2004年12月16日木曜日

ありがたや、ありがたや


バラナシに2年ぶりにやって来て「今までどこで何してたんだ?」と聞かれたので
「本当はもっと早くインドに来るつもりだったのだがインド大使館がビザをくれないのでパキスタンとかチベットへ行って時間稼ぎしてたんだ。
ついでにカイラス山にも行ったよ。」と答えた。

すると急にみんなの顔付きが変わり
「何!カイラスに行った?! おーい、みんな集まれ!!!」
と、一家総出(20人くらい)で次々と私の前に膝まづき、水虫はないけど時々ウンコを踏んだりするとてもきれいとは言い難い足に触れ、ありがたがるではないか。

ヒンズー教徒にとっても、カイラス山はガンジス川の源として(本当は違うが)最大の聖地の一つであり、山の形をシヴァリンガ(男性のチンポコ)に見立て(かなり無理がある)崇め奉っている、ということは知っていたがここまで有り難がられるとは思ってもみなかった。

翌日には話を聞いた近所のジイさんとかもやって来て
「どれワシも冥土の土産に一触りさせてもらおうかの」
みたいな感じでペタペタ。

そこでピンと閃いた。
これはゼニになる!
1回1ルピー(2.5円)で触らせても、ヒンズー教徒人口は8億人くらいいるので20億円!!
こりゃ帰国は自家用ジェットだな。
ただし1人10秒ずつで1日4000人さばいたとしても、550年かかるが。

(写真:聖地チンポコ山)

2004年12月7日火曜日

食事の話

私はどんなものでもおいしく食べられてしまうくちなので旅先でも困ることが少ない。
ツァンパはまずい、と書いたけどあれはネタ上のことであって本当はおいしく食べている。
腐っているもの食べても、この料理はこういう変な味付けなんだな、ウマイ!と食べてしまって翌日腹壊す。
だから「この辺でウマイ店知ってますか?」と聞かれると大変に困ってしまう。
どこだって美味しく思えるからだ。

ただ、たった一つだけどうしても食べられないものがある。
それは「レバー」。
これはもうウマイ・マズイの話じゃなくて人間がプラスチックを食べられないように、私にはレバーは食べられないのだ。

で、ある時チベットで。
明らかに貧しそうなお宅に泊めてもらえることになった。
「今日は特別なお客さんだから、特別料理ですよー!」
てな感じでおかみさんがワザワザ買ってきたものは、バケツに山盛り入った理科の解剖実験直後のような内臓の山。
それを、素材の味を究極に活かし切る料理法「塩茹で」にしたものが私の前のさらにドサッと盛られた。
せっかくのもてなしを「これは食えません」などと言って断ることはできぬ。
オートリバースしてしまいそうなうごめく胃袋(私のね)を押さえつけ、冷や汗タラタラ、ひざガクガク、涙目になりながら何とか食べれば
「どう、おいしい?」
「はい、おいしいです」
ドサッ、再び山盛り・・・。

ゴミの話

日本では当たり前のように只で手に入り、身の周りにいくらでもあるが、他の国では手に入りづらい物。
ポケットティッシュなんか代表例かもしれない。

例えばインドなどで。
このコラムはどうでもいい紙に下書きしてからネット屋に行くのだけれど、この「どうでもいい紙」というのがなかなかないのだ。
日本では広告の裏、銀行とかで勝手にくれるメモ帳、職場・学校などで出るコピーの裏紙などチョチョイと書いてポイと捨てられる紙がいくらでもある。
が、インドにはない。
よって文具屋で雑記帳を買わねばならない。

例えば中国で。
スーパーでもらえるビニール袋。
荷物を濡らさぬよう個別でくるむのに多数必要なんだけど、中国ではこういう丈夫なビニール袋がなかなか手に入らないのだ。
もちろん商店で買い物すればビニール袋には入れてくれるんだけど、これがペラペラのヘナヘナで、枝付の果物(ブドウとか)など入れればアッという間に破れてしまう。
ある時砂糖を買って帰る途中、いつの間にか穴が開いてて宿に着く頃には半分くらい無くなっていた。
ロケット飛ばす前に丈夫な袋作れ!と言いたい。
以前は大きな町の大型スーパーならしっかりしたのが手に入ったのだが、今年ラサのスーパーに行ったら「環境保全どーたら」とかかれた紙袋を10円で買うシステムになっていた。
他の中国の街でもそうなっているのかもしれない。

多くの国で。
自転車のフレームに水筒として使う1.5Lのペットボトルをつけてある。
これは日本を出た時からずっと使い続けている日本製の物。
もちろんこちらにもペットボトルに入った水は売っているので新しいボトルはいくらでも手に入る。
しかし材質が薄くてすぐベコベコになってしまうし、中国では飲み水をもらおうとすると魔法瓶に入った熱水をくれるのでシュワシュワと縮んで1.2Lぐらいになってしまうのだ。

やっぱり日本製がイチバン!
だけど考えてみれば、私の例は特別であって普通の生活の中ではどうせ捨てちゃうんだからペットボトルなんて薄くても問題ない訳だ。
ビニル袋だって家に帰り着ける程度の丈夫さがあればいい訳だ。
日本ではなんと無駄な物に資源を費やしているのだろう・・・。

モーニングコール

インド、というと不潔・汚いのイメージ強く、実際街はゴミ・ウンコ・死体が散乱していて確かに汚いのだけど、私の見るところ一般のインド人はとても清潔である。
服は毎日こまめに洗うし、宗教と関係する沐浴の習慣はあるし、道端の共同水道ではパンツ一丁で泡まみれになって体を洗っている姿をよく見かける。

歯磨きもかなり熱心だ。
苦い粉をブラシにつけて磨いている。
また木の枝を口に突っ込んでいる人もいて、はじめは
「さすがインド人!木の枝まで食うのか?!」
と驚いたが、そうではなくてこれは歯磨き用枝なのだった。
私もやったことあるが、枝をガジガジ噛むと先がブラシのようにボサボサになり、それで歯をゴシゴシやる。
枝からは殺菌作用がある(らしい)苦い汁が出てまことに理にかなっているようだ。

また「舌磨き」の習慣もちゃんとある。
やったことある人は分かると思うが、あれは舌の奥の方までしっかりやろうとすると必ず「オエッ!」となるものだ。
だからインド人用の宿で水場に近い部屋に泊まったりすると朝早くから「オエッ!」「ウエッ!」「オエッ!」「オエッ!」と連発で響いてきて、心地よい目覚めができること請け合いなのだ。

白人旅行者のフシギ(5)

<その5.やたらカバンがデカイ>
体も大きいから100Lのザックを背負っても平気・・・
なのかもしれないが、ハブラシやシャツが5倍もあったりする訳なかろう。
何週間ものトレッキングに出かけるのでもないのに何をあんなにたくさんの荷物持っているんだろう??
ある時気になって見せてもらったことがある。

まずは軽いジャブ、といった感じでペーパーバック五冊出てきた。
フム、本の好きな奴なんだな、と油断したところへ強烈なボディーブローが来た。
靴が三足出てきた。
しかも一足はフォーマルな革靴で木のシューキーパーまで入っている。
「パーティーなんかに呼ばれたら必要だろ」

その後もワンツーなどのコンビネーションが確実に決まる。
家族・彼女の写真(額入)、キャンドルスタンド、CD数十枚・・・

そして。
全体重をのせたコークスクリューパンチがテンプルに突き刺さった。
オレは静かにマットに沈んだ。
「枕」だった。
「これじゃないと眠れないんだ」

薄らいでゆく意識の中でオレは何度も繰り返した。
「そんなんだったら家にいればいいのに・・・」

白人旅行者のフシギ(4)

<その4.ケチなのか金持ちなのか>
リキシャ・タクシーや土産物屋で、買い手市場を活かして1ルピー(1.5円)の単位まで鬼のように値切り倒す人がいる。
「おー、彼らも1円まで節約して細々と旅をしている倹約旅行者なのね」
と感心していると、同じ人が今度はツーリスト向けレストランで高くてマズいスパゲティーなんかをビールを飲みながら悠々と食っているのである。
ローカル向け食堂でカレー食えばその何分の一で済むのに・・

白人さん達は概してそういう薄汚い食堂で食うのを好まないようだ。
「大衆食堂でカレーを手掴みで食べるフランス人カップル」
なんてのをフィルムに収めることができれば、その年のピューリッツァー賞はほぼ手中にしたといえよう。

白人旅行者のフシギ(3)

<その3.日光浴が好き>
夏にリゾート地に行ってごらんなさい。
そこには「白人」はいない。
いるのは「赤人」である。

「何もそんなになるまで・・・」とア然としてしまう程まっかっかに日焼け、いや火傷を負ったシミソバカスだらけの赤人さん達がウロウロしている。
あのまま熱い風呂にでも入ったら飛び上がって天井を突き抜けそうである。

ある筋から聞いたところでは、夏休み明けにあおっちろい肌をしていると「プアホワイト」といって、バカンスにも行けない貧乏人として馬鹿にされるらしい。
真実だとしたらなんとも哀れな話である。

白人旅行者のフシギ(2)

<その2.彼らはまぶしい>
「キャー、レオ様ってステキ!輝いてるわ!」とか、ハゲばかりとかいう話ではない。
彼ら自身が日光をまぶしがっている、という意味である。

白人のサングラス着用率はかなり高い。
白色人種は色素が少なくどーのこーの、ということではあろうが、私などは幼き頃、
「サングラスをかけたる者、及び、左ハンドルの車に乗る者、これ即ちヤクザ」
という教育を受けてきたため、夏に欧米を訪れれば全国民総極道化してしまい怖くて外を歩けないだろう。

老若男女皆サングラスなので、前述の屋上レストランなどで家族揃ってサングラスをかけながらスパゲティー食ってる姿がなんとも奇妙に思えてしまう。
チベットでは雪目になってしまってヒリヒリして困ったが、そういう訳で私自身はサングラスはしないのだ。
同行のスイス人が「サングラスしないと紫外線が目に入って良くないんだゼイ」
とアドバイスしてくれてごもっともとは思ったが、それは次項とは大いに矛盾する。

殺意

今こうしてコンピューターを前にしてあああの時のことを思い出すだけで、いいいいい怒りが込み上げてきて手の震えを抑えるこここことができなklづいんふぇあklhvだな4ふぁjdk・・・

うー、申し訳ない、キーボードにあたってしまった。
いやはや、何に対しこんなに怒っているかというと、それは在ネパールのインド大使館で働く虫ケラどもに対して、である。

ここでインドビザを申請するためには
1.テレックスの申請(本国、私の場合は日本へ怪しい奴かどうか身元照会する。当然金とられる)
2.ビザの申請
3.ビザの受け取り
と三回足を運ばねばならない。
この面倒な手続きを2年前一度経験している。
その時はまだよかった。
用紙配布窓口・テレックス窓口・ビザ窓口がそれぞれ分かれていたのだ。
当時から仕事ぶりはメチャメチャ遅く、各窓口に行列ができ非難轟々だったものの一応処理はされていた。

しかし、しかしである。
ここの虫ケラどもは訪れる外国人のために便宜を図ろう、などとは微塵も考えないらしく、何を血迷ったか窓口を一つにまとめやがったのだ!!
当然2年前とは比較にならぬ人間が一箇所に集中する。

初日、私はバカ正直にも開門の9:30に行ったのだが、そこは既に数十人の大行列ができていた。
先頭の人は7:00に既に並んでいたという。
日本シリーズじゃあるまいし・・・

しかしサッサと仕事をすれば充分処理できるはずなのだが、虫ケラ中の虫ケラである窓口の奴ときたら、10分くらい遅れて窓口を開いたと思ったらいきなり新聞を読み出すのだ!
一通り目を通すと業務に取り掛かるが、一人片付けては茶を飲み、一人片付けては虫ケラ同士でダベリ、電話をかけ、便所に行き、書類にサインし、鼻クソをほじり・・・

しかも一人一人に渡航理由の面接をしていて、たとえば私の場合
虫「理由は?」
私「観光です、サー」
虫「どこへ行くつもりだ?」
私「バラナシです、サー」
虫「バラナシなんて見所ないところに行くのになぜ6ヶ月要るのだ?」
私「い、いやその、友達に会ったり、他にも行くかもしれないし、それにインドは広いから時間かかるし・・・」
虫「観光なんてどうせ嘘だろう!怪しい商売でもしているに決まっている!本当のことを言え!!」
私「本当に観光なんです、サー!私はインドを愛しています!あなたも含めインド人を尊敬しています、サー!!」

と心に思うことと全く逆のことを言って何とかOKされた。
私だけでなく多くの人がこんな感じでやり取りしているのだが、結局みんな6ヶ月貰っているところを見ると、どうもこの虫ケラはいろいろ難クセをつけて我々がアタフタ困るのを見て楽しんでいる節がある。

こんな感じなので列は遅々として進まない。
初日、12:00になると
「今日はここまで!明日また来い!」
と私の目の前で無情にも窓口は閉まった。

コイツが一回鼻クソをほじってなければ私の番まで回ってきたはずだ!
業務開始前にしっかりウンコしてあったら更に後ろ2人分まで相手できたはずだ!
難クセつけてなければ全員分処理できたはずだ!!

私はこの日生まれて初めて「殺意」を覚えた。

砂丘

ネパールでは衛星テレビでNHK海外向け放送を見ることができる。
先日「今年の流行語大賞」のニュースをやっていた。
大賞に北島康介が選ばれたようなのだが、その紹介中、オリンピックの映像が映されようとすると画面がパッと変わり、
「放送権上の都合により映像はお見せ出来ません」
のテロップと共になぜか砂丘の静止画像になってしまった。(おそらくNHKが海外向け放送分の使用料をオリンピック協会に払っていないのだろう、ケチンボめ。)
で、音声のみで
「あー気持ちいい!超気持ちいい!!」

この何の脈絡もない「砂丘」と「気持ちいい」の取り合わせが妙に滑稽で大笑いであった。
おそらくこれを見た海外在留邦人の97%は淫らな想像をしたと思われる。

2004年11月29日月曜日

白人旅行者のフシギ(1)

多くの白人さん達も世界各地を旅しています。
現地人の生活風習を見るのも面白いですが、彼ら白人ツーリストの行動も私にとっては興味深い異文化の一つ。
そんな中で「??」と思ってしまう彼らの行動パターンをいくつか。

<その1.外で食うのが好き>
ここで言う「外」とはキャンプとか屋台の話ではありません。
れっきとしたレストランで「外」で食う話です。
たいてい白人が好む場所は、屋上レストランのある宿とか道に面したオープンテラスのあるレストランとか。
日光を浴びながらの食事は気持ちがいい、という気持ちは分からないでもないのでそこは百歩譲るとして、問題は本当にこの環境が気持ちいいのか?!と疑うような場所でも悠然と食っていること。
道路脇は埃っぽいし、車の排ガスモクモクだし、乞食が次々現れるし、牛はそこらじゅうにウンコしていくし。
屋上ならばどうかというと、日差しサンサンといってもチベットなんかでは日差しはジリジリと肌を焦がすようでとても快適とは言い難い。
もちろん賢明な地元民は屋内で食います。

ある時北パキスタンでフランス人グループと一緒に夕食を摂ることになりました。室内で食うとばかり思っていたら、彼らは従業員にテーブル・椅子をベランダにセットするよう指示し食事もそこに運ばせました。
季節は春でしたが標高3000m位の所なので夜はかなり冷えます。
「そこまでして外で食いたいかー!」とブルブル震えながら食べました。
(オゴってもらったので文句は言えない)

余談ですが、この時のフランス人がすごい訛りの強い英語を話す人らで「バッチパッチ」がどーのこーの、と初めは何のことかよく分からなかったのですが、どうやらこれは「Back Pack」のことを言っているらしい、と推測できるようになりました。
「ck」=「チ」というんだな、と分かると他の意味不明だった単語も理解できるようになります。
インド人も訛りの強い英語を話し、「R」を全部読んでしまうので「Brother」=「ブラザル」、「Four」=「フォル」になります。
バングラでは「Lunch」=「ランス」、「Visa」=「ビシャ」。

余談の余談ですが「ザジズゼゾ」の発音を上手にできない国は結構多いようで「ジャジジュジェジョ」になってしまいます。
だから私の名前の「カズ」も「カジュ」に。
南アジア一帯では「カジュ」は「ナツメヤシ」を意味するようで覚えてもらいやすい。
で、ところ変わってアラビア語圏に入り自己紹介すると私の名前を聞いてクスクス笑う人がいるのです。
人の名を聞いておきながら笑うとは無礼千万な輩かな!と思ったのですが、どうやらアラビア語で「カジュ」は「ウンコ」のこと。
まあ確かにアメリカ人が
「ワタシノナマエハ『ウンコ・マクドナルド』デス」
などといったら笑えるわな。
名前がこうなんだから、私のコラムにウンコネタが多いのもこれで納得していただけたことでしょう。

読書その2

いろいろ回ってくる本の中でよく見かける作者は、椎名誠・沢木耕太郎・西村京太郎・パウロコエーリョ など。
共通項は「旅」に関する著作が多いこと。
(西村京太郎はビミョーなところだが・・)
本の中の世界が今自分の目の前にあったりするのは感慨深いものです。

ジャンル別に見ると、圧倒的に「小説」が多いですが、意外によく見かけるのが「人生指南」的な本。
皆旅に出るとフト自分の人生を考え思い悩んでしまうもんなんでしょうね。
(それだけ暇な時間が多い、ということの証明でもあるが・・)

・・・・・夕食は時々自炊してみたり。
食後は再び中国語や読書。
こうしてポカラの毎日を過ごしているわけです。

読書その1

午後は読書の時間。
最近では「体育会系自転車部」というより「文化系読書部」を自称するほど本に費やす時間が長くなってしまいました。

旅中では読み終えた本を他の旅行者の本と交換していくシステムがあります。以前中東を旅した時に「官能小説」が回ってきたことがありました。
「読み終えたら後ろに名前と読んだ場所を書いて次に回してください」
と言って渡されました。
そこを見てみてビックリ!
その本はタイを出発して→インド→中東→ヨーロッパ→飛んで南米をぐるり一周→再びヨーロッパに戻り→中東
で私の元へ来たのでした。
その後アフリカへ向かう旅行者に渡しました。

こうして本はそんじょそこらの旅行者じゃできないような壮大な旅をしているわけです。
まさか自分の書いたエロ小説が世界を巡る大冒険をしているなんて作者は思ってもみないでしょうね。

2004年11月16日火曜日

昼食

ネパールの国民食といえばタルカリダルバート。
タルカリ(スパイスで味付けした野菜)、ダル(豆汁)、バート(ご飯)、平たく言えば「カレーライス」です。

これの長所はオカワリ無限であること。
慢性的空腹サイクリストにとってはこの上なく素晴らしいことです。
やろうと思えば、朝行ってダルバートを注文し、そのまま夜まで食べ続ければ、1食分の値段で3食まかなえるでしょう。
巨大な胃袋と勇気のある人は試してみてください。

それ以外は、というと
サモサ(イモコロッケ、無論カレー味)、
モモ(チベットギョーザ)、
チョウメン(中国の炒麺[チャオミェン]が伝わったものであろうが本場とは似ても似付かぬヤキソバ)
などがありますが、どれもメインというよりはオヤツ程度の量しかないので結局ダルバートが主となってしまいます。
他の物はないのか、と周りの人が食っているのを見てもやっぱりダルバート。
どこかの家に招かれてもやっぱりダルバート。
ダルバート以外は恐らく存在しないのでしょう。

カトマンズといえばいろんな国の料理が美味しいことで有名ですが、ここポカラにもややレベルが下がるものの美味しい店はたくさんあります。
日本食ももちろんありますが、高く、量少なく、味はややいまいち、と3拍子揃っているにもかかわらず足を向けてしまいます。
なぜならそこには500冊以上の日本の本があるから。
100-200円で本を借りて、おまけに一食付いてくると考えれば安いものです。

午前

朝食から昼食までの間はお勉強の時間。
お題目は「中国語」。
「中国語勉強したいなら中国に行けばいいのに」というのはごもっともな意見なのですが、なかなか現地ではじっくり落ち着いて学べる環境が無く、仕方なくネパールにて・・。

今まで私が身につけた中国語はもっぱら現地仕込みで、老師(先生)は主に南方中国出身のトラックの運ちゃん方であるため、以前北京の人と話した際
「アナタの中国語は南方のトラックの運ちゃんみたいな話し方アルヨ」
とそのままズバリ言われたことがあります。
日本でいえばズーズー弁を話すどっかの白人タレントみたいなもんでしょう。

チベットの子供たちは学校で普通話(共通語)の教育を受けているのでレベル的にも彼らと話すのがちょうどいいのですが、これは当てはめてみれば、1930年頃に韓国の人に日本語を教えてもらうようなもので、心情的に憚られるものがあるので断念。

やっぱり基礎的な発音とか文法とかしっかりやっておくべきだなと思いたち、日本から送ってもらったCD付きテキスト・辞書に加え、中国で買い込んだ小学生用漢語教科書・チビッコ向けの本やらでセコセコ勉強しています。
静かに落ちついて勉強するにはここは絶好の環境ですが実地訓練できないのが痛いところですね。

2004年11月7日日曜日

朝食

私がポカラに着いた9月中旬はまだ雨季の最中で、一日中雲がかかって山が見えることはほとんどなかったのですが、最近はすっかり気候が変わり、特に朝方は雲一つ無い快晴、朝日に映える7000m級のアンナプルナの山々が奇麗に見えます。

その山々を見ながらの朝食のメニューは・・・
「ツァンパ」
このコラムでも度々登場しマズイマズイと酷評してきたチベットの主食です。
しかしながら「イヤヨイヤヨもスキのうち」「マズイマズイもウマイのうち」。
いつしかなくてはならぬ朝食の定番メニューになってしまいました。

ラサを発つとき、餞別に、とサイドバッグ一つ埋まる程の大量のツァンパを貰い受け、どうしたものか・・・と途方に暮れたのも今は昔。
それも結局食べ尽くし、新たにネパールで買い入れたものを食べています。
はじめどこに行けば買えるのか分からず、その辺を歩いていたチベット人のおばちゃん(ネパールにも沢山チベット人は住んでいる)を見つけ「この人について行けばチベタン御用達ツァンパ屋に行くかも」と尾行を開始したところ、程なく感付かれ
「アンタ何やってんのよ?」と問われ「イヤハヤ私は怪しい者でもスパイでもストーカーでも中国の回し者でもございません。実はかくかくしかじか・・・」と正直に答えたところ、おばちゃんはあっさりツァンパのありかを教えてくれました。
はじめから聞けばよかったところです。

で、そのツァンパですが、これまた以前このコラムで「カレー粉とかいろいろ混ぜたけどやっぱりマズイ」と書きましたが、その後も数々の試行錯誤の末、遂に完成したのが以下のツァンパ。
レシピを記すと、
1。約150ccのお湯に
2。はちみつスプーン2杯
3。砂糖スプーン1杯
4。粉ミルクたっぷり
5。以上にツァンパを適量加えグチャグチャ混ぜて団子にして食べる。

ちなみにダライラマ法王のお好みもミルクツァンパだとか。
あなたも「観音菩薩の味」を試してみてはいかがかな?

ハッピーニューイヤー!


明けましておめでとうございます。
年が明けました。
10月20日はネパールのお正月「ダサイン」でした。

その日人々は親類知人の家を訪ね、新年の挨拶とともに祝福のティカ(額に付ける赤い印)をもらいます。
たくさん回ればその印はどんどん大きくなって額面積の半分ほどにもなるので、町にはノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ直後の大仁田厚のような額を真っ赤に染めた人達がニコニコ顔で歩き回っています。

このダサインは一家が集まって家の中でコソコソやるのが主なため、部外者である外国人旅行者にとっては、特に大きなイベントがある訳ではないので全然面白くありません。

以前このコラムの中で
「ヒンズー今日の祭りは過激すぎて近寄り難く避けるべし」
と書いたことがありますが、今回のもまた別の意味で避けるべし。
店・食堂は閉まり、バスも止まり、不便なことこの上なし。

ただ唯一の見所らしきは、寺に行けばその日の食卓へ上げられる食材を屠る儀式があり、捧げられるニワトリ・ヤギなどの首が切られます。
巨大なナタで首をスパン!
落ちた頭がコロコロ。
血がビュービュー。
頭の無くなった胴体はしばらくジタバタ。
ひっきりなしに参拝者がやって来るので、次から次へと機械的に作業は進み
スパンコロコロビュービュージタバタスパンコロコロビュービュージタバタ
スパンコロコロビュービュー・・・
始めの数体はウワッ!と思いますが、50も100も見続けるとだんだん何とも思わなくなってきます。
戦争の狂気なんてのもこんなものなのかもしれないなー、と思ってしまいます。

2004年10月19日火曜日

海外危険情報

9月初め、イラクでネパール人が誘拐・殺害されたことに対し、怒ったネパール国内のヒンズー教徒がイスラム教との店を襲撃。
大規模な暴動へと発展し、軍が出動。
1週間外出禁止令がしかれ、店はすべてシャッターを下ろし町はゴーストタウンに。
勝手にうろうろすると撃たれる、というおっそろしい事態にみまわれました。

危険情報として真っ先に思い浮かぶのは外務省の発表するものですが、彼らも神サマではないのでこのような偶発的な事態には対応できないのが痛いところ。
しかもそれがあんまり頼りにできないのは、何か起こった後に危険度があがるのですが、その時点ではすでに治安が強化され、逆に一番安全な状態だったり、とっくに沈静化しているのにいつまでも「危険」なままだったりすること。(以前のイスタンブールがそうだった)

外務省よりは期待できるのは、旅行者同士の情報交換ですが、これは思いっきり個人の主観が入ってしまうので本当は危ない所なのに運良く何もなく行けてしまった人は「全然大丈夫だよ」と言うでしょうし、平和な国のはずなのにスリに遭ったりすれば「泥棒だらけのヒドイ国だ!」と言うでしょう。
更に困るのは人ずての噂に尾ヒレどころか、胸ビレ腹ビレ背ビレフカヒレエイヒレとヒレが付きまくってたいしたことない話がとんでもない話になって聞こえてきたりすること。

やっぱり一番信用できるのは地元民のくれる情報ですね。
バラナシのホーリー(祭)は出歩くな!(殺される)
バングラの夜行バスには乗るな!(バス強盗に遭う)
などなど。
でもこれにも落とし穴があって、たいてい他民族同士は「あいつらは泥棒だ、ウソツキだ、誘拐犯だ」といがみあっているのに、第三者の立場ではどっちも正直でやさしい良い人達だったりするのです。

こうなると一体誰の話を信じてよいやら。
結局頼りになるのは、取捨選択できる自分自信の「勘」ということになるのでしょうか・・・

読書週間

ここ最近でチベットに関する本をいくつか読みました。
1.「ダライラマ自伝」ダライラマ
2.「チベット旅行記」河口慧海
3.「セブンイヤーズインチベット」ハインリヒハラー
4.「秘境西域8年の潜行」西川一三
5.「チベット旅の百日」李奈

1.は言わずと知れたチベットの最高権威・観音菩薩の化身による自伝、
2.3.4.は50年前以前のチベット鎖国時代に密入国した人の話、
5.は中国人によるチベット旅行記
で、どれも興味深い話がずらり。

面白かったのは2.3.4.が皆口を揃えたように
「チベット人は想像を絶するほど不潔、汚い、衛生観念がない」
と、一度ならず何度も何度も言っていること。
私が見た現在でも、田舎の方に行けばとても黄色人種とは思えぬほど真っ黒な顔の人がいてびっくりします(日焼けの黒さではない)。

また私独自の調査で、
「チベット人はクソした後、拭きも洗いもしてないのでは?」
と密かに思っていたのですが、これについてもやはり3人ともが指摘していて私の推測が正しかったことを証明してくれました。

5.に登場するチベット人は皆
「1951年に中国がチベットを『平和的開放』してくれたおかげで生活向上し今はこんなに幸せな生活を送っています。毛沢東万歳!」
と口々に言っており、プロパガンダの香りがおもいっきり漂っていて苦笑させられてしまいます。

西チベット総括

2年前、東チベットを横断したときは秋から冬にかけてでえらい寒い思いをしたので、今回の西チベットは夏にした。
しかしそれはとんでもない過ちで、雨季にあたるこの時期は毎日のように雪・雨に悩まされてしまった。
道路状況は最悪の泥沼。
山からの濁流が道を横切り何度もずぶ濡れになる。
腰まで浸かることもあり、もしあそこでツルリ足を滑らせていたらドザエモンとなり、ブラマプトラ川の藻くずと化し、今頃はベンガル湾でお魚の餌となってたことだろう。

そもそも夏といっても夜はやっぱり寒いのだ。
逆に冬といっても太陽の下にいれば十分暖かい(もちろん夜は死ぬほど寒い)し、
晴れ渡って山もはっきり見えるので、チベットに行くなら暖かい装備を持って冬に行くことをお勧めする。

<西チベットデータ>
日数:90日
自転車移動日:65日(72%)
移動距離:3500km(54km/日)
総出費:5万円(560円/日)
・・・ただしうち4万円はラサにいた18日間に使ったのでそれ以外の移動しているうちは140円/日。
使いたくても店も食堂も無い!!

2004年8月16日月曜日

アジアカップ

カトマンズに着いて日本の新聞を見ると、先日行われたサッカーアジア杯決勝での中国人観客の日本人へのブーイング問題の記事が載っていました。
私は当時チベットにいてその試合のことも知っていました。

日本勝利の晩、いつものチベット飲み屋に行くと、客(チベット人)が皆口々に「日本よくやった!!」と誉めたたえます。
そう、チベット人にとって中国は敵。
それを日本が破ったもんだから、ザマミロってなもんです。

チベット流酒の注ぎ方は、普通に嬉しい時(注ぐ人が)は一口飲むのを3回、4回目はカップ全部飲み干すのですが、すごく嬉しい時(注ぐ人が)は4回とも全部飲み干さねばなりません。
みんな次々と祝福のチャン(チンコー酒)を注ぎに来てくれます。
私も決勝点となる必殺のタイガーショットを外のドブにたたき込んだりしてみました。
オエッ。

カトマンズ到着

天上のチベットから下界のカトマンズへ下りてきました。
日本ほどではないでしょうが、やっぱりムッとする湿度を感じます。
タバコがあっという間に燃えてなくなってしまいます。
思わず沸かしたてのお茶を飲んで口を火傷しました。
(チベットでは沸点が低いのですぐ飲んでも問題無い)
当たり前のことが当たり前じゃなくなってしまいました。

さらばラサ

夢のような日々は過ぎるのが早いものです。
あっという間に19日間のラサ滞在は終わってしまいました。

この間、多くの人たちと再会することができ、皆一様に優しい笑顔で迎え入れてくれました。
今ラサの街は日に日に確実に変わっています。
2年後鉄道が開通すれば更に大きく変わってしまうでしょう。
でもチベット人・中国人関係なく、人々の優しさだけはきっと変わらないと思います。

さらば、ラサ。

2004年8月4日水曜日

ガンバレ日本!

ラサには2年前見つけた行きつけの飲み屋(チベタンOnly、中国人お断り)がある。
そこの常連にやたら元気なおばちゃんがいる。
こういう飲みの場で話題が下ネタに向かっていくのはこの世の常というものだろう。
そのおばちゃんが「日本人は毎晩何回なのよ?」と聞くので
「2-3回がせいぜいかな(2003年度厚生省白書参照)」と言うと、
「日本人はだめねえ。チベット人はツァンパとバター茶でみんな健康、精力絶倫。うちのダンナなんて毎晩8回よ!」とおっしゃる。
5回でもなく10回でもなく、8回という中途半端な数字がこの話の信憑性を物語っている。

その後閉店時間となるが、おばちゃんまだ飲み足りないようで
「うちで2次会やるからついてらっしゃい!」とおっしゃる。
ヒョコヒョコついて行ってお宅にお邪魔し飲んでいると既に寝ていたダンナが顔を出した。
さっきの話からしてダンナはチョコボール向井風のマッチョかアブドーラ・ザ・ブッチャー風の恰幅のいい男を想像していたのだが、出てきたのはチョコボールどころか、大泉晃風のインチキひげを生やしたヒョロっとしたおっさんだった。
急にさっきの8回の話が嘘っぽく思えおばちゃんに尋ね直すと、
「昔はもっとガッシリしてて毎晩8回だったんだけどね。今は痩せちゃってもうだめね」
どうやらおばちゃんに精力すべて吸い取られてしまったらしい。

ラージャロー!(神に勝利あれ!)

(写真:タフネスおばちゃん(中央))

2004年7月28日水曜日

神の住む街

私は神など信じないが、ラサに来てそれを信じたくなるような出来事があった。

2年前、ラサでお世話になった家に娘さんがいて、ラサを去った後も度々メールのやり取りがあった。
しかししばらくして連絡がなくなり、その後そのアドレスも消滅してしまった。
(ホットメールは1ヶ月アクセスしないと消える)

そして月日は流れ、先日ラサに2年振りにやって来てメールボックスを開くと何とその娘さんからのメールが来ているではないか!
発信日を見れば到着の2日前になっている。
もちろん彼女は私が今ラサにいることなど、それ以前にチベットを再び旅していたことさえ全く知らない。
その後実際に会ってみると彼女もビックリ。

やっぱりラサは神の住む街である。

(写真:左がその娘さん)

ラサに来たのは…

西チベット方面から東に向かうと、途中で道が二手に分かれる。
北東方向はラサへの道、南方向はネパールへの道。
結局ネパールに行くのでショートカットして直接ネパールに下りることもできた。
しかし片道750km、往復1500kmの遠回りをしてでも私はラサに行きたかった。
安くてうまい中華が食べたい、ポタラ宮の雄姿を再度拝みたい、しかしもっと大切なことがある。
それは2年前に訪れたときに会った人達にもう一度会うためだ。

ラサに着いて早速彼らの元に向かった。
忘れられているかもしれないので当時撮った写真を持って。
しかしそんなものは不要だった。
宿の服務員、毎日通った食堂のおじさんおばさん、カメラ屋の小姐、みんなみんな顔をあわせたとたん「アンマ?!」
わずかの期間滞在しただけなのにみんなしっかり覚えていてくれた。
笑顔で2年前の話に花が咲く。
もうそれだけでラサにわざわざやってきた甲斐があったというもんだが、これらはほんの序章に過ぎない・・

そう、最大の目的は1ヶ月間居候させてもらった一家を訪れることにある。
(なぜ居候することになったかは「チベットの恩返しその2 母の想い」を参照してください)

門をくぐると懐かしい顔が「アンマ?!」
しばらく近況報告をした後はみんな普通の生活に戻る。
2年振りに会ったのに、なんか仕事か学校から帰ってきただけのような淡白さで、もう少し大騒ぎしてくれてもいいのにな、と思う反面、この特別扱いされない感じが逆に嬉しかったりもするのである。

2004年7月27日火曜日

Capital of TIBET

カイラス山の麓の村でのこと。
不本意にも白人の皆様と一緒に飯を食うことになりました。
本当は行きたくなかったのですが、私が行かないと彼らは料理の注文すらできないから仕方がありません。
そこで私がこれからラサに向かうことを言うと、彼らは次々とラサの悪口を始めました。

「広い道に高いビル、ラサなんてただの中国の街だぜ。ポタラ宮なんて博物館じゃないか。行くだけ無駄だよ。」

ラサは私の最も好きな街、黙って聞いている訳にはいきません。

「君たちはジョカン(チベット仏教の総本山の寺)の開門に参加しましたか?(巡礼者が殺到し大騒ぎになる)
シャカムニ(御本尊)に触れた後の彼らの笑顔を見ましたか?
毎朝地元チベタンのするリンコル(市内を一周)を共に歩きましたか?
1日と15日に行われるお祭りに彼らと共に参加しましたか?
もし一つでも体験してたら、ラサを中国の街、なんて呼べないはず。
ラサは紛れもなくチベットの首都ですよ。」

彼らは一つも参加してませんでした。
彼らが見たのは中国風のラサの街、そして外国人用ホテルに、外国人向けメニューの置いてあるレストランのみだったのです。

続けて私は言いました。
「あなたたちにとってラサは観光地、だけど私のとってのラサは大切な旅の目的地。だからポタラ宮もあなたたちには博物館だけど、私にとっては重要な旅のシンボルなのです。」

白人さんたちは黙ってしまいました。
私の勝ち。

キューピー30秒クッキング

本文を読まれる前に「ツァンパ」豆知識!

「ツァンパ」とはチベット人の主食で、大麦を炒った物を粉にし、バター茶(しょっぱ生臭い)でこねて食べます。
食べ方にもいろいろあり、
1.粉のまま舐める(舐める時息を吸うと必ずムセる)
2.バター無しの塩茶でこねる(遊牧民が放牧中によくやっている)
3.バター茶でこねる(お手軽)
4.3にチーズバターを加える(一般家庭はこれがスタンダード)
5.4に砂糖も加える(飛び込みアッパー昇竜拳並みの破壊力を持つスーパーウルトラハイグレードな食べ方。これを出されたらもてなされている、と思っていいだろう)

「ツァンパ」は保存が利き、軽いので携帯食としては抜群で、調理(といえるかどうか…こねるだけ)も簡単。
しかもあまり量を食べられない(食べたくない)のでなかなか減らない、腹持ちがいい(消化が悪い)、といいことづくめのチベット料理の代表選手です。

…以上を踏まえた上で本文へどうぞ。


<今日の献立>
バラエティーツァンパ
○毎日毎食同じ味のツァンパだとさすがに飽きるものです。
料理に大切なのはやっぱり味付け!
ツァンパにいろいろ混ぜてみてあなたのツァンパライフを何倍にも楽しくしちゃいましょう!
これを食べれば今日の放牧の疲れも吹っ飛んじゃいますよ!!

<用意するもの>
・ツァンパ(いっぱい)・チキンスープの素・レーズン・カレー粉・胡椒・唐辛子パウダー・ケチャップ

<調理法>
ツァンパとそれぞれを混ぜてこねるだけ

<結果>
・チキンスープツァンパ:チキンスープは別で飲むべき。マズイ
・レーズンツァンパ:レーズンパンを生で食っているかのよう。マズイ
・カレーツァンパ:期待度と裏腹にかなりマズイ
・胡椒ツァンパ:絶望的にマズイ
・唐辛子ツァンパ:切腹したくなるほどマズイ
・ケチャップツァンパ:「哀しいけどこれってツァンパなのよね!」と言いたくなるほどマズイ

<結論>
下手な小細工はするもんでない。
素材の味を大切に・・・

2004年7月25日日曜日

インド人とカイラス山

カイラス山は仏教・ボン教のチベット系宗教の聖地である以外に、ヒンズー教・ジャイナ教のインド・ネパール系宗教の聖地でもある。
よってカイラスに行くと、見慣れたモンゴロイドに混じって大勢のインド人・ネパール人巡礼ツアー客が来ている。
突然あの濃ーーい顔が多数出現するもんだから、それだけでマクー空間に引きずり込まれたような感じがする。

外国に来れるようなインド人だから当然彼らは金持ち。
インド人の金持ちと言えば、タイコ腹のおとっつぁん+サリーからブヨブヨ肉のはみ出たおっかさん+英語スクールに通う生意気なガキ、の3点セットに決まっているのだがやっぱりここでもそうだった。

で、もちろん彼らもコルラ(山を一周)する。
しかし「金持ち汗かかず」とインドの格言にある通り彼らは歩かないのである!(歩く人もいるけど)
行ける所までジープで行き、後は馬に乗り、荷物はポーターが運び、また車が来れる所で拾ってもらって帰る。
ズルイ!

さてここで問題です。
彼らの夕食メニューは何だったでしょう?
3、2、1、ピンポン!ピンポン!
その通り、カレーです。
香辛料はわざわざインドから運んだんだってさ。

地雷

西チベットでトイレがあったのはアリとサガだけ。
あとの町や村ではその辺で適当にする。
普通中国の村では肥料になったり野ブタが食べたりするので残らないが、西チベットではその過酷な環境のせいで農業は成り立たず、ブタも生きられないため、ブツはそのまんまとなる。

ある町でのこと。
やっぱり「その辺でしてこい」と言われたので建物の裏に回ってみたらビックリタマゲタ。
その数に驚いたのではない。
まず壁に沿って1mの等間隔でズラリ一列。
壁の端まで来ると1m前進し、先ほどのと正三角形の頂点の位置に配置されるようにズラリ。
それが27列続いていた(数えてみた)。
まるでダイヤモンドゲームの升目のようだ。
もちろん私もその隊列を乱さぬよう、正しい位置に地雷をセット。
このままのペースでいけば数年後には地平線の向こうまで達するんじゃないか、くらいの勢いである。

その地平線の先にはインドがある。
その町のあたりはアクサイチンと呼ばれる国境線の定まっていない地域なのでいつインド軍が攻めてきてもおかしくない。
しかしこの果てしなく広がる整然と並んだウンコを見たらビックリして逃げ帰るだろう。

戦わずして勝つ。
中国人民解放軍バンザイ!!

2004年7月24日土曜日

中国的少数民族問題


中国人サイクリストと一緒に行動していた時こんなことがあった。
西方民族であるウイグル人ばかりの工事事務所で一休みし、いざ出発しようとすると彼らはこっそり私にだけ耳打ちし
「おまえだけ残れ」。
ご飯やお茶でもてなしてくれた。

そして彼らは言った。
「俺は漢民族は嫌いだ。数年前までカシュガルはウイグル人の街だった。しかし数年前(鉄道開通時か?)から突然大量にやって来て街をどんどん変えてしまっている。」

TVを見ていて戦争ドラマで日本兵が漢族を殺したり犯したりするシーンが出ると「いいぞ日本人!漢族なんてメチャクチャにやってしまえ!」と息巻く。

同じような思いをチベット族やその他の少数民族もきっと抱いていることだろう。

しかし考えてみれば、西方民族(ウイグル・キルギスなど)、キョウド(モンゴル族)などの異民族を支配下に置くのは秦の始皇帝以来の漢民族の長年の夢であり、今を生きている彼らにとっては不幸だが、一時期は彼らが漢民族を脅かしていたこともあったのだ。
だからもし中国に何らかの事態(革命??)が起これば今の立場なんてアッサリひっくり返っちゃうかもしれませんね。

(写真:漢民族を殺せ!と彼らは言った)

人種対決

アメリカ人×1、スイス人×2、中国人×2、日本人×1(私)の計6人がほぼ同じに西チベットに挑んだ。
はじめは6人一緒だったが次第に2つのグループに分かれた。
アメリカ人+スイス人の「アングロサクソンズ」
中国人+日本人の「モンゴロイダーズ」。
これは別に私の白人嫌いがそうさせたのではなく、旅のペースが明らかに違ったからだ。

「アングロサクソンズ」の特徴はその凄まじいまでのスピードである。
長い足をフルに活用し現地人の誘いも無視しグイグイ飛ばす。
そして飯は自炊が基本。
中華料理はまずいそうである(なんと!)

対し「モンゴロイダーズ」は遅い。
短い足を頑張ってクルクル回しても全然追いつけない。
それなのによく休む。
一旦止まると休憩が長い。
人の誘いも律義に対応する。

でも結果的にはこれがすごく旅を楽しくしてくれた。
私一人では通じない言葉をカバーしてくれたし、中国語の勉強にもなるし。
食事のオーダーもやっぱり中国人のセレクトは抜群!

張くん、蘭くん、ありがとう!!

僕の検問突破術


始めに言っておきますが、このコラムは偉大なる毛沢東主席のお作りになった、偉大なる中華人民共和国の、偉大なる法律を明らかに犯すものなのであまり自慢できる話ではないのですが、こういうこともできる、という参考程度にどうぞ。

チベット全域は都市を除き公安の許可なく訪れてはならぬ非開放地域である。
ツアーを組んで、しかるべき金を払えば許可が取れるのだが、個人で自転車で、となるとほぼ不可能である。
でも行ってみたい人はどうするか?
とりあえず行っちゃうんである。
でも敵もさる者。
そうはさせじと検問が存在する。
そこを通るとき、全くフリーパスのこともあれば、パスポートチェックだけの時もある。
最悪は「許可証を見せろ」と言われることで無いことがばれれば、良くて罰金。
悪ければ圏外追放。

みんなこれを恐れていて深夜にコソコソ通り抜けたりしているが、私はいつも白昼堂々と挑む。
結局パスポート見せただけで終わることが多いからだ。

しかし一度「許可証を見せろ」と言われてしまった。
や、やばい・・・
しかし私には一つの策があった。
取り出したる一枚の紙。
それは大学の卒業証明書(英文)。
私は知っている、中国の多くの公安が英語を話すことも読むこともできないことを。
それはそれらしきフォーマットで書かれ、それらしき判子やサインが載っている。
それをさも当然のように堂々と見せる。
この時注意すべきは
「あなたは英語が読めますか?」
などといったような、誇り高き中国公安のプライドを傷つけるようなことを決して言ってはいけない。
彼がそれを「許可証」だと認め(卒業証明書だが)、そこに「この者の通行を許可する」と書いてあると読んだのなら(○○学部××年卒業としか書いてないが)それでよいではないか。

さらに効果をあげるためには、素早く係の名札を見てその名前から漢族かウイグル族かチベット族か判断する。(漢族なら王○○、李××のような3文字なのですぐ分かる)
そしてそれにあった言葉で対応するのだ。
するときっと笑顔で「一路平安!」と見送ってくれることだろう。

(写真:魔法の通行証)

NOと言えないニッポン


新蔵公路は現在道路拡張工事の真っ最中。
そこを通るとき、ただでさえ厳しい道が、川の中を通らされたり掘り下げられた沼の中を通らされたりと苦難を極める。

しかし悪いことばかりではない。
そこでは工事に従事する人々の住むテントがある。
食事どきにそこを通ると、大抵「飯食ってけよ!」と声がかかるのだ。
行けばブッカケご飯ドンブリ超大盛り3杯。
ありがたく頂き出発すると、またすぐ隣のテントからも誘いの声が。
もちろん断ってもいいんだけど、この先もしかしたら食事できるような所が無くなるかも・・・の恐れからまたゴチになってしまう。
こんな調子で一日8食なんて日もあった。
空腹に悩まされることは想定していたが、まさか胃拡張で苦しむことになるなんて・・・
うれしい誤算。

(写真:出稼ぎ農民たち)

雪やコンコ


前回東チベットの旅では靴を一度も履くことはなく全てサンダルで通した。
その反省を生かし今回は靴を持ってこず。
それは当たりだった、前半においては。
道路工事中では迂回路が川の中だったりして膝までズブズブ浸かって歩かねばならずサンダルの方が便利であった。

しかし後半、状況が一変。
平均標高3000mを越えると毎日のように雪が降った。
たいていニワカ雪程度なので大丈夫だったが、時折一晩中降り続くときもある。
朝テントから出ると一面銀世界。
どこが道なのかすらも分からない。
トラックの残した轍だけが唯一の道しるべ。
それを伝っていくのだが、午前は踏まれた雪が凍ってツルツル滑り脇の新雪にはまり込むと裸足がピリピリ痛い。
でも昼過ぎると融けて道が泥沼と化すのでやっぱりサンダルの方がいいかな。

夜は毎晩氷点下。
前回冬のチベットで寒さに苦しんだ経験を全く生かさず、今回も長年愛用している+10℃仕様の寝袋しかないのでやっぱりつらかった。
夏だから大丈夫だろう、とタカをくくったのが甘かった。
夏の新蔵公路(カシュガル-アリ)は冬の中尼公路(ラサ-ネパール)より寒かった。

教訓
「備えなければ憂いあり」

(写真:どこへ向かって進めばいいのか…)

狼が出るぞう!

狼に遭った。
結論から言うと襲われることはなかったが。

アリの西、数百kmに渡って人の全く住んでいない地域がある。
そこがすなわち狼出没地域である。
行く前は散々地元民におどされた。
「独りで行くと死ぬぞ!」と。

ならばどうすればよい?と問えば、
「銃を持て」
こんなことになるのならパキスタンのおかしらにトカレフ1丁譲ってもらうんだった。

私にも一応武術の心得はあるものの、珠算3級程度なので狼相手には心もとない。
それ以外の対処法としては・・・
・石を投げる
・棒を振り回す
・とにかく逃げる
・あきらめる
・・・など。
ギャートルズとかわらんではないか。

で、本当に狼はいた。
「ウォーー!」
私を見て天に向かって高らかに吠え上げた。
まるで映画のワンシーンを見ているかのようだ、などと感激に浸っている場合じゃない!
逃げろや逃げろ。
しかし、のち走る狼も見たが、そのスピードといったらとても自転車で逃げ切れるものではなかった。

狼に襲われないためにはどうすればよいか。
答えは一つ。
神に祈るのみである。
ただし注意点が一つ。
出没地域はウイグル自治区とチベット自治区の境界にまたがっている。
アラーに祈るべきか、ダライラマに祈るべきか、そのところ間違えのなきよう。

2004年5月24日月曜日

中国的職務熱心

パキスタンから峠を越え、中国に入ってすぐのこと。

道路脇にポツンと立つ建物の前で車が止まった。
どうやらここで荷物検査が行われるらしい。
1人ずつ中に呼ばれ片っ端から調べられる。
小さなスーツケースの人でも15分。
私は荷物が多いので45分もかかった。
ビスケットは箱を開けられ、マネーベルトも全開、現像済みネガの1コマ1コマ、パンツの一枚まで調べられた。
せっかくのパッキングもグチャグチャ。

乗ってきた車もシートはめくられ、車の下にもぐられ、エンジンのパイプは外され調べられている。

結局全員(たった10人なのに)が終わるのに3時間もかかった。
ここはまだ標高4500mくらいあるのだ。
可哀想なのは高山病になっている人で、頭ガンガンしているのに下ることは許されない。

中身の不明なCD、公安には読めないウルドゥー語(ミミズ文字)の普通の新聞(!)まで一旦没収され、検査の末OKなら返してもらえる。
他にチェックの対象になっていそうなのは、武器、麻薬類はもちろん、台湾の国旗、ダライラマの写真、劣化ウラン弾、オサマビンラディンなどは持ち込めないだろう。

こんなこともあろうかとチベットのガイドブック・地図は寝袋に巻き込んでおいたのでセーフ。
もしラディン君と中国を旅したい人は寝袋に包んであげてね。

パキスタン総括

皆さんは「パキスタン」と聞いてどのようなイメージを抱きますか?
インドとの領土紛争、核実験国、テロリスト支援国…
マイナスイメージのほうが強いのではないでしょうか。
私もそうでした。

確かにそれは事実かもしれません。
でもそれだけが全てではありませんでした。

チベットへ向かうための通過点ぐらいにしか考えていなかったパキスタン。
しかしまた多くの人々から多くの親切を受けてしまいました。
私が感謝の意を述べると、彼らは決まってこう言いました。

「お礼なんていいんだ。その代わり日本に帰ったら皆に伝えてくれ。世界中の人達はアメリカのプロパガンダのせいでパキスタンが危険な国だと誤解してしまっている。本当のパキスタンは美しい自然と優しい心を持った人々の住む素晴しい国なのだ、と」

<パキスタンデータ>
○滞在日:74日
 うち変り所として‥
 ・キャンプ(首都のど真ん中)12泊
 ・民泊 12泊
 ・ドライブイン(激安宿泊施設)2泊
 ・病院(入院した訳じゃなくて宿を聞いたら紹介された)1泊
 ・警察(逮捕された訳じゃない)1泊
 ・建築中の家(侵入した訳じゃない)1泊

○自転車移動日:28日
○移動距離:2865km(102km/日)
○出費:28500円(380円/日)

みなしごハッチ

パキスタンの小さな村の小さな宿でのこと。

夜も更け、そろそろ寝ようと蒲団をかけたところ、突然足に刺すような強烈な痛みが!
ビックリして蒲団を跳ね除けると、そこに居たのはミツバチハッチどころか毒々しい黄と黒の大きなスズメバチ!!
スズメバチに二度刺されるとショック死すると聞いたことがあるのでかなりビビリながら何とか追っ払ったものの、刺されたところがジンジン痛い。

ここは定石通り自家製の聖水をふりかけてみたりしたが(太腿なのでかけるのは楽)ほとんど焼け石に水といった感じで、足はパンパンに腫れ、翌日からはモーレツな痒みが10日間も続いた。
とほほ、、

それにしても、安宿でダニや南京虫に刺された人はこの世にゴマンといるだろうがハチに刺された(しかも野山ではなくベッドで)人はそんなにいないだろう。
またまた貴重な体験をしてしまった次第である。

クンジャラブ峠にて


パキスタンと中国の国境、クンジャラブ峠(4730m)。
峠までの道は急坂なくダラダラ登って行くので3000mから出発して気が付いたら峠に着いちゃいました。
高度順応の常識は無視してしまいましたが別段問題なし。

峠といってもなだらかな丘になっていて、まだ辺りは一面の雪原(道だけ除雪)。
日差しがメチャ強いのでTシャツ短パンでも暑い(熱い)くらいですが風が吹いたり日陰に入るとメチャ寒いです。
でもやっぱり高所なので空気薄く、タバコの火が自然に消えてしまう(しけていたせいもある)。

そこへパキスタン人ファミリー(金持ち)の峠往復ツアージープがやって来て降車するなり、一人がハシ○をプカァ。
鍛え方が違う…

ちなみに峠から中国のイミグレのある町まで120kmはバス強制移動。
自転車はダメ!!

(写真:暇そうな中国人衛兵)

シルクロード

ここ中国の西部の町、カシュガルはシルクロード上にあるオアシスの町です。
さすがそう言われるだけあって、イギリス人がバンドを組んで歌を歌ったりしています。

ユパ様


北パキスタンにあるフンザは「風の谷のナウシカ」のモデルといわれる風光明媚な村です。
さすがそう言われるだけあって、オウムの大群が押し寄せて村を破壊していったりします。
布教活動をしているオウムもいます(現アレフ)。

ワンペン!

以下のことの原因は全て自分も含めた外国人ツーリストのせいなので書かないでおこうと思ったが、ネタが出来てしまったのでやっぱり書く。

パキスタン北部、カラコラムハイウェイ(KKH)上の子供らの
「ワンペン(ペンくれ)!ワンダラー(1ドルくれ)!」
の多さはひどすぎる。
パキスタンでもここだけだ。
会う子供の8割は言ってくる。
しかも無視して通り過ぎると後ろから石が飛んでくる。
子供の投げる石でも当たると結構痛い。

小学校の下校時間に出くわした時にゃ戦慄が走る。
津波のような「ワンペン!」
雨アラレの投石。

一度運悪く後頭部に命中。
頭にきてガキの一匹を捕まえ、先生の前まで引きずっていき
「パキスタンの学校では外人に石を投げるよう指導しているのか!!」
と言うと、先生も驚き謝罪し、そのガキの頭が外れちゃうんじゃないか、と思うくらいビンタをかまし続けた。
ガキ大泣き。

さすがに私も「ちょっと大人げなかったかな」と思い直し、以降は・・・

・「ワンペン」は「ハロー」の現地語であると解釈しこちらも元気良く「ワンペン!」と返事する。
・「ワンダラー」と言われたら「1ドルが何ルピーか知っていたらくれてやる」と返す。(正答率0%)
・「アッサラームアレイコム(こんにちは)」と先制攻撃を仕掛け「ワレイコムサラーム(こんにちはの返事)」と言わせる。それをひたすら繰り返し「ワンペン」と言うスキを与えないようにする。(ちなみにこれに返事をしないことは最大級の敵意表現とみなされる)
・「ペンどころか金が無くてパンも買えないんだ。1ルピー(2円)くれ」と悲壮感漂う顔で詰め寄る。(あまりに真剣にやりすぎて家から余りパンを持ってきてくれた子供がいた。以降封印)

しかし何をやっても結局石が飛んでくる。
何かいい方法はないかなあ。

2004年4月19日月曜日

裏技

カラコラムハイウェイは急な山の斜面に無理矢理道を切ってあるので雨が降ると土砂崩れを起こしやすいそうである。
しかしある時雨が降ったわけでもないのに上からバラバラ石が降ってくる。
見上げれば50mくらい上から子供たちが私めがけ楽しそうに石を投げてくるではないか!!
おそらく子供たちは、あの外国人を殺してやろう、と思っている訳ではなく、犬に石をぶつける感覚だと思うのだが、コブシ大の石がすごいスピードで降ってくるので直撃すれば即死ものである。
しかしその子供たちの純真無垢で無邪気な笑顔を見ていると思わず心和んでしまう、というような仏の心はあいにく持ち合わせていないので、とっつかまえて横っ面に2・3発ビンタを食らわせてやりたいところだったがそんなに上に居ては手も足も出ない。

ここは落ち着いて昔ファミコンで鍛えた腕を生かし、降り注ぐ隕石群を巧みにかわして進んでいく。
3回当たるとゲームオーバーだが、上上下下左右左右BAで最強装備に成れるので安心である。
ただしレーザーは自分でつけてね。

シュート!!


近いうちにこの日が来るとは思っていた。
撃ちました、鉄砲。
前に部族のおかしらの家で銃を見てビックリした話は書いたが、その後泊まる家泊まる家、そこそこお金がある家ならこの辺りでは銃や用心棒は常識なようだ。

ドギューン!!
AK47、1丁26000円なり。
かなり反動が強くて肩に痣が出来てしまった。

教訓
「ライフルは射撃の基本。脇を絞めえぐり込むように撃つべし撃つべし。」

2004年4月7日水曜日

敵情視察

日本で注目している人は3人もいないと思いますが、今イスラマバードでは南アジアスポーツ大会が行われています。

陸上競技を見てきました。
私は純粋に競技を見たくて行きましたが、これを見に来ているパキスタン人の9割9分9厘は女子選手の短パン姿が目的だと推測されます。(ちなみにパキスタンの女子選手だけはロングスパッツだった)

この調子で女子競泳も見に行きました。
なんてったってインド人やパキスタン人の水着姿が見れるなんて金輪際ない、あ、いやいや、純粋に競技が見たくて行ったのですが、何と男性の入場は禁止!!
プールは秘密の花園でした。

まあ、パキスタン男性にとってこれは国立ストリップ劇場(しかも無料)みたいなものだから、開放すれば全男性人口の9割9分9厘が押し寄せ、競技どころではなくなりそうなので賢明な措置かも。

先日はサッカーの決勝が行われました。
パキスタンの人気スポーツといえば、クリケットとタコ上げくらいで、サッカーの立場は日本のセパタクロー程度のものなのでそんなに期待していませんでした。
しかしそのカードは、開催国パキスタンvs宿敵インド。
これで盛り上がらないはずはありません。
5万人収容の大スタジアムに2万の観衆が集まり、そのうち9割9分9厘は男というムサイ空間で試合は行われました。

試合そのものよりパキスタン人の熱狂ぶりの方が遥かに面白く、結局1-0でパキスタンが勝ち大狂乱の事態になりました。
ゲームセットの瞬間、選手の半分くらいが西の方角に膝まづき額を地面に付け祈り始めたのが印象的。
神は偉大なり。

今度のワールドカップ1次予選で、日本はインドと戦いますよね。
5番のオーバーラップに気をつけろ、とジーコに伝えておいてください。

2004年4月5日月曜日

そこのけそこのけ自動小銃が通る(その3)


寝る前おかしらは言った。
「一人で寝るか?それともこの辺りは危険だから一緒に寝てやろうか?」
私のホモ感知センサーは瞬時にレッドゾーンを振り切った。
「一人で寝ます。」

30分後静かに部屋の扉が開いた。
おかしらだった。
おかしらは私の布団の横にドッカリと座る。
「自転車で疲れているだろう。マッサージしてやろう」

この手のシチュエーションには以前中東の旅でも何度か遭遇している。
もはや驚くことではなく、対処の仕方も熟知していた。
しかしそれらの時と今と決定的に違うのは、おかしらの腰元にはトカレフが巻かれているのである!
下手に怒らせたりするととんでもないことになりそうなので慎重に様子を伺うことにする。

おかしらはまず私の両足をマッサージし始めた。
そしてさりげなく私のMrニョロニョロに触ってくる。
それが意外にいい感じで、危うくMrスナフキンになってしまいそうになったので慌てて手で押しのけた。
するとその押しのけた手をとって今度は腕をマッサージし始める。
そしてその腕をおかしらの股間にグイグイ押し付けてくるのだ。
手の甲に当たる感触から、おかしらの自家製トカレフは既に対戦車用バズーカと化しているのがわかってしまう。
そしてついに私の掌でその砲身を握らせようとした。

「おー、ストップストップ!もう寝るよ!勘弁して!」
するとおかしらは意外にあっさりと諦めて、とても残念そうな顔をして部屋を出て行った。
しかしその後もまたいつ現れるかと気が気じゃなくて安眠どころではない。

翌朝・・・
おかしらは何事も無かったかのように元の紳士に戻っていた。
そして領内のドライブに連れて行ってくれた。
もちろんおかしらは自分で運転などせず、用心棒2人と自動小銃2丁を連れてのことである。

別れ際、「もしこの先困るようなことがあれば私の名前を出すがよい」といって見送ってくれた。
幸い困るようなことは起こらず、会う人会う人、皆暖かく親切でそして誇り高き部族達であった。

(写真:翌朝のおかしらファミリー)

そこのけそこのけ自動小銃が通る(その2)


家(城)には数え切れないくらいの部屋があった。
「何人住んでいるのか?」と聞いても、人によって「50人以上」「たくさん」とはっきりせず、平均で80人くらいらしい。
鳥小屋があってそれは私の家より大きかった。
そして家にはモスクがあった。
部屋の一つがお祈りスペースになっているのではない。
庭にモスクそのものが建っているのだ。
プライベートモスク・・・。

しかしこのオッサンはただの金持ちではない。
日本の居間に今日の朝刊が置いてあるかのようにロシア製自動小銃やピストルがその辺に置いてあるのだ。
食後にはみんなでハシ○をプカプカ。
目つきのメチャメチャ鋭い用心棒風の男がハ○シを仕込んでいる姿は失禁ものである。

もちろん私は誘拐されたわけじゃなく、おかしらのゲストとして迎えられているのでこの家を訪れる人はおかしらの次に私に挨拶しに来る。
NO.2である。
この気持ちよさといったら戦車に乗ったどころの比ではない。

夜もふけてきた。
20畳くらいのゲストルームの床に布団を敷いて寝る部族式である。
このままならばいつもの地元民宅お泊りのちょっと変わったパターンで終わるところだった。
しかし話はまだまだ続くのだ・・・

(写真:くつろぐおかしら(左)。そしてその後…)

そこのけそこのけ自動小銃が通る(その1)

パキスタンの危険地帯といえば北部インド国境付近のカシミール地方が有名であるが、それ以外にアフガニスタン国境付近のトライバルエリア(部族エリア)がある。
ここはパターン人というこの地域最大の部族の土地。
パターン人というのは大小様々な部族の総称であり、この地域には国の法律が及ばず自治が任されている。
麻薬・武器・酒が公然と売買され、外国人が誘拐されたりするおっそろしい地域である。

もちろんこの情報は前もって知っていて、今回の中部パキスタンツーリングのルートはこのトライバルエリアを大きく外した道を行った。
しかし一般パキスタン人に言わせるとその道でも誘拐があるので危ない、という。
必ずメインの国道を行くように忠告され、それに従ってさらに大きく迂回するルートをとった。

その国道上のドライブインで夕飯を食っていた時のこと。
一人の身なりのしっかりした紳士がやって来て
「この辺りも危険地帯なので私の家に泊まりに来た方がいい」
という。
その人の元には辺りの人がわざわざ挨拶に来るような信用できそうな人だったのでついていくことにした。

車に乗って田舎道を行く。
「あれは私の家だ」
しかし車は通り過ぎてしまった。
「あれも私の家だ」
やっぱり車は止まらない。
そんなのが数回続いて
「あれが私のメインの家だ」
しかしそれはもはや「家」と呼べるような代物ではなかった。
砦、要塞、城・・・

もうここまで読まれた方はお気づきだろう。
そう、この男こそ、この地方最大の部族、6万人を率いる部族のおかしらなのであった。

これを日本に例えるなら、
神戸辺りのコンビニで肉マンをかじっていたら、通りがかったオッサンに「この辺りはヤクザの抗争があって危ないからうちに来なさい」と言われ、行ってみたらその人は山口組の組長だった、
といったところである。

パキスタニーレディース

パキスタンの女性は皆気絶しそうなほど美人である。
しかし都会を除けばその顔を見ることができるのはまれだ。
黒いブルカ(顔を隠す布)をかぶっていて目しか見えない。
しかし更に田舎に行くとその目すらも見えなくなる。
顔全体をスッポリ覆ってしまうのだ。
パキスタンではイランなどでも見られるこの黒いブルカの他に白いタイプのものもある。
それは頭から足までスッポリかぶるポンチョのようで、顔の前は格子状の網になっていて中身を想像することは全く不可能。
頭の先っぽがピョッコリ出ていて、まるで歩く哺乳瓶(コンドーム?)
「そんな人が5人も集まっていたら、子供はどれが自分のお母さんかわからなくなるのでは?」と聞いたら、やっぱりわからないらしい。

写真でお見せできれば皆さんにもよく理解してもらえるだろうけど勝手に写真を撮るなど言語道断。
「写真を撮っていいですか?」と聞くのも、日本人に「風呂に入っているとこを覗いていいですか?」と聞くくらい勇気が要る。
どうせ答えは「NO」に決まっているし。

誰かさんちにお世話になっても姿を見せるのは男ばかりで奥さんや娘が出てきたことは一度もない。
扉の向こうで料理しているのに。
初めの家が特別なのかと思ったらその後どの家でも同じであった。

だからパキスタンにいる今まで1ヶ月の間に女性と話したのは7歳ぐらいのチビッコに「ハロー」といわれた1回コッキリ。
この子は将来大物になろう。

こんな厳しい男女関係の国なので、結婚前に付き合うなんてありえない。
「パキスタンにはホモが多い」とよく言われるが半分は正しいが半分は間違っている。
「メチャメチャ女好きだがその環境がないので男同士で我慢している」というのが正しい。

だからいざ結婚するとマシンと化してしまい、速攻で10人のパパである。
もはや「子供は10人」と聞いても驚かなくなってしまった。
逆に「2人」とか言われると「どこかお体の調子でも悪いんですか?」と心配になってしまう。

最高24人の子持ちの人がいて(妻は3人)、「子供の名前をちゃんと覚えられるのか?」と聞くと、やっぱり覚えられないらしい。

パキスタンに「スエ男」や「トメ子」は存在しないとみた!

バングラデシュ・パキスタン比較概論第一

1971年の独立以前バングラデシュはパキスタンであった。
元々は一つであったこの両国を比較する。

まずバングラデシュにおいて(以下は大いにインドも同様)、役所・銀行・郵便局などに勤めるものは、無能・有象無象・人の形をした虫ケラの集団である。
彼らの主な業務は、いばること、ワイロを請求すること、できるだけゆっくり仕事をすること、である。
彼らに関わらねばならなかった後は火炎放射器で全員を焼き殺したい衝動にかられる。

特に警察はひどいようで、まず警察になるためにはコネと多額のワイロが要求される。
いざ警官になるとその金を回収するために、適当に因縁をつけ罪のない市民を逮捕しワイロを請求し私腹を肥やす。
以前警察署内で外人女性がレイプされる事件もあったらしい。
メチャクチャである。
「バングラで一番の悪党は警察だ」と警官の息子が言っていたので間違いなかろう。

してパキスタン。
どうせ似たようなものだと思っていた。
しかし全然違った。
どの役人もやたら丁寧で親切でそれなりにテキパキ仕事をするのである(地元民には厳しいらしい)。

道を走っていると検問やパトカーにしょっちゅう止められる。
パキスタン国内を自転車で旅することは自由なので別に恐れる必要はないのだが、やっぱり嫌なものだ。
止まるとひと通り質問される(どこから来た、とか)。
しかしそれは尋問というよりは好奇心から出る普通のオッサンの質問と同じである。
そして質問の後には必ずチャイやジュースの接待付き。
別れ際には「腹減ったら食べなさい」とお菓子や果物を買って持たせてくれたり、「困ったら電話しなさい」と携帯番号をくれたり。
パキスタンでは警官にお世話になりっぱなしだった。

そしてこの両国を比較すると一番の特徴は一般市民は皆この上なく親切である、という点でまったく同じであるということだ。

2004年3月27日土曜日

原っぱ


インダス川中流からやや東に「ハラッパ」というインダス文明の遺跡があります。
世界史の授業の1回目か2回目をちゃんと起きていた人なら、モヘンジョダロとともに名前ぐらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。

でもここのレンガを持ち出して、近くの鉄道建設に使っちゃって今はほとんど何も残っていない「原っぱ」と化していることは教科書にも載っていない事実です。
また入場チケットには「尊敬すべき外国人旅行者用」と銘打って現地人の20倍もふんだくっていることも教科書には載っていません。

結論「インダス文明を見たけりゃモヘンジョダロに行け」

(写真:これはまだマシな方)

2004年3月18日木曜日

そこのけそこのけ戦車が通る

トラックストップで一休みしていた時のこと。
もうもうと砂煙を上げながら数十台の巨大なトレーラーが入ってきた。
各トレーラーには戦車を載せている。
パキスタン陸軍の演習帰りで、トレーラーの一台がパンクし修理のため止まったようだ。
直している間ボスを中心に兵士たちは私の周りに集まり話に花が咲く。
充分打ち解けたと見計らったところで言ってみた。

私:戦車に乗ってみたいなあ。
ボス:ばかなこと言っちゃいかんよ、それは無理だ。
私:はは、冗談ですよ。

となるはずだったのだが、なんと、、、

ボス:いいよ。

戦車のコックピットは狭かった。
ちょっと前進と後退もさせてもらった。
砲身旋回して2時の方向にぶっ放したかったが代わりにボスが屁をぶっ放した。

話ついでに基地までヒッチさせてもらうことになった。
後ろに戦車30台を引き連れてのドライブは気持ちいいものである。
しかしまた別のトレーラーがパンクし大ストップ。
結局自転車で行くのと大差なかった。

それにしてもこんなにパンクばかりしていて有事の際大丈夫なのだろうか?!
いや、それ以前に国家の重要機密であるはずの兵器にどこの馬の骨ともわからん奴を乗せちゃっていいのだろうか?!

こんなオチャラケたことしてるからいつもインド軍にケチョンケチョンにされちゃうんである。
パキスタン兵士の皆さん、次の印パ戦争では頑張ってくださいよ!!

2004年3月11日木曜日

お前のものは俺のもの

パキスタンとインドは北部カシミール地方の領有権を巡り現在も対立しています。
中国も含めこの3国間の国境線ははっきりしないところが多いです。

パキスタン発行の地図ではインド側にグワーとせり出しているし、インド発行の地図ではパキスタン側にグワーとせり出しています。
中国発行の地図にはインド北東部に、シッキム(首都ガントク)という小さな独立国が見られます。(この問題は去年の中印首脳会談で解決したか?)

この手の状況はほかの地域にも見られ、例えばシリア発行の地図には「イスラエル」という国は存在しません。
そこには「パレスチナ」という国があるからです。

またトルコ発行の地図には、キプロスが南北2つの国に分かれています。
北キプロスはトルコのみが認める国です。
戦前の日本のみが認めた満州国と似たような状況でしょうか。
しかし実際行ってみましたが、そこは明らかに2つの国が存在し、南北間には鉄条網の国境がしかれ、行き来するにはパスポートに判子を押す出入国審査が必要です。
通貨も南北で違います。

そうだ、もっと身近にありました。
おそらくロシア発行の地図には北方四島はロシア領になっているのでしょう。

果たしてこの世界には、何通りの世界地図が存在するのでしょうね。

2004年3月9日火曜日

飛行機心得

はじめに。
これを読んでもよい子は決して真似しないでください。
よい大人になれません。
またよい大人も決して真似しないでください。
悪い大人になってしまいます。

なぜか私の乗る飛行機はすごい夜遅くだったりメチャメチャ朝早かったりする。(今回のもAM1:30だった)
そうなると前日から空港で泊り込みである。
皆様もご存知の通り空港では何でも高いのでなるべく消費したくない。
よって飛行機に乗込む時にはいつもハラペコである。

今までの中で一番ひどかったのは、カルカッタ→モスクワ→アテネの飛行であった。
モスクワで4日のトランジット。
しかしトランジットビザは72時間のみ。
つまり丸一日は空港内で過ごさねばならない。
ビスケットをかじって何とか生き延びたが飛行機に乗った時にはすでにフラフラである。

待望の食事が来た。
スッチーが聞く。
「肉にしますか?魚にしますか?」
あまりに飢えていた私は思わず言ってしまった。
「両方ください!」

一瞬スッチーは困った顔をしたが「もし余ったらあげますよ」。
一応全員に配り終えた後ちゃんと持って来てくれた。
パンも山ほどくれた。

皆さんも腹減ってどうしようもない時は試してみてください。

また機内でもらえる絵葉書(たいてい飛行機の写真)を書いてスッチーに出しておいてくれるよう頼むと切手無しでも届きます。(どういう仕組みかは知りません。全ての航空会社でやってくれるかどうかもわかりません。)

皆さんも切手を買うお金が無い時は試してみてください。

それでは皆さんもよいフライトを!

2004年3月3日水曜日

文化の壁

私の旅では、ある国に行ったらその国の文化風習に従うのが大原則である。
しかしたまに例外もあって、紙拭き文化の中国で水で洗っていたら変な目で見られた、というのは以前書いた。

そしてもう一つあった。
それはインド・バングラデシュにおける座りション文化である。
一度試しにやってみたのだが、長年の癖でしゃがんでしまうとウンコをしてしまいそうになるのだ。
これはアセった。

しかしこの座りションもこの国の文化に合っているのだ。
男でも足首まである長い巻きスカート(ルンギ)をはくので、立ちションしようとすると、ガバッとたくし上げなければならず、座ってチョロチョロやった方が都合がいいようだ。

ちなみにズボンの人も座りションする。
ズボンを脱いじゃうわけではなくてチャックだけ開けてする。

また便所には座りション用便器まである。
便器といってもただ足置き用のブロックが2個あるだけで穴はない。
前方に溝がある。

お隣ビルマでは男女共にルンギ着ていて、男は同じように座りションだが、何と女性は立ちションである。
道端で難しい顔してジッと立っている人は、もよおし中か考え中である。
もちろん足元やすそはビショビショになるが一日に何度もルンギつけたまま水浴びしているので問題無いらしい。

いやはや、所変われば、ですね。

2004年2月26日木曜日

インドに向かいし者たちへ

インドのデリーは世界最悪である。
ちなみに2位はモロッコのタンジェである。

何事もなくデリーを脱出できたらインド旅行の危険の90%は回避できたといってよい。
以前デリーの騙し屋と話したことがあって、面白いネタをいろいろ聞いたので一部を紹介しよう。

彼らは非常によく人を見て選んでいる、ということである。
いかにも長期旅行者風は相手にしない。
まずワナにかからないし、たいした金も持っていないから。
彼らが狙うのはピカピカのバックパックを背負った(←ここがポイント)1人か2人組(3人以上は警戒心が強くなり駄目らしい)、男女は関係ない。
そして3月が一年のうちで一番の稼ぎ時である(学生の春休みシーズン)。
この1ヶ月がんばって働けば(騙せば)、残りの11ヶ月は充分遊んで暮らせるそうである。

まもなくその3月。
いまやインド中のワルがデリーに集結していることだろう。
そして今年も多くの日本人旅行者が彼らのエジキに…

バングラデシュサイクリング事情

今回初めてバングラデシュを自転車で移動してみて驚いた。
この国はとてもサイクリングに適した国である。
特に海外サイクリング未経験者の入門用にはもってこいの国なのだ。
理由を挙げてみよう。

・行けども行けども見渡す限りの平地である。今回800kmの走行中上ったのは2回渡った橋だけ。川はたくさん越えたがほとんど橋はかかってなくて渡し舟を使う。

・道幅は十分広く、舗装状態は驚くほど良い。

・車の運転は荒っぽいが圧倒的に数が少ないのでヒヤリとする場面はごく稀。

・幹線は車が多いがちょっと外れればそれはそれはのんびりとした静かな田園風景の中の道を行ける。

・自転車を停めて一休みするとすぐ100人くらいに囲まれるが、逆に囲まれることにより安全は守られる。自転車をほっぽいといても自動的に彼らが監視役になっているので大丈夫。

・たとえ英語もベンガル語も全くできなくてもどこかから親切な人が来て助けてくれる。

・食事、休憩ポイントはいくらでもある。宿も鉄道駅やバスの停まるような町なら間違いなくある。運悪くなかったとしてもきっと誰かが泊まりに来い、と言ってくれる。

こういうわけだ。
さあ、サイクリストよ、バングラデシュを目指せ!!

バングラデシュ・インド比較概論第一(2回目)

インドにはさまざまな手段を使って旅行者から金を騙し取ろうとする奴が大勢いる。
(ズドンと一発とかボコボコにして力づくで、とかはあまり聞かないが)

中でも最も注意すべきは巧みな日本語使いである。
旅の上級者はその辺よく知っているので相手にしないが、インド初心者にとっては、困っているところにサッと現れ親切に助けてくれるのでコロリと騙され、後でドカンと持っていかれてしまう。

対してバングラデシュ。
実はこちらにも大勢の達者な日本語使いがいる。
町を歩いていると結構頻繁に日本語で話しかけられる。
しかし警戒する必要はない。
彼らは以前日本に出稼ぎで働いたことのある人たちで日本人を見て懐かしがって話しかけているだけなのだ。

昔はバングラ人は簡単に3ヶ月のツーリストビザがもらえた。
しかし来日しても3ヶ月で帰るはずがなく、多くは10年とか15年とか不法滞在して働き、最後に警察に捕まって強制送還される。
そのあまりの多さに大使館は個人の申請ではビザを出さなくなった。
(↑これは聞いた話です。詳細は違うかも)

時々小さな村の中に豪華な家が建っていたりする。
それは「日本ハウス」と呼ばれる出稼ぎ組の家なのだ。
当然それを見ている他の人らも日本に行きたがる。
だが決してビザは下りない。
お前の力で何とかしてくれ、と私に頼んでくる。
しかし悲しいかな、私は何の力も持たないただの旅人。
それは難しい、と諭してもなかなかわかってもらえない。

バングラデシュ人の親切にいつもあやかりながらこういうところではまったく力になってあげられない…
己の無力さを痛感する。

事故った!

時は2004年2月16日。
とある田舎の幹線道路を一台の自転車が横断しようとしていた。
常にサーキット状態にあるこの国の道を横断すること自体かなり無謀なのだが、その自転車は決行した。
そこへ猛スピードの乗用車が衝突!
自転車はグルリングシャグシャ。
周りで見ていた大勢の人々が制止しようとするが車はそのまま突っ走って逃げていった…

という事故を目撃したという話です。
私が事故ったわけではありません。
必死の形相で逃げにかかるドライバーの顔が印象的。
すぐさま野次馬の一人が後続の車を止め追跡開始!
運良く(悪く?)前方で踏切が閉まっておりそこで御用。
ものすごい量の人が群がっており、おそらくそいつは引きずり出されボコボコにされていることだろう。

私はトバッチリを避けるためさっさとその場を去りました。

2004年2月21日土曜日

スチューデントライフ


ボリシャルではヒョンなことから大学の寮でしばらくお世話になっていた。
この大学は全寮制。
授業は8:00〜13:00、後は自由。
ずうずうしくも講義まで参加し、先生から質問され
「そうだと思いますが専門外なので確かなことは分かりません」
とアカデミックな返答で切り抜けた。

学生生活はやはり夜が面白い。
娯楽室みたいなのがあって、テレビの前にみんな集まってアメリカ映画を観る。
その中で心が洗われるようなシーンになるとピュ~と早送りしてしまうのだ。
さすがイスラム国。

と思ったら映画が終わると低学年の学生は部屋から追い出され、高学年だけが残ってさっき飛ばしたシーンだけをワザワザ見直す。
ボリューム担当は、声が大き過ぎず小さ過ぎず調整するのが大変そう。

そしてそれからは心が洗われるような映像専門のアメリカ産ビデオを立て続けに3本見た。
100人くらいで一緒に見ている時点で既に異様なのだが、私にとってもっと不思議なのはこのビデオで大爆笑が起こることだ。

そのシーンはさくらんぼみたいなのに生クリームを塗って舐めたり、バナナみたいなのにチョコを塗って舐めたりするシーンだった。
みんなの大爆笑の中、私一人「うまい棒のチョコバナナ味は美味しいんだけど、小さいからメンタイ味にすべきか迷っていたなあ」と考えていた。

ちょっと話はそれるが、南アジアの映画は笑いが単純である。
ずっこける、叩かれる、などで大爆笑。
単純ゆえに言葉の分からない外国人にも面白いことは分かる。
以前日本で働いたことのある人に「日本の好きな番組は?」と聞いたら「シムラケン、バカトノ」と答えてくれた。
それと同じことだろう。
志村けん、偉大なり。

またどうにも理解に苦しむのがアメリカンジョークである。
どこが面白いのかさっぱり分からない。
アメリカ人の知能レベルを疑う。

話を戻そう。
そのとき見たビデオの中で2本目にはインド人が出ていてやっぱりインド女性はとても美しかった。

一応バングラ学生の名誉のため言っておくが、授業態度はきわめて真面目で私の学生時代より10倍真剣である。
ビデオを見る目は20倍真剣であったが・・・

(写真:真剣そのもの…)

バングラデシュ・インド比較概論第一(5回出席で2単位)

バングラデシュとインドの違いは何か?と考えたとき、ほとんど変わらない、と思ってさしつかえない。
言葉・食事・衣服・乗り物・宗教などなど細かい点に違いは見られるが、大方はよく似ている。

しかし私は長期にわたる現地調査の末、ある一つの決定的な違いを発見した。
それは「ノープロブレム」の使い方である。
まずは例を見てみよう。

インドの場合…

・バスに乗っていたらトラブル発生、修理が始まる。
 私「いったいいつになったら出発できるんだい?」
 運ちゃん「ノープロブレム」

・町を歩いていたらリキシャに足を踏まれた。
 私「痛い痛い!」
 リキシャ引き「ノープロブレム」

対してバングラデシュの場合…

・宿の部屋を案内してもらう。文句なし。
 宿ボーイ「Anyプロブレム?」
 私「ノープロブレム」

・食堂で頼んだものが並べられた。
 食堂ボーイ「Anyプロブレム?」
 私「ノープロブレム」

これらから見て分かるように、インドでは明らかに問題があるときにそれをはぐらかすために現地人がよく「ノープロブレム」を使う。
対してバングラデシュでは明らかに問題がないのにわざわざ気を遣ってくれたことに対し旅行者が「ノープロブレム」を使うのだ。

これこそ両国の決定的な違いである。

2月14日

さて問題です。
2月14日は私にとって何の日でしょう?

3、2、1、ブー。
時間切れ。

バレンタインデーではありません。
それは私には縁のない話です。
答えは、一年前のこの日、肝炎による黄疸が出て入院した日、でした。
あれからもう一年も経ったのか…
月日の過ぎるのは早いものです。

あなたが黄色くなったから
今日が私の肝炎記念日

血祭り


2月1日~3日はコロバニイード、犠牲祭でした。
これはその昔ムハンマドがどーたらこーたらでああしたらしいという、理由はこの際どうでもいいのだけど、町中で牛・羊などが生け贄として殺され神に捧げられるというお祭りです。

祭りはその数日前から始まります。
空き地や道路に何百という牛が売られるため集まります。
その規模はドナドナどころの騒ぎでなく、強いて言うならばドナドナドナドナドナドナドナドナ…ぐらいすごいです。
そして1頭1万~100万円くらいで買われ町のあちこちにつながれその日を待ちます。

祭り初日、朝のお祈りの後、牛は足を縛られ、倒され、数人に押さえつけられ、ナタでギコギコ首を切られます。
グェ~という断末魔の咆哮、
ビュービュー噴出す鮮血、
ブシューブシューという気管から漏れる息。
町の川は洗い流された血で真っ赤に染まります。

事切れた牛は皮をはがれ細かい肉片になり、その日の昼食の皿に並びます。
その食事にはその辺をフラフラ歩いている外国人も気軽に招いてくれ、ご一緒させてもらえます。
また貧しい人にも肉が分けられみんな幸せになれます。

コロバニイード、スプラッターかつハートウォーミングなイスラムの大切なお祭りのひとつです。

(写真:今日はビーフカレー!)

カユイ!PART2

だいぶ前に書いた、映画館に行って椅子に座ったらダニの巣窟になっていてひじと背中がボコボコに腫れた、というのはバングラデシュでの話でした。

その後私も賢くなって、映画を観る時は館内に入るとすでにドッカリ座っている人に
「その席で見たいから一つずれてよ」
とお願いするようにしていました。
バングラデシュの人はとても親切なので喜んで換わってくれます。

で、今回も懲りずに映画館に行きました。
しかし!
ありがたいことに係りの人が気を利かせて入場待ちの行列をすっ飛ばして先に入れてくれてしまったのです!
つまり中には私一人。
どこが当たりかハズレか分からない。

一か八か適当に座ってみました。
お尻だけチョコンと。
しかしこの姿勢を3時間もある長いバングラ映画で続けるのはあまりにも辛い…
思わず背中もたれてしまいました。
その瞬間…

背中ボコボコ。
あなどるなかれ。

2004年1月29日木曜日

タイにはあってインドにはないもの

バンコクで夕暮れ時になると公園に大勢の人がやって来てジョギングしたり、サイクリングしたり、セパタクローしたり、エアロビクス(!)したりしています。
日本でもジムなどで頑張っている人が沢山いますが、よく考えてみればせっかく吸収したカロリーを自ら苦労して消費するなんて、なんと無駄な事なんでしょう!!
インドでは見たことない!

もちろんインドでも上流階級の人はカロリー過多ですが大抵なすがまま、ブヨブヨに太っています。
それが金持ちの証でもあるわけです。

あとタイにはあってインドにはないもの、それはペットフード。
スーパーの棚にずらり並ぶ「猫まっしぐら」。
富める国ならでは、ですね。

国によっては犬・猫自体が食われてしまうというのに・・・

2004年1月28日水曜日

ゾンビ

死体博物館に行ってきました。
寺もムエタイもオカマバーも行ってないけど、死体博物館には行ってきました。

ここはある病院の一角にある標本室のようなものでいろんな病気とか事故とかで死んだ人間のエグイ標本がこれでもかと並んでいます。
お食事中の方に申し訳ないので詳細は省きますがとにかくエグイです。

どうも私はこの手のエグイのが好きで、大学で東京に初めて来た際は、いの一番に目黒の寄生虫博物館に行きました。
「樹脂で固められた人間が輪切りの標本になっている」展が上野の博物館に来た時は学校をサボって見に行きました。
エジプトのミイラ室では食い入るように凝視し、絵葉書まで買ってしまいました。
イタリアのカタコンベ(地下墳墓)の何百体というタキシードやドレスを着たガイコツを見た時は夢に出てきてうなされました。

しかしこれは人間ではなく物体として見ているので平気な気分でいられるわけですが、お葬式の時に棺桶の窓からみんなで覗いて「あら綺麗なお顔、生きてるみたいねえ。」といったりするのはどうも・・・。
「死んでるよ!」と突っ込みたくなります。
見る方も見られる方も嫌だろうにねえ。

伊丹十三も映画「お葬式」で皮肉ってましたよね。

2004年1月23日金曜日

後日談 その2

旅に出る前に掛け捨ての海外旅行傷害保険をかけてあったので、現地での手術・入院代、日本への飛行機代、日本での入院・リハビリ代その他諸々、全て保険で払ってくれた。

その額、総額300万円!!
こりゃもう保険無しでは怖くて旅できませんわ!

後日談 その1

第8話にて、全身麻酔から目覚めたとき私の周りには大勢の医者や看護婦がいた。
そのときはどうも思わなかったのだけど、後日気になることを聞いた。

ごく稀にある事故らしいのだが、麻酔の量を間違えて多く入れてしまうとそのまま昏睡してしまって一生目覚めないのだとか。

もしかしてあの大勢の顔ぶれは
「こいつ全然目覚まさないじゃないか・・・」
という集まりだったのかも・・・??

あるいは、全裸(パンツも無し)にて手術を受けさせられたので
「やはり日本人のチ○コは小さかった!」
とみんなで話していたのか?!

2004年1月20日火曜日

第31話 大団円

病院にやって来た。
あの時は夜に入り、早朝に出ていったのでどんな所か分からなかったのだが来てみてビックリ。
庭・噴水付の豪華私立病院だったのだ。

懐かしい院内に入り、通りかかった人に当時一番よくしてくれた看護士さんの名前を伝えた。
しかしその人は数ヶ月前にここを辞めていたのだった。
残念な気持ちで帰ろうとすると、そこに白衣に身を包んだ男が通りかかった。
「あっ!」と声をあげたのは同時だった。

そう、その人は足の手術を担当し、入院中にいろいろ面倒を見てくれた主事の先生なのだ。
元気にピョンピョン走り回って見せるととても喜んでくれ、
「また事故ったらここに運んでもらえよ!」
とニコニコ話してくれた。
でもそれは勘弁。

・・・
2ヶ月後、ついに目的の地であるユーラシア大陸最西端、ロカ岬に立った。

         <完>

第30話 再訪

走り始めると不思議なことに気付いた。

覚えているのである、何もかも。
店、看板、道のカーブ具合、木、普段なら目に入ってくるだけで記憶には残らないちょっとした風景が全て。

そしてしばらく進むと、突然記憶にない風景が続くようになった。
そう、そここそが2年前事故に遭った場所に違いないのだ。
私は自転車を降り、辺りの草むらを探し回った。
もしかしてそこにクシャクシャになったあの自転車の残骸があるかもしれないと思ったからだ。

何度も何度も往復したが結局それをみつけることはできなかった。
トルコで最期を迎えてしまったあの愛車に静かに手を合わせた。
学生時代の思い出の全てを共有したあの自転車に。

気を取り直し、再び漕ぎ始めた。
次なる目的地はあの9日間入院した病院である。

第29話 復活

しかし一年間全く動くことのなかった足の筋肉はすっかり退化してしまっていた。
完全復活に向け、ピンポンダッシュや食い逃げなどの厳しいトレーニングを自らに課した。

そしてさらに時は流れ、事故から2年後の夏、私は再びトルコの大地に降り立った。
あの時、あの事故で中断してしまったあの旅を完結させるためである。

私は新しい自転車にまたがり、同じ道を走り始めた。

第28話 奇跡

3ヶ月の入院・リハビリ生活が続いた。
この間先生に言われたことは
「たとえ反応がなくても動くのを意識して念じろ。そうすれば神経の回復も早まる」
ということだった。

時は流れた。
あの忌まわしい事故から約一年後。
私はサザエさんを観ながらもはや日課となった自己リハビリをしていた。
動くことのない左足首に手をあてながら。

・・・はじめそれは脈だと思った。
あまりにも弱いピクピクとした動きだったから。
しかしその脈は自分の意思で動かすことができるのだ。

そう、これは脈ではない!
弱々しくはあるが紛れもない、筋肉の動きなのだ!
ついに、ついに復活したのだ!
トルコの医者が行った手術は成功していたのだ!
毎日毎日念じ続けた甲斐があった!

その甲斐あって、今では手を使わずともテーブルの上の灰皿を動かしたり、女子高生のスカートをめくったりできるようにもなった。
怪我の功名である。

第27話 更に真実

更に遅れて届いた事故証明書から事故発生の状況も明らかになる。

追越をかけた車は私に斜め前方から衝突する形になったため、私の体は道の脇に吹っ飛ばされた。
落ちた所が草地で、しかも顔面から落ちたため顔の表面を軽くこすっただけで済んだのだ。
だからそれで出来たカサブタも数日後にははがれている。(第16話参照)

もし落ちた所がアスファルトの上で、しかも後頭部から行っていたら今ごろはあの世行き、よくて植物人間か。

事故直後、右目が見えなくなったのは一時的なショックなためでこの日本帰国時点で既に回復していた。

また、右足ひざ裏の切れた個所も、その豪快なえぐれかたの割に神経切断程度で済んだのは奇跡であり、すぐ真横にある靭帯が切れていたら半年は歩行不可能、動脈が切れていたらオダブツか切断は免れなかったらしい。

第26話 真実

日本の病院にそのまま入院することになった。

こちらの担当の先生(もちろん日本人)にトルコの病院から預かってきた診断書・手術経過書・レントゲン写真などを渡す。
診断書などはもちろん全て英語で書いてあって読んでみようと思ったのだが、一分で眠くなってしまうような代物だったのでそのまま先生に渡した。

その結果、驚くべき事実が明らかになった。
まず私が日本の病院に真っ先に期待していたのは、この動かなくなってしまった足を何とかしてもらいたいということだった。
しかしそのための処置はもう既に完璧に済んでいたのだった。

つまり、私がガスでグースカ寝ている間にトルコのお医者様は切れた神経を顕微鏡で覗きながら縫合手術をしてくれていたのだ。
ただ神経というのは、切れたのを結んだからといってすぐに回復するわけじゃなくて、切れた個所から1日1ミリずつゆっくり感覚が戻っていくらしいのだ。
ひざから下、全て戻るまで約一年。

そう言われてみればトルコでの初めての回診のとき、医者はいろいろ説明してくれていたのだが私は頭が真っ白になってしまって全然聞いていなかっただけで、もしかしたらその辺も言ってくれていたのかもしれない。(第9話参照のこと)

第25話 賭け

ついに日本に着いてしまった。
しかし喜ぶのはまだ早い、大きな関門があった。
というのは、この時私のかばんの中には税関の人が見たら大喜びでカツアゲされてしまいそうな写真がたくさん載っている本が入っていたのである。

トルコを出る時病院の人にあげてしまおうとも考えたのだが、せっかく築いた日本人の信頼を本ごときで壊しちゃいかんと思い持って帰って来てしまった。
しかしもし税関で見つかった時には
「あなた、こんな姿になりながら何考えてるんですか?!」
と大目玉食らってしまう可能性もある。
これは大きな賭けであった。

で結果、税関はフリーパス。
こんなんだったら拳銃でも麻薬でも象牙でも何でも持ち込めたかも。
密輸に携わるみなさんは、私くらい体を張ってやってもらいたいもんである。

第24話 祭り

優しいスッチーが言う。
「もしトイレに行きたくなったら遠慮なくお申し付け下さい。肩をお貸ししますので。」

な、なにー!
これはぜひ遠慮なく肩をお借りしたい!
私は遠慮なく水やビールをがぶ飲みし、遠慮なく膀胱をいっぱいにさせ、遠慮なく言った。

「はいはーい!すみません!トイレに行きたいんですけど!」
「承知しました。少々お待ち下さいませ。」

あれれ?
スッチーはどこかに行ってしまった。
代わりにやって来たのは、フランス人大型スチュワード3人。
3人にひょいと担ぎ上げられ他の乗客の視線を浴びながら通路を運ばれる。

「祭りだ祭りだ!ケンカ神輿だ!ワッショイ!ワッショイ!」

神輿はトイレに到着したが、狭い室内で四苦八苦していると外から「ドンドンドン!大丈夫か?!何かあったのか?」と必要以上に気を遣ってくれて嬉しい限りであります。

もちろん帰りもケンカ神輿。
以降水分を控えたのはいうまでもない。

第23話 上客

パリの空港のラウンジでメシを食っていると(一応ビジネス客なので)同じ飛行機に乗るらしき日本人がドヤドヤやって来て、バカデカ声でゴルフの話とか下らぬシャレとか言いガハハと笑う。
別の所ではブランド品がどーのこーのとか免税店がどーのとか話すおばさん。
私は今からこういう人たちのいる国に行くのか、と思うと吐き気がしてきた。

ここから名古屋までの12時間はビジネスクラスの旅。
スチュワーデスは半分は日本人。
いろいろ丁寧に面倒みてくれ、気遣ってくれる。
自分はお金払っていないのにこんなにサービスしてもらっていいの?!と思うくらいで逆に恐縮してしまった。

2004年1月16日金曜日

第22話 世界の車窓から

飛行機の窓からはいろいろな風景が眺められる。

日の出の太陽でエーゲ海がキラキラと黄金色に輝いていた。
ギリシャの台地、アルプス山脈の険しい山々、フランスのパズルのような畑地帯。

細く道も見える。
もしかしたら自分はあの道を走っていたかもしれないのだ。
時速20kmでノロノロと。
それなのに今自分は1万m上空から時速800kmの速さでその道を見ているのだ。
なんでだ?どういうことなんだ?
窓の外の景色は悔しさの涙でにじんでしまった。

まもなく花の都パリに着く。

第21話 帰国の途

入院9日目、最終日。

早朝、いよいよ病院を出る。
ここから日本までの道のりは、

病院から最寄りの空港まで救急車

イスタンブールまで飛行機(トルコ航空・前後2席)

パリまで飛行機(エールフランス・前後2席)

名古屋まで飛行機(エールフランス・ビジネス横2席)

空港から名古屋の病院まで救急車

という豪華24時間の旅である。

飛行機の搭乗者名簿の「VIP」リストにはしっかり私の名前が載っていて乗り降り時などいろいろ面倒みてくれる。

また空港に着けば、私の名前の書いてあるプラカードを掲げた人が待っていてその人が乗り継ぎの手続きとかをやってくれるのだ。

だから名古屋の病院に着くまで私がやったことといえば、飛行機の席の横までつけられた車椅子からよいしょっと席に移動するだけ。
ただこれだけであった。

第20話 準備完了!

出発に備えての準備をする。
半年間一緒に旅してきた数々の品々。
でも全部持って帰るには重過ぎるので多くをここで処分した。
ほとんどは病室に出入りする人々がもらってくれた。
それらには折鶴と「ありがとう」の言葉を添えて。

明日日本に帰ることを話すと、みんな
「よかったねー!でも寂しいねえ。また来てね!」
と言ってくれ、うれしいのだが事故では来たくない。

中には見たことのない人まで混じっているので私が不思議そうな顔をしていると、その人は言った。
「私の声に聞き覚えがないかな?」
おー!その声は電話交換手の人ではないですか!
毎日のように話はしてたんだけど、わざわざ見送りに来てくれるとは感激!

みんな頼んでもほとんど仕事をしてくれない人達でイライラすることも多かったけど、ベッドから動けない私にとって時々現れる彼ら彼女らと話ができる時間は一時の安らぎであったことは確かだ。
病院という一種変わった世界の中にも感動的な出会いがあった。
まるでこの旅の最後を象徴するかのようだ。

そう、あと4時間後、一眠りした後にはここを出て日本への道が始まるのだから…

2004年1月15日木曜日

第19話 改造人間

入院8日目。

いよいよ明日日本に向け出発する。
朝、顔の手術担当の先生が来て、自分の作品の出来栄えを見て大変満足しておられた。
そして私の顔をあちこちなでたり押したりしてきた。
その指が目の下の所をグッと押したとき骨の方に痛みを感じたので
「痛イヨーセンセ〜!」
と言うと、先生はニコッと笑って
「君の顔のブロークンした骨はメタルワイヤーでつないである。そのワイヤーは永久にそのままだが心配はいらないよ。そう、君はこれからメタルマンなのだ!」
と冗談にしてはキツイことをおっしゃる。

空港の金属探知ゲートで裸になってもキンコンキンコン鳴り続ける自分の姿を想像してしまった。

2004年1月13日火曜日

第18話 洪水

私はベッドから一歩も降りられないので、何か用事があるときは頭のところにあるナースコールのボタンを押して看護婦さんに来てもらう。
しかしいつもは呼んでもいないのに勝手に来て話しして行くのに、こっちが用事があるときは全然来てくれないのだ。

ある時小便がしたくなってシビンを持って来てくれるよう頼もうとボタンを押すが、全く来る気配がない。
30分くらいしてようやく「どうかしたの〜?」とのん気にやって来た。

「早くシビンを!」
「ちょっと待ってね、男の人に頼むから」

そうなのだ、イスラム教のこの国では男のシモの世話は男の看護士がやるのだ。
当然彼は全然やってこない。
10分くらいしてようやく
「どうかしたのか?」

もうこの時には膀胱ははちきれんばかり。
やっと持ってきてくれたシビンにジョボジョボジョボ・・・

しかしあまりに待たされた私のお小水は、このビンには収まりきらずあふれ服を濡らしてしまったのだった。

教訓
「したくなりそうな30分前にはボタンを押せ」


<筆者注>
このネタは「旅行人」2002年6月号3ページに掲載

第17話 病院の日常

入院7日目。

保険会社から連絡があり、2日後に日本に帰る便が準備できたと伝えられた。
事故証明などの手配も整ったということで落ち着いて残りの時間を過ごせそうだ。

各方面への連絡も済み、自由な時間が多くなった。
でも暇で暇でしょうがない、というわけでもないのだ。
この病院は地中海に面したリゾートにある大病院で、ヨーロッパ方面の外国人もよく来る所らしいのだが、日本人がやってくるのは珍しいということで医者・看護婦・看護士・事務の人が特に用もないのに次々とやって来て世間話をしていくのだ。

というわけで暇つぶしの相手としてはもってこいなのだが・・

第16話 気分爽快

ここでは有り難いことに毎日体を拭いてくれる。
シャツも替えてくれる。
頭も洗ってくれる。

今日の体拭きは特に念入りだった。
抜糸が済んだこともあろう。
顔のすみずみまでゴシゴシ。
うれしいことにまだ生乾きのカサブタまではがそうとしてくれる。
顔はすっかりきれいになった。

次はシャツとズボンを脱がされ体と手足。
トルコの美人看護婦2人に手の先から足の先までゴシゴシされるのは天にも昇る気持ちだ。
ハンマーム(蒸し風呂)で毛むくじゃらのマッチョオヤジに垢すりされるのとはわけが違う。

体・手足もすっかりきれいになった。
さあて、次はいよいよメインのところですよ〜
ウヒャヒャ、これこそが正真正銘のトルコ風呂!
優しくお願いしますよ〜!

ア、アレ?!
おねえさま方はシーツを取り替えるとタオルを渡して出ていってしまった。
チッ、やっぱり駄目でしたか。
結局自分で拭きました。
しかもその後、痛む体を曲げてシャツを着るのにえらい難儀した。
トホホ、、

2004年1月12日月曜日

第15話 いつもより余計に・・・

入院6日目。

今朝、顔を縫ってあった糸が抜かれた。
それと鼻の骨折のために詰めてあった綿も抜かれた。

「じゃあ抜くよ」
ピンセットで鼻の穴の入り口の綿をちょっと引っ張った時ビックリした。
それにつながる感じが目の後ろの方まであるのだ。
そのまま引っ張られると、出てくる出てくる!
いったいいつまで続くのか?!
この先万国旗とかまで出てくるんじゃないかと思うくらい長い。
映画「トータルリコール」でシュワちゃんの鼻から発信機を引っ張り出すシーンがあったが、あれに負けないくらいのすごさだった。

結局小指の長さくらいの綿がすっぽり抜け出た。
眠っている時とはいえ、よくもまあこんなに詰め込んだものだなあ。

第14話 食い道楽

昨日から精力的に動き始めたし、精神的・肉体的に落ち着いてきたこともあろう。
今日は腹が減るという感覚が久し振りにあった。

数日前は見ただけで「オエッ」となった料理も今日はペロリ。
食事する楽しみが戻ってきた。
まあ受け入れる側は良くなったのだが出す側は相変わらずヒドイ。
今日のメニューは「パン、ご飯(バター炒め)、マカロニ(ケチャップ味)、ヨーグルトスープ(きゅうりが浮いている)」というほとんど炭水化物しかない食事が、全く同じメニューで昼夜2回出た。
日本の栄養士さんが見たら気絶しそうなバランスだ。
動物園のサルの方がましなものを食っているような気がする。

第13話 顔面麻痺

入院5日目。

昨日荷物が返ったことで視力の回復が可能となった。
それとともに鏡も戻り、事故後初めて自分の顔を見ることができた。
やはりショックだった。

しかしそのショックには2つの意味がある。
1つは当然のように、目の回りのあざ、右半分カサブタだらけで所々に縫った跡があるという惨めな顔。
そしてもう1つは意外に軽い怪我だったということだ。
実際見てみるまでは鼻の右側から唇にかけて何やらべったりと重いものが張りついているような感覚があった。
きっとカサブタの上に大きなバンソウコウでもあるのだと思っていた。
しかし実際は何もなし。
つまりこの重い感覚はそうではなく、この部分の触覚が麻痺してしまったために起こっていたのだ。
足だけでなく顔面の一部の感覚まで失ってしまった。
少なからずショックだった。

まあここでも不幸中の幸いというか、顔の縦に細い部分の麻痺だけに表情を失うことも無さそうだし、目・鼻・口も正常に動きそうだし、日常生活には問題無さそうだ。

第12話 連絡

荷物が返ってきたことで突然忙しくなった。
各方面への電話連絡ができるようになったのだ。
日本の実家へ、友人宅へ、そして保険会社へ。
トルコの日本大使館へ、警察へ。

ベッドからは一歩も下りられない状態なので枕もとの電話から病院の交換手を通して電話する。
電話回線が貧弱なのでなかなかつながらなくてもどかしい。

保険会社。
非常に親身に対応してくれてありがたかった。
諸々の治療費、輸送費、帰国の手配、リハビリ代、全て面倒みてくれることになった。
自分では何もできない今の状況でこれ以上の助けはない。
ありがとうございました。

大使館。
日本人大使館員が出て、全く感情のこもっていない機械的な対応で事務的なことだけ質問してきた。
「あなたのいる所はイスタンブールの領事館の受け持ちなのでそちらに連絡してください。」
ガチャ、ツーツー。
最後まで機械的な対応で締めくくりやがった。
死ね。

気を取り直して領事館。
こちらでは人間的な対応をしてくれ、警察・軍隊への証明書の発行などのサポートをしてくれることになった。
以前イスタンブールの領事館に手紙を取りに行った時、超豪華ホテル別館ワンフロア−貸し切って使っているのを見て外務省の贅沢さにあきれたものだったが、今回の対応の素早さに、それくらいは免じてやるものとする。

やはり気が重いのは日本の家族・友人への連絡である。
ドヨ〜ンとした感じで伝えるのも嫌だし明るくバカっぽく伝えるのも変だし・・・
冷静に事実だけを伝えることにした。

2004年1月11日日曜日

第11話 視界良好

入院4日目。

足への心配が多少薄らいだことと反比例するように右目への不安感が強くなっていった。
事故直後の視界の中心が全く見えない、というようなひどい状況からはかなり回復したものの以前より遥かに視力が落ちているのが分かる。
オマケに近い所にあるものに焦点が合いにくい。
これはメガネで矯正可能なのだろうか。
ちょっと、いやかなり心配である。

さらに不安なこともある。
それは、事故の後体一つで搬送されたため今は荷物どころかパスポートもお金も何も持っていないということだ。
これでは支払いどころか自分が何者であるのかの証明すらできない。

しかしこの日の夕方やっとのこさ荷物が戻ってきた。
事故処理の管轄は軍隊にあるようで軍服姿の人が荷物を運んでくれた。
一部無くなっているものもあったが、チップということで大目にみてしんぜよう。

事故の衝撃を物語るかのように、プラスチックのケースはバキバキに割れ、缶のケースはベコベコにへこんでいた。

この時は私をはねた車の人と、警察も来ていて通訳を通していろいろ事務上のお願いもできた。
なんか事が良い方へ急展開しているようでうれしかった。

2004年1月10日土曜日

第10話 希望の光

入院3日目。

なんとわずかであるが左足の指が動いた。
ピクピクとではあるが動いたのだ。
やっぱり私はついているなあ、先生、看護婦さん、見てよ!この足!
ほら!ほら!動くでしょ!

・・・というところで目が覚めた。
ぼんやりした頭で左足に神経を集中してみた。
何も感じない。
ピクリとも動かない。
そんな事起こるわけないよなあ、とあきらめの思い。
夢にまで出るほどのショックであることの悲しさ。

しかしいつまでもクヨクヨしていては埒があかない。
この事態を少しでも良い方向に向けられるよう考えねば。
幸いなことにひざより上は大丈夫だ。
アキレス腱も正常である。
おそらく普通に立ち上がることは難無いだろう。
あとはブラブラになる足首をテーピングなどで固定すればいいのではないか。
そうすれば多少不格好でも歩くことはできそうだ。

そう考えていたらこんな怪我たいした怪我じゃないような気がしてきた。
それより逆にこの怪我をなんとかうまく利用できないものか。
障害者手帳とって、電車に只で乗れたりしないかな。
18切符ともこれでおさらばだぜ!
何だかウキウキしてきたぞ!

しかしこのウキウキ感も心の底からの本物のウキウキ感ではないことは充分過ぎるほどその時の私には分かっていた。

2004年1月8日木曜日

第9話 検診

入院2日目。

朝の検診でドクターがやってきて包帯を取り替えたりひざの調子を診たりしていた。
彼は何も言わず黙々としているのでこっちから聞いてみた。

「左足の骨はどうだったんですか?」
「君の足の骨はNOブロークンだ」

そうか、骨は大丈夫だったのか。
しかしもう一つ昨日の夕方頃から気になっていたことがあった。
それはしびれたままの左足である。
包帯でグルグル巻きにされた足でも、ひざは微妙に前後に動く。
しかし足首や足の指は後方へ曲げることはできてもそれを戻すことができないのだ。
そのことをドクターに聞いてみた。
すると包帯の先に少し出ている指をペンでツンツンし、動かしてみろ、と言う。
しかし曲げれても戻せないことを説明すると悲しそうに首を振りまたよく分からぬ言葉でフニャフニャ話し出した。
その中に「Cut」と言う単語だけが強い衝撃を伴って耳に入ってきた。
神経が切れてしまって動かないことを説明していることは明らかだった。

私は再び聞いてみた。
「それは復活しないのか?」
「No」

事故が発生して以来私は常に気を強く持ち続けてきた。
一人で全てやらねばならぬ、今動きを止めては何も前進しないからだ。
ただ、この時初めてうろたえた。

もうあの足の感覚は永久に戻らないのか?
自由に歩いたり走ったり跳びまわったり野球したりサッカーしたり、そして自転車に乗って世界を旅することももうできないのか?
私は一生身体障害者のレッテルを貼られ不自由な生活を送らねばならないのか?

なんとなく覚悟していたとはいえ、現実に言葉に出して言われた時のショックはここに書き記すことはできない。
私の乏しい表現能力ではこの深い悲しみを表すことはできないくらいのショックなのだ。

その日1日色々な事が頭をよぎり去っていった。
今となってはもう覚えていない。
覚えていたとしてもここに書き切れない程のことを考えていただろう。

ただその日、ズタズタにされた体を心を少し癒してくれたことは事故の加害者、つまり反対車線に飛び出し、私をはね、町の病院まで輸送してくれたオッサンら三人が見舞いに来たことだった。

第8話 目覚め

目が覚めた。
何だかすごく明るい部屋にいた。
ここはどこだろう?
そうだ、トルコだ、そして確か車にはねられ病院に連れてこられたのだ。
そしていい気分のガスを吸ったのだ。
ということはここは手術室だな。
はあ、これから足の手術か、痛いだろうな、嫌だな。
いろいろ考えた。
そして横にいた看護婦さんに聞いてみた。

「私のオペは?」
「終わったわよ」
「へ?!?!」

ビックリした。
確かに妙に明るいと思ったのは体を照らすライトの光ではなく窓から入ってくる日光の光だった。
妙に重く感じていた左足は、痛みのためではなくギプスと包帯のためであった。
体は硬い手術台ではなく、柔らかいベッドと枕の上に横たわっていた。
全てが終わっていたのだ。
全身麻酔の威力がここまですさまじいとは思わなかった。

でもこの日はその余波を受け一日中眠かった。
食事が配られても「ありがとう」と言った直後に寝ていたし、もう食べ終わったと思って食器を下げに来たときに目覚めて「は、今食べます!」と体を動かしたところで再びお眠り。
三度目に「いいかげんに食べなさい!」と怒られやっと口をつけることとなった。
でもあんまり美味いものではなく食欲も無いので、ほとんど無理矢理口に押し込んでいたようなものだ。

とにかく一日中眠くて食事以外はひたすら眠っていた。

2004年1月7日水曜日

第7話 本番

さっきの部屋に戻り顔面の裂傷部を縫う手術をした。
チクチクチクと、まあ手際よく顔の手術は終了。

さていよいよ足の方かな、と思ったら私がさっき夕食を食べたばかりだというのでしばらく待つことになってしまった。
仕方ないのでその先生相手に今までの旅のバカ話をしたところゲラゲラウケてくれたのはよかったのだけどこっちは顔も足もグチャグチャの状態なのでつらいところ。

ネタも尽きかけたところでやっと
「それではそろそろオペします、フニャララ」
とまた流暢な英語で説明された。
相変わらず理解できてないけど、彼に任せておけば大丈夫だろう。
でもいちおう最後に彼に言っておいた。
「Don't cut my left leg!」

明るい手術室に入るとすぐ顔前に「シュー!」と音を立てるガスマスクのようなものが近づけられた。
「これは眠るためのもの?」
「Yes」
「それじゃ、おやすみなさい」
そう言ってこの気体を胸一杯吸い込んだ。

うおー!すごくいい気持ち!
体中の痛みがスゥーと消え、まさに天にも昇る気持ち!
どんな麻薬もこれにはかなわないだろう!
こりゃいっぱい吸っとかなきゃ損だ!
と二口目を吸いこんでいる最中、私の意識は百億万光年遥か彼方に飛んでいった。

第6話 開始

担架(キャスター付)に乗せられ救急口から中に入り病院の廊下を駆け足で進んでゆく。
流れゆく天井を見ながら「ううむ、テレビドラマみたいだな」と思った。
しかしドラマと違うのは、勢いよすぎて曲り角で壁にぶつかったり押し戸の部屋に入ろうとしたが扉に鍵がかかっていて激突したりすること。
そのたびに担架の上でのたうちわまる私であった。

とりあえず検査室のようなところに入り応急処置が施された。
落ち着いた雰囲気の先生が来て、落ち着いた感じで英語で説明された。
でも専門用語が多く私の達者な理解力を持ってしてもあまり理解できず、とりあえず
「ウンウン、サインですね、ハイしましたよ、もうさっさと麻酔でもしてこの痛みから開放してくださいな」
と投げやりにはなってないがとにかく何かしてもらいたかった。

担架は再びテレビドラマ風にX線室に向かい何ヶ所か写真を撮った。
そこの係の兄ちゃんが涙が出るほど不親切で、こっちの体がボロボロなの知ってるくせに
「さあこっちの台に移って!」
「もっと横だよ!」
「ハイひっくり返って!」
「もっと下へもっと下へ!」
とやたらうるさい。
少しは優しくしてもらいたいもんだ。

2004年1月6日火曜日

第5話 再輸送

揺れる車の中で私は思っていた。
たった1000円くらいの宿代をケチったためにこのような惨事になってしまったのだ。
こんなバカ者はざらにはいないだろう。
事故を引き起こした無謀なナイトランの判断を下してしまった自分をひどく呪った。
直接の原因である、あの飛び出してきた車に対する怒りは不思議と無かった。
とにかく自分に腹を立てた。
自分をののしった。
自分を呪った。

救急車は舗装状態のよくない道を結構なスピードで進んでゆく。
だから時々跳ねたりして足へショックはかなりのもの。
途中数回止まり看護婦さんが私の様子を見に来てくれる。
この時足にはエアバッグのようなものが巻きつけられており圧迫しちゃいけないという配慮で1回おきに空気を出し入れしてくれるのだが、この人らの肺活量はかなり少ないらしく空気を一杯にしても圧迫どころかあんまりショック吸収すらしてくれない。
毎日エアマットを膨らませている私の強靭な肺をお貸ししたいくらいだったがそうもいかず歯がゆい。

空気を入れた時ですらそうなのだから抜いたときはもうひどいもんだ。
車がゴトンとなると足に激痛が。
何回目かの停車でもう我慢ならず、空気は抜かないでくれ!と頼もうとしたとき、目的の町に到着したのだった。

2004年1月5日月曜日

第4話 初診

担架に乗せられ広い部屋の中央に置かれた。
医者が来ていろいろ聞いてきた。
彼は私が頭を打っていることを心配していたようで、ひたすら「黙るな!話し続けろ!」と言う。
仕方ないので「エジプトからヨルダンシリアと自転車で・・・」とお決まりのトルコ語を披露した。
もちろんそんなの誰も聞いておらず、みんなドタバタドタバタ部屋を出入りしている。
そして大概の人が私の左足を見て「こりゃヒドイ!」みたいなことを言うので、これは相当なことになっているのかとドクターに聞いてみた。
「私の体には何が起こったんですか?」
「君の左足はブロークンしている。」
やっぱりか・・・

それにしてもどんなひどい状況になっているんだろう?
私は痛む体を無理に起こし自分の左足をその時始めて見てみた。
メガネは吹っ飛んでしまって無い。
右目は全然見えない。
そんな劣悪な視界状況の中でも私にははっきり見えた。
左足ふくらはぎの皮膚を突き破って中から赤黒い物体が飛び出しているのを・・・

結局その病院でやったことは左足に水をジャバジャバかけ顔を少し拭いたくらいで、これ以上は手におえましぇ〜〜んって感じでドクターから「君を大きな町の病院に輸送する」と告げられた。
そうだろう、その方がいいよ。こんなちっぽけな病院じゃ「こりゃ直せないからちょん切っちゃった方がいいな」ってなりかねないもんね。

私の体は今度は救急車に乗せられ大きな町に向かった。
ここからそこまでは山道を70km行かねばならない。

2004年1月4日日曜日

第3話 緊急輸送

車は近くの町に向かっていた。
軽い振動を体に受けながら自分の体について何がどんな状態なのか判断していた。

この時点で一番ひどいことになっているだろうと思われたのは顔面の右半分。
特に右眼球である。
左目を隠して右目だけで見てみると視界の中心部が全く見えない。
右目が失明という事態は想定せねばならないな、と思った。

口の中は大丈夫そうだ。
歯も揃っている。
両腕、指の関節を動かしてみる。
全て問題無し。
同様に右足も問題無し。
なんだ、意外と平気じゃないか。
ただ一つだけ気がかりなことがあった。
左足のふくらはぎに強い痛みと腫れを感じ始めていたことだった。
これはもしかしたら骨折しているかもしれないな、そうなったら入院も長くなり、ちょっとやっかいだな。

なんて思っているうち町の病院に到着した。

第2話 そしてそれは起こった

辺りはますます暗くなり道はどんどん細くなる。
そのうち町の終わりを印す看板も見え街灯も無くなった。
しかし交通量もそれほどではなく追い風なので頑張ればそのうちスタンドもあるだろう、それにもし見つからなくてもその辺の道端で寝ればいいや。
明日でトルコともお別れなのに最後に辛いことになっちゃったなあ・・・なんてことを考えながら先を急いでいた。

そんな時である。
前方から数台の車の照らすヘッドライトが見えた。
そして後方からも一台の車が来る。
このままだと逃げ場を失ってしまう!
横へそれねば危ない!
そう思った直後、横を通りすぎる車の列から一台の車が対向車線に飛び出してきた。
アッ!と思う暇はあったのだろうか?
その次には私の体は無残な形で道に転がっていた。
ヘッドライトの強烈な光と人々の声が聞こえる。
「ヤバンジュ(外人)!ヤバンジュ!」
それ以外にもワイワイ聞こえたがそれだけが聞き取れる単語だった。
どっかのおばさんだろう、ライトに照らされた私の顔を見て「ヒャッ!!」と悲鳴を上げていた。
自分でも感じていた。
生ぬるい液体が顔を滴り落ちるのを。

そして私のくしゃけた体は何人かに担ぎ上げられバンの荷台に押し込まれた。

2004年1月3日土曜日

第1話 それは涙で始まった

時は1997年9月4日。
当時私は大学一年間の休学中で地中海一周の自転車旅をしていた。
エジプトからトルコまで走り、そのトルコ生活も3ヶ月に近づいた。
そろそろ次国ギリシャに入るべく、エーゲ海沿いを行き明日国際フェリーに乗り、いよいよトルコともお別れになる予定になっていた。

トルコではほとんどがガソリンスタンドで泊めてもらい、それがよい出会いを生み、一番の思い出となっていた。
これがトルコ最後の夜なのだから、やっぱりこのパターンで締めたかった。

町はあったのだがここはリゾート地帯。
きっとホテル代も高いだろう。
まあちょっと走ればすぐスタンドもあるはずさ。
そこならまた新しい出会い、感動があるに違いない。
よし出発だ!

・・・と既に薄暗くなりかけた道に向かって私は走り出した。
その時、当然私は何も知らない。
その後何が起こるかについて。
それが出会いや感動ではなく、
今まで感じたことのない世界、
悪夢のような事態であることなど・・・