2008年2月23日土曜日

インド庶民の多くは靴をはかない。
裸足かビーサンである。
そういう人の足の指は見事にまっすぐだ。
ヒンディー語の辞書に「外反母趾」の文字はないとみた。

以前砂漠の民で今まで靴・サンダルのたぐいを履いたことがない、という人に会った。
その人の足の裏は見事に角質化していた。
いや、それを通り越して岩のように固まっていた。
足自体が靴と化していた。

今まで色んなすごい人を見てきた。
山のような荷物をボロ自転車で運ぶ中国人、希薄な空気の中を元気に走り回るチベット人、ボロビーサンで荷揚げするネパール人ポーター、歯でビンのふたを開けるエジプト人(←これは違うか)。
そういう人らに比べ、自分を含め「先進国」といわれる国の人々の何と貧弱なことか。
何をもってして「先進」なのか?
「先進」どころか人間としては「退化」しきってしまっている。

これではいかん、と修行のため裸足で買い物に出てみた。
角を曲がったところで牛のウンコを踏んでしまった。
慣れないことをするもんではない。

2008年2月16日土曜日

外国人宿泊事情

中国のとある小さな町でのこと。
いつも通り10元(150円)の安宿にチェックイン。
中国では外国人が泊まっていい宿(高級)とそうでない宿(低級)が決まっていることが多く、いつも安宿に泊まろうとするときには事前に外国人であることを告げ、泊まっていいかどうか確認しておく。
多くは「没問題!」と歓迎してもらえるのだが・・・。

スヤスヤ眠りについた夜中1時、突然ドンドンとノックの音。
ビックリして扉を開けるとオーナーが申し訳なさそうな顔して「外国人はこの宿には泊まれず『安全な』別の宿に移動せねばならない、と公安から命令されました」という。
だから確認しておいたのに!とオーナーを責めるわけにはいかない。
私が訪れるような普段外国人が来ないような町の宿では、そういったルールがあることすら知らない人が多く、夜に宿泊者名簿を公安に届けた時点で指摘され初めて知る、ということが結構あるのだ。

しぶしぶついてゆくとそこは大理石ロビーのきらきら輝く町一番の高級ホテル、一番安い部屋でも260元(4000円)!
そんなお金はない!!
翌朝両替するつもりだったので手元には50元しかなく本当に払えないのだ。
仕方ないので今度は公安まで出向いて「お金が無いので公安の命令には従えない。安宿に泊まれないのならこの町で一番『安全』なこの公安の建物の中で寝させて欲しい」と駄々をこねてみると、さすがに公安も渋い顔をし「それはちと困る。ちょっと待て」と言ってその高級ホテルに電話をかけた。
「今からそっちに貧乏な外国人が行くから10元で泊めさせてやれ」
260元をなんと10元に値切ってくれました!
96%OFFのスーパーディスカウント!!
鶴の一声!歓迎職権乱用!不滅国家権力!!中国公安バンザイ!!!

しかし夜中の1時2時に町中を移動させるのが『安全』のためですかね~??

2008年2月13日水曜日

動物愛護協会

「食は広州にあり」といわれるだけあって、ここの食文化はすごい。
市場に行くと、牛・豚・鳥にとどまらず、犬・猫・カエル・蛇・さそり・ムカデ・ヒトデなどなど昔ゴム製のびっくりおもちゃでしか見たことないようなのが食材として売られている。
オバちゃんが洗面器の中でウジョウジョうごめくサソリを一匹一匹つまみ出して活きのいいのを選んでいたりする。
レッサーパンダみたいなのとかも小さなオリに入れられて売っていて、そんじょそこらの動物園なんかよりよっぽど品数豊富である。きっと裏ではジャイアントパンダも高額で取引されているとみた。
中国人の食に対する執念を感じる。

食材となる犬や猫は狭いオリの中にギュウ詰めにされ、自らの運命を悟っているのかグダリと元気がない。
しかしその食材店の横にはなんとペットショップがあって、そちらでは毛並みツヤツヤのワンちゃんが一匹ずつきれいなオリに入れられたりしていて。
人間様以上に畜生の世界も血筋が悪いととんでもないことになっちゃうのだなあ。

しかしこれは2003年のSARS騒ぎ以前の話。
その後ここを再訪したら、その市場はきれいにサラ地になってしまっていた。

2008年2月12日火曜日

チベットの空

チベットで遊牧民のテントに泊まらせてもらったときのこと。
朝早く起きて乳絞りをしたあとは放牧に出る。
私もお手伝い(といってもただついていっただけ)。
草地に放ったあとは草原でゴロリお昼寝。
雨季の後の草原は青々とした草が芽吹き、空は抜けるような青空、ポカリと白い雲が浮かんでいる。
うーん、こんな所で横になって流れる雲を見るのが夢だったのだ!

で、ゴロリ。
・・・・ウ・・・・アレ・・・・ジリジリ・・・・暑い、いや、熱い!
日差しが強烈すぎてとても空など見ていられない!
昼寝するにも顔を服で覆わねば!
そして流れる雲が太陽にさしかかる。
・・・・ウ・・・・アレ・・・・寒い!
日が隠れたとたんモーレツに寒くなる。
とてもTシャツ短パンじゃいられないので着込む。
雲が取れる・・・・熱い!
なかなかじっとしていられないのだ。
その点遊牧民の民族服はやはり地元の気候に合った作りになっているようで、露出しているのは顔と手の先だけ。でもその部分だけは真っ黒に日焼けしてガサガサ。

やがて夕暮れ時。
しかしチベットに夕焼けはない。
空気が薄く大気中にチリ・水分が少ないから。
考えてみれば当たり前だけど日の沈む前は赤くなるのが普通と思っている我々にはちょっと不思議。
そしてこの日が沈む直前の東方の景色を見るとそれはそれは美しいのだ。
空・草・水、すべての色が映えて見える。
その日が山の向こうに沈むとやはり突然寒さがやってくる。
そして1時間も経たないうちに満天の星空。

これが日本には存在しない、4300mから見る空。

2008年2月9日土曜日

夢之丞七変化

●実験の目的
 チベットを安全かつ快適に不法旅行するためには中国人と思われる事が重要である。しかし同じ東洋人顔なのになぜか日本人とばれてしまうことが多い。その境界を探る。

●実験方法
 様々な格好で町を通り抜ける。「ハロー!」と英語で声かけられる割合を集計する。なお対象は登下校中の小学生である。

●結果
 1.Tシャツ短パン姿で荷物満載の自転車に乗る・・・100%
 2.赤レインウェア(上)、短パン姿で空荷の自転車に乗る・・・90%
 3.赤レインウェア(上)、短パン姿で歩く・・・80%
 4.Tシャツジーンズ姿で空荷の自転車に乗る・・・20%
 5.長袖ジーンズ姿で空荷の自転車に乗る・・・5%
 6.借りた中国製地味ジャケット、ズボン姿で歩く・・・0%

●結論
 以上の結果より決め手は派手な原色のウェアと季節はずれの短パンにあるといえる。自転車に関しては野良仕事に出かけるオッサンがマウンテンに乗っている(もち中国製ボロ)のを見るのも珍しくないので関係ないだろう。
 なお、実験を行ったのは成都方面からの不法入域外国人狩りのチェックポストのある町であった。試しに6.で公安の前を歩いてみたが(かなりドキドキした)声をかけられる事はなかった。

●今後の展開
 この結果を参考にし、以下のメーカーに以下の製品の開発を要望する。
 ・パタゴニア:人民服風フリース(上下)
 ・モンベル:ズダ袋風バックパック
 ・オストリッチ:竹編みかご風サイドバッグ
 ・資生堂:日光にあたると真っ黒に皮膚はガサガサにひび割れるサンオイル
 ・アデランス:中国人風角刈りカツラ
 ・セイコー:決して動かない腕時計
あと白人向けとして
 ・背の低く見える逆シークレットブーツ
 ・毛沢東のお面

以上のアイテムをそろえる事で快適なチベット旅がおくれる事だろう。
チベットを毛沢東顔がぞろぞろ歩く日もそう遠くはない。

(実験者注:以上の試験は2002年に行ったもの。現在は派手なウェア着て自転車で旅する中国人がゴマンといるので日本人なら黙っていればまず外国人と思われない。)

2008年2月7日木曜日

垢太郎

チベット高原を横断しラサに到着して宿に入ってからまずした事は、40日ぶりに体を洗った事。
垢すりタオルに石鹸をつけてゴシゴシゴシ。黒い垢が止めども無く出てきて排水溝が詰まりそうになるくらい。
うーん、サッパリ!
その晩・・・。
寝る前に肌を見てビックリ!
今までしっとりツヤツヤしていた肌が、急にガサガサになり白い粉をふいてしまっている!

チベット人(特に田舎)は一生に3回しか体を洗わないとも言われる。
生まれたとき・結婚したとき・死んだとき。
徳を落とす、という理由でそれ以外にはまず体を洗わないが、これはやはり風土・気候に合った生活の知恵なのだろう。
強烈な紫外線と乾燥から肌を守るためには、バター茶をタップリ飲んで脂質を補充し、垢まみれになって皮膚の乾燥を防ぐ。乾燥してるからそんなに臭くならないし、周りがみんなそんなだから自分さえ気にしなければ他に気にする人もいない。
その垢は落としてはいけない大切な防護服だったのだ。

またバター茶をいっぱい飲んで垢をためる事にします。

2008年2月6日水曜日

高地順応

初の4000m峠越えの時のこと。
そこは50km移動する間に一気に2400m標高が上がる行程。さすがに一日で登ってしまうのは危険だと思い、のんびり2~3日かけて体を慣らしながら行くつもりだった。
しかし動き始めたら体がとても軽く、気がつけば既に4200mの峠手前まで来てしまっている。
肉体的疲労や多少の息苦しさはあるものの、高山病でよく言われる頭痛・吐き気等は全くなく快調そのもの。
夕方になりちょうど道路工事の人からお声がかかりそのままそこの峠で泊まる事にしてしまった。

翌朝・・・。
ズキズキ酷い頭痛で目が覚めた。気分が悪く食欲もわいてこない。
これが世に言う高山病ってやつか!やはり一日で一気に登ってしまったのは無茶だったか。
こういうときは何よりもまず下界に向かうことだ。
おっちゃんたちに礼を言ってフラフラと峠を下り3000mまで高度を下げた。
しか~し!
一体どうしたことだろう、症状は一向に改善せず。
それにしてもこのムカムカ感、過去にも経験したことがあるような気が・・・。

思い起こしてみれば昨晩は歓迎の白酒(60度)攻撃+エンドレスご飯+歓迎の牛一頭ほふって焼き肉大会で気持ち悪くなるほど飲み食いしたんだった。
ということはこの頭痛と食欲不振の原因は高山病なんかじゃなくて、日本でも幾度となく経験したことのある二日酔いと食い過ぎに過ぎなかったわけか。
結局以降もほとんどを4000m以上で生活したにもかかわらず一度も高山病らしき症状はナシでした。

2008年2月5日火曜日

喰道楽

巷では餃子に農薬が含まれていたというエキサイティングな話題で持ちきりだが、去年末には中国国内で一つの即席麺を食った児童4人が泡吹いて即死というファンタスティックな事件があった(中国国内ではニュースでやっていたけど日本ではどうかな?)ばかりなので「まあ当然かな~」と別段驚きもせず。

中国といえば肉マンにダンボールを混入するというエキセントリックなネタも提供してくれたが、あの時も「それくらいだったらみんなやってるだろうな~」と思った程度。
逆にインタビューされた近所の人が「いやー、今朝もそれ食べたけど全然気付かなかったな~」と言っているのを見て「さすがは中国人!ダンボールさえもそんなにうまく料理できるのか!」と感心してしまった。

次は何をやらかしてくれるのか楽しみでしょうがない。

2008年2月4日月曜日

進むべき道

インドで入院中、司馬遼太郎「竜馬がゆく」を読みました。
いやー、すごい人たちがいたもんですね。感激しました。
竜馬の生き様は私の今度の人生の指針となりました。

まず帰国後、私と同じく旅中に肝炎を病んだ同志を見つけ出し、フォークグループ「肝炎隊」を結成。
デビュー曲「肝に捧げるバラード」をひっさげ芸能界に殴り込みをかけます。
♪今も聞こえるあの点滴の音・・♪

その後ドラマ「3年B組肝八先生」に主演、若者に肝炎のつらさを説きます。
CD出たら買ってね!!

インドの医者

当然インドでも医者はエリートです。
我が主治医もそれはそれは立派な紳士でした。
しかし、やはり正体はエロオヤジでした。

回診での会話
医者:何か必要なものはあるかね?
私:そうですねー、ジキジキが欲しいです。
医者:それならこのナースを使いたまえ。1時間貸そう。
私:しかし点滴しながらのジキジキは無理です。外してください。
医者:外すと君は死ぬよ。生きるのとジキジキと両方とろうなんて虫がよすぎる。どちらか選びたまえ。
私:ではジキジキをとります。
医者:さすが見上げた男だ!2時間に延長してやろう。

ナースの軽蔑の眼差しが印象的でした。

またある時・・・。
医者:やあ元気かね?
私:はい元気です。

この時私はベッドの上にあぐらをかいて座っていたのだが、パンツの端から自家製ロッテアーモンドビッグバーが先生に挨拶したくちょっと顔を出していた。
それを見た先生が・・・。

医者:うむ、確かに君のロッテアーモンドビッグバーは元気そうだ。この調子で退院後はジキジキに励みたまえ。
私:ハハー、師匠ありがたきお言葉!

それ以外にも日印ロッテアーモンドビッグバーサイズ比較論、カジュラホ寺院的体位可不可論、家庭外的妻所有論など医学的見地に基づいた有益な議論が毎日繰り返されました。

でもある時私が「今度結婚式に招待されているのだが着ていくシャツが無い」という話をしたらドレスシャツをプレゼントしてくれました。
ただのエロオヤジではなく、気前のいいエロオヤジだったようです。

インドの病院

「インドの病院」、こう聞くと、野戦病院みたいなところでムシロに寝かせられた患者がたいした治療も受けられずバタバタ死んでゆき、薬は赤チン、注射器は使いまわし・・・などと想像してしまうかもしれません。
しかし下の方にはそういうのがあるのかもしれませんが上の方はスゴイです。
世界一流水準です。

私の入ったところは大病院ではなく私立の町医者でしたが、充分快適なサービスが受けられ満足してました。
看護婦さんは揃いの白いサリー。
でもやっぱり看護婦さんの中にもカースト制度が存在しているようで、医師助手・食事・部屋掃除(床より上)・部屋掃除(床)・トイレ掃除の係はそれぞれ厳格に決まっていて、掃除係の人に「水ください」と頼んでも「それ私の仕事じゃない」とむげなく断られてしまいました。

入院中で困ったのはトイレ。
トイレは普通のしゃがみ式インドトイレでしたが、点滴したままトイレに行ってしゃがむと下まで管が届かず片手を挙げたまま頑張らねばなりません。
それ以上に困ったのは、針は左腕に刺さっていたため尻が洗えない!!!
悩んだ末、初めてエジプトで水洗いに挑戦して以来純潔を守りぬいてきた黄金の右腕を使って洗ってしまいました。
私の右手はけがれてしまいました。

しかし長年の慣れとは恐ろしいもので、右手ではどうもしっくり来ないのです。
何か洗い足りない、中途半端、不完全燃焼な気分でトイレをあとにしました。

これを読んでる皆さんはおそらく紙派だと思いますが、試しにいつもと反対の手で拭いてみてくださいな。
私のその時の気分が味わえると思います。

ザ☆肝炎

A型ウイルス性肝炎:
潜伏期や発病初期の患者の便で汚染された水や食物から感染する。
潜伏期間は15~45日。
初めは発熱と同時に消化器系症状や全身倦怠感、筋肉・間接痛が現れるが風邪に似ているために気づかないことが多い。
数日後に黄疸・尿の色が紅茶のような褐色になる。
治療は入院が原則で、おもに安静・食餌療法・薬物治療を行う。
(地球の歩き方より抜粋)

インド滞在中、原因不明の体調不良からそれは始まりました。
状態はまさにこれにある通りです。
しかしそのどれもが中途半端で、何となく熱っぽかったり、何となくだるかったり、何となく下痢ってたり、と放っておいても治りそうなくらいだったので放っておきました。
すると今度は小便が突然紅茶色になりました。
ここですぐ病院に行っていればもっと軽く済んだのかもしれませんが、この時はこれ幸いとばかりミルクと砂糖を入れてアフタヌーンティーを楽しんだりしたのが良くなかったようです。
そして初期症状が現れてから10日後、朝起きてふと鏡を見ると表面が汚れています。
それで拭いてみようとしてそうでないことに気付きました。
それは汚れではなく、鏡に映っている自分自身の目玉・肌がまっ黄色になっていたのでした。
正真正銘のイエローモンキーです。

英語で「肝炎」とはなんと言うのか分からず、病院に向かう間医者になんと説明しようか考えていたのですが、医者は私の顔を見るなり「君は『肝炎』だ」と即決。
そして即入院。
2週間にわたり、7時起床から10時消灯までの15時間、ひたすら点滴を受ける毎日でした。

入院直後の血液検査の結果は最悪で、医者から帰国命令が出ました。
しかし悪運強いのかその後急激に回復。
前言は撤回されましたが退院後も安静と食事規制は続いていました。
マサーラー(カレー味)と油っこいもの、その他不衛生な所で準備されたと思われるものは禁止。
つまり今まで喜んで食べていたインドの外食のほとんどが食べられないという厳しいものです。

病気なんて他人事、と無頓着に何でも飲み食いしてたのが悪かったみたいです。
医者にありのままの食生活を話すと
「君のようにいいかげんな外国人にはじめて会った!」
と驚かれました。
鼻高々です。

これに懲りて今後は
・明らかに汚れている汲み置きの水を飲むときは歯で濾しながら飲むようにする。
・道に落ちているウンコをカレーと間違えて食べてしまう前に手を石鹸でよく洗ってから食べる。

この2点を守ることを誓います。

野糞式北辰一刀流免許皆伝

中国の電気水道ガス風呂トイレのない小さな村に泊まったときのこと。
朝起きてクソがしたくなり便所の場所を聞くと
「道の向こう側は女、こっち側は男」
というとても分かりやすい指示を受けた。
その指示通りにそこらでしゃがんでブリブリやっていると目の前にモソ~と豚さん登場。
一人と一匹、睨み合うこと数分。
その間に一人は難行を成し遂げ立ち上がり2.3歩前に出た、その瞬間!
一匹はすばやく後ろに回り込み、たった今大地に放たれたばかりのホカホカの一人の分身をペチャペチャと食べ始めた。
周りには牛やヤギのウンコも一杯落ちているのにもかかわらず一匹は目もくれない。
あまりにも美味しそうに食べるその姿を見て、もしかしてこれはホントに美味しいんじゃないかと思い始めた一人はその一匹をはねのけ自分で食べてしまった。
う~ん、昨夜の麻婆豆腐のスパイスが効いてて美味!
食いしん坊万歳!!

ところで、豚肉しか食べない人間がしたウンコしか食べない豚は果たして狂豚病となりうるのだろうか?
今後の研究に期待する。

2008年2月3日日曜日

バーバーの恐怖2

それから時は経ち、前回毛沢東にされた反省をまったく活かすことなく再び「我請中国式短髪」と書いてお願いしました。

15分後・・・。

それはそれは見事な角刈りが出来上がりました。
地平線を感じます。
1000ページのガイドブックが安定してのりました。

それを活かして包子のセイロを頭に乗せて自転車で出前のバイトをしています。
儲かって仕方がありません。
今は5枚が限界ですが、10枚に成功したら親方から暖簾分けしてもらって店を出す予定です。
お近くに来られた際はぜひお立ち寄りください。

2008年2月2日土曜日

バーバーの恐怖

中国について間もなき頃、散髪に行きました。
紙に「我請中国式短髪」と書いてお願いしました。
15分後・・・。
毛沢東が出来上がりました。
さすがは毛主席、道を歩けば人民は地にひれ伏し貢物やおひねりが飛んできます。
これからもいいことがありそうです。

2008年2月1日金曜日

南京かじり虫


インドのとある食堂で。
カレー食っていたら何やら足がムズムズ痒くなってきた。そこは高原地帯で比較的涼しく、しかも真昼間だというのに蚊がいるのか~(この辺りの蚊は夜出没する)と大して気にもせずそのまま食い終わり再び自転車にまたがり先へ進んだ。
しかしそれにしても先ほどの痒みは尋常じゃない。たまらず自転車を下りズボンをまくってボリボリかいていたところ・・・固まった。
なんと南京虫がスネを這っていた。
すかさずプチ!
殺生終了。

過去に幾度と南京虫の被害には遭っているが、最も酷かったのはトルコでのことだ。
その時は(やはり)出稼ぎ労働者宿に泊まっていた。
夜になると宿泊者は部屋もベッドもあるにもかかわらず、皆ベランダへマットを敷いて寝ている。それに習えば良かったものの思慮浅い私は、こりゃ静かに眠れるわ、と一人室内のベッドで寝てしまった・・・。
その晩。
モーレツな痒みで目が覚めた。
時既に遅し。
体中南京虫に這い回られ咬みまくられボコボコに腫れてしまっていた。痒み止めなど焼け石に水。掻いてはいけないと知りつつもとても我慢できず、掻き始めてしまうと掻けば掻くほど痒くなり血が流れるまで掻いてしまう。ナイフでその部分をこそぎ落としたい衝動に駆られる。そのモーレツな痒みは10日以上も続き、掻きまくったせいで完全に痕が消えるのに半年くらいかかった。

これ以上被害に遭っちゃかなわん、と荷物をひっくり返しすみからすみまで調べつくしたが発見できず。そして最後に見たのが貴重品袋。パスポートの中までペラペラ開いていたところ・・・固まった。
こんなところに隠れていやがったとは!
すかさずプチ!
殺生終了。

その血痕は今も残っている。
パスポートの46ページを見るとあの痒さを思い出す。

(写真:A型Rh+)