ったのだが、写っているのは酔っ払ってる姿ばかり・・・。

(写真:オヤジ。飲みすぎるなよー)

トラップ

今回のラサ入りは雲南省から2泊3日の直行寝台バスにて。
このバスのフシギなところは、雲南のバス停では外国人だろうが何人だろうが誰でもチケットが買える(窓口の係が英語で対応してくれる)のに、「やったー!これで安くラサへ行ける!」と喜んだのもつかの間、途中に外国人狩りの検問があること。
見つかると5000円程度の罰金を払わされることもある。
窓口と公安の連係プレーとしか思えないのだが…。

私が乗車した時は、40人乗りの車内に外国人は私一人だけ。他に中国人旅行者が2人で、あとは全員チベット人だった。
しかしそのチベット人のうち10人くらいはこれからインドへ亡命するつもりという人で、更にそのうち4人はインド帰りで身分証無し、というかなり見つかるとヤバイ人々。
運ちゃんもチベタンで、そういう人らの対処は慣れているのか、早朝に検問所に着いた時にその訳アリな人々(もちろん私もその一人)を起こして「1kmくらい向こうまで歩け」と指示し車から追い出し、その後公安を起こしに行って乗客全員の身分証チェックを済ませたあと再び我々を拾ってくれた。

鉄道によるラサ入りも、パーミット代払った人払ってない人まちまちで未だ統一されていない。いかにも中国的。

2007年4月13日金曜日

ボクが日本に帰りたくない理由 その後

東京ではマスクをかけている人を多く見かけたにもかかわらず、自分には何の異常も起こらなかった。結婚式の超豪華メニューも存分に満喫できた。やはり暇なとき散歩ついでにマニ車回したりするような信心深さが効いたとみえる。花粉症はなったら一生お付き合い、の定説を覆し、我が身に奇跡が起こった!!

で、名古屋に向けて自走中、浜松辺りでキコキコやっている時。そう言えばさっきから何か目が痒い。ゴミでも入ったかな?いや待てよ、この口辺りのモゾモゾ感……、これはもしや?!?!

あーあ、一年で最も快適なはずの季節は、やっぱり不快な季節のままだった…。

16年ぶりの東海道

今から16年前、大学一年の私は夏休みに東京→名古屋の自走帰省をした。東京を深夜3時に出発し、夜は静岡掛川で一泊、翌日昼には名古屋に着いた。空荷であったが真夏だったのでさすがにバテた。

あれから時は流れ、私も「中年」印の棺おけに半分(全部?)体を突っ込み、白髪も増えた。その老体に鞭打ってこの長い旅のラストを締めくくるために久々の自走を決行した。全舗装・峠一つとはいえ約400kmの距離がある。まあ3-4日もあれば充分だろうと出発したのだが…。
軽い軽い、体が軽い!インドから帰ったままの重量級荷物に加え、帰国直後に結婚式に参列したため礼服・引き出物まで持っているのに、東京朝8時発、宿泊無しの徹夜で翌日の午前9時に名古屋に着いてしまった。我ながら凄いと思う(自我自賛ですみません)。

それにしてもチベットを横断するサイクリストは世界に数多かれど、礼服・引き出物をぶら下げてツーリングする人はそうはいないとみた。

浦島太郎

日本に帰って驚いたこと。

●自転車で走るのがえらくおっそろしいこと:車道が狭く、車がスレスレを凄いスピードで通り抜けていくので、インド・中国の荒っぽい運転よりも遥かに圧迫感を感じる。

●町が静かなこと:車は多い、人も多い、店も開いている、でもシーンとしている。車は無用なクラクションを一切鳴らさないし、人々はケータイに夢中、話し声も囁くような小声。まるでゴーストタウンのよう。

●そして最も驚いたこと、それは驚くような変化がなかったこと:もちろん細かい所では変化がある。しかし中国の1-2年で古い町並みが一掃され、全く面影もない新しい町が忽然と出現するような変化をこれでもかと見せられた今では、日本の変化など無いに等しい…。

最後の関門

タバコみたいだけどそうじゃなくて幻聴が聞こえたりするような枯草を持っている人、写真集のようだけど写っている人が全然服を着ていないような本を持っている人、彼らにとって最も怖いもの、それは世界最高の眼力を持つと言われる日本の税関。あのヘビのような無表情の目で睨まれれば、何もやましい物を持っていなくてもこちらはすくみ上がったカエルも同然。
今回怪しいものは全く持ち帰ってないんだけど、さすがに5年日本を離れ、うちインドに3回、一年半も滞在しているのだから、問答無用の別室送りは免れないと覚悟していた。

係:どちらへ?
私:中国とチベットとインドとどことそことあそこと…
係:え?それ全部自転車で行ったんですか?!しかも5年ですか?!?!すごいですねー!!お疲れ様でした!はい、パスポート。
私:…。

以上。
やはり日本の税関は善悪見極める世界最高の眼力をお持ちのようで!!

2007年4月10日火曜日

帰国報告

2007年4月7日、5年間の世界(といってもチベットとその周辺諸国だけなのだが…)自転車旅を終えて日本に帰ってきました。
日本に帰ってきてまずは吉野家で牛丼を食べました。
牛丼(ほぼ)復活、おめでたいことですね。

それではこれからもよろしくお願いします。

2007年4月3日火曜日

ボクが日本へ帰りたくない理由(わけ)

この旅を始める直前の2002年春、過去にない体の不調を感じた私に、担当の医師は死刑宣告にも等しい告知をした。
「花粉症ですね」
風邪でもないのに鼻水が止まらず、悲しくもないのに涙が流れていたのだ。

しかし以来5年間日本で春を過ごすことがなかったためにあの苦痛は忘れかけていた。だが間もなくの帰国は恐らく花粉真っ只中の4月7日。しかもその翌日は友人の結婚式に出ることになっている。ツァンパやターリーじゃなくて、舌鼓をポンポコ200回くらい打ちたくなるような美味しい料理を久々に味わうことができるはずなのに鼻グズグズに詰まって味なしではあまりにも悲しい・・・。

私にとってはインド大都市の地獄の大気汚染よりもスギ花粉の方が大敵なのだ。

チベットの恩返し その5『父と娘』


それはラサでの馴染みのチベタン飲み屋から帰ろうとした時だ。帰り道一緒になった客のオヤジがこっそりオレに告げてきた。
「実は私の娘が今インド・ダラムサラの学校で勉強している。6年前に亡命させたのだが、それ以来娘の姿を見ていない。お前はこの後ダラムサラへ行くのだろう?娘の学校を訪ね、成長した姿を写真に撮ってラサへ送ってくれ。」
この手の頼まれ事はもうお手の物だ。二つ返事で承諾し、オヤジの写真もそこで撮っておき、オレはダラムサラへ向かった。

そしてその亡命チベット人の子どもが多く寄宿している学校へやって来た(実はその学校はダラムサラにはなく、100kmくらい離れた所にあって探し出すのに随分苦労したのだが・・・)。そこの先生に事情を話し、その娘の名を告げるとすぐさま連れて来てくれた。15歳の小柄な女の子だった。
ラサであなたのお父さんに会いましたよ、と写真を渡すとそれだけで止め処もなく涙が彼女の頬を伝った。思わずこちらももらい泣きしてしまいそうになるのを堪え、彼女の話を聞く。
「少しの間だけでもいいからラサに帰ってお父さんお母さんに会いたい」
パスポート無しの亡命の身分ではそれはちと難しいかも・・・とはとても言えず、ご両親はあなたがここで頑張って勉強し続けることを望んでいるはずだよ、と言うと、
「じゃあ頑張って勉強して大学卒業してからラサへ帰る!」
と力強く答えてくれた。

彼女が立派に学を修め、堂々と祖国へ凱旋できることを強く願いつつ、オレは帰路についた。獅子の描かれたチベットの国旗がポタラ宮の上にはためくことを夢見ながら・・・。

(写真:中央が娘。両脇も亡命してきた子供たち)

あとは帰るだけ

涼しく快適だったダラムサラをあとにし、インドの首都デリーにやって来た。
山から下界へ下りて来てみると既にそこは40℃近い灼熱地獄。
2ヶ月間ダラムサラで充分すぎる静養をとってしまったために、この暑さは体にこたえた。
しかしこれでもうお仕舞いだ、と思うと多少無理も効いて、その炎天下の中150km以上を連日走り続けた。さすがにバテた。
でももうあとは日本に向けて飛ぶ日を待つだけだ。

2007年3月20日火曜日

真説・法王に謁見


それは乾季にもかかわらず冷たい雨の降り続く日だった。
私を含めた日本人30人、他に韓国・台湾・ベトナムなどのアジア仏教国の人々のための特別謁見が王宮で行われた。普段は固く閉ざされた門の奥深くにある謁見の間に通された我々は、法王の到着するのを祝福のカター(白い布)を手にじっと待つ。やがて侍従に付き添われ法王が現れた。優しい笑顔で有り難いお言葉を頂く。
「皆さんの国の仏教の歴史に比べ我々チベットの仏教の歴史は短い(チベットに仏教伝来したのは7世紀)ので皆さんの方が先輩です」と言って深く頭を下げられた。その姿に自称仏教徒の私をはじめ一同驚いてしまい慌てて頭を垂れるが、顔を上げてみるとまだラマは深々と頭を下げており、更に驚いて頭を下げた。

して国ごとに一緒に記念撮影。撮影が終わるとみなラマに群がってその手を握る。ラマの手は73歳とは思えぬくらい柔らかく福よかで、そして温かかった。
その手を握った時、私の5年弱の旅もこれで本当に気持ち良く終わることが出来るな、と思った。

2007年3月18日日曜日

チベットの恩返し その4 『幸せ配達人』

私がダラムサラに来た目的の一つが小包配達であった。
その荷物は、ラサのお寺にいる尼さんに私がこれからダラムサラへ行くということを話した際、「それなら私の兄(僧侶)が亡命してそこの寺にいるので荷物を届けてほしい」と託された物だった。

チベット(中国領)⇔ダラムサラ(インド領)でも電話で話すことはでき(もちろん中国当局により盗聴されている)、手紙も送れるし(もちろん検閲される、そしてたまに消える。私が以前インド→ラサで出した手紙は届いていなかった)、荷物も送れる(がやっぱり開封される)。
しかし何といっても確実なのは郵便局を通さず人の手を通しての配達だろう、ということで私に白羽の矢が立ったわけだ。

果たしてどんな大切な物を託されるのだろう?とドキドキしながら取りに行ってみると、渡されたものは何と「豆」。
しかも小型枕くらいの大きさでかなり重い。
これからヒマラヤ越えねばならぬのに…と少々たじろいでしまったが「この豆はロサール(チベット正月)のお供え物として欠かせないのですが、インドでは採れないものなのです」と説明され俄然やる気が起きた。絶対届けます!!

という訳でその豆担いでヒマラヤ越えてタライ平原を西に突っ切って標高1800mのダラムサラへ到着した。
あとはその人のいる寺へ行って渡すだけなのだが、数千人規模の亡命僧のいる寺もいくつかあるくらいなので探すのに四苦八苦するかも、と心配していたが、その寺内でブラブラしていた坊さんに名を告げるとアッサリ見つけ出してくれ、アッサリ手渡すことに成功した。
通じる言葉がチベット語しかなかったので説明するのが大変かと思われたが、その妹(ラサの尼)の写真と共に渡すとすぐ理解してくれた。
どうもありがとう、と出してくれたコーヒーはインド風のとても甘い味だった。

9年振りに添えられた豆と共に2月18日、チベットの新年は明けた。

(写真:ラサに住む妹(左)とダラムサラに住む兄(右))

法王に謁見

重厚な扉には50数年前この地球上から公式的に姿を消してしまった国の国旗がモールドされていた。私は緊張に手を震わせながらその扉をノックした。中から低い声で「どうぞ」と聞こえ、私はその重い扉を開いた。

彼はゆったりとした椅子に深く腰掛けたまま静かな笑みをたたえていた。私達はしばらく近況を報告しあった。話題が途切れたのを見計らって、私は以前からあたためていた事を意を決して切り出した。

「法王!2008年の北京オリンピックの開会式にはぜひインド選手団の旗手となってチベット国旗を掲げ堂々入場してください!忌まわしき中国共産党の度肝を抜き、チベット独立を世界にアピールする最大のチャンスです!」

あまりの唐突な申し出にさすがの彼も驚きの表情を隠せず、沈黙のまま遠く東の方を見つめた。それは、そう、本来彼の住むべき天空の城のある方角だった。

どれくらいの沈黙が続いたろう。私はまんじりともせず彼の返事を待っていた。やがて彼はその遠くを見つめたまま、あの静かな菩薩の笑みを取り戻し、ゆっくりと、そして深くうなずいた。

(了)

非行よ非行よ

ついに最終目的地ダラムサラに着いた。
その足で私は郵便局に向かい局員に告げた。
「電報を打ちたいんですけど…用紙はどこにあるんですか?」
しかしカウンターのヒゲ面の太った典型的インド人のその男は、まるで私の声がまったく聞こえないかのように新聞に目を落とし続けている。私は台をバンバン叩き、足でボコボコ蹴って注意を引こうとした。さすがにうるさく思ったか、男はモッソリ顔を上げ面倒臭そうに言った。
「君はここから電報は打てない」
私は、どうしてなのか、と少し強い調子で訊ねた。
「ここは電話局じゃない」
「えっ?」
私には彼の言っている意味がわからなかった。
「電報は電話局から打つんだよ」
「あっ!」
ようやく私は自分の誤りに気がついた。電報は郵便局からではなく、電話局から打つのだという。言われてみれば当然のことだった。私は恥ずかしくなり小さな声で訊ねた。
「電話局はどこにあるんでしょう」
すると相手は本物の笑い顔になって言った。
「どこでもいいんだよ」
「どういうことでしょうか…」
「電報は電話から打てるんだよ」
「!」

歩きながら次第に私はおかしくなってきた。電報は電話のあるところならどこからでも打てるらしい。ということはダラムサラのどこからでも可能ということになる。いやもうそこがダラムサラである必要はないのかもしれない。
クックックッと笑いが洩れそうになる。私はそれを抑えるのに苦労した。これからまだ旅を続けたって構わないのだ。旅を終えようと思ったところ、そこが私の中央郵便局なのだ。

私は近くの電話屋のボックスに入った。そして受話器を取り上げると1ルピーも入れずにダイヤルを廻した。
<725872-7258>
それはダイヤル盤についているアルファベットではこうなるはずだった。
SAKURA-SAKU
<サクラ咲ク>と。

2007年1月2日火曜日

明けましておめでとうございます。

2002年6月に始めた旅も既に4年半が経ってしまいました。
まだやってるのか?!まだやるつもりなのか?!
と言われそうですが、まだやってるし、まだやります。
・・・と去年も書いたような気がしますが、今年もまだやってます。

チベット高原を横断すること3回、現在はインドの聖地の一つバラナシにいます。
ここで年を越すのもこの旅の中で3回目を数えることとなりました。
しかし私の旅も残すところあとわずか。
この後北インドのダラムサラへ行って、
ダライラマに会ってこの旅を締めくくろうと思っています。
日本帰国は3月頃になるでしょうか。

それでは2007年が皆様にとってよい年であることを祈ってます。
本年もよろしくお願いいたします