数日前まで私は肩書き無き一介の風来坊でしたが、現在は何と「日本語教師」です。
3年前今いる町を訪れた時に知り合った少女たちは、今や華の女子高生。
その彼女らが日本語を教えてほしい、と言ってきたので日本語塾を開設したわけです。
一日2時間ずつ、日-土まで毎日。
授業料はもちろんタダで、教科書を買ってあげたり、授業後みんなで食事したりするので、台所は真っ赤っ赤に燃え上がっていますが時々塾生の家で夕食をごちそうになったりするので大丈夫です。
現在生徒は4名。
宿の部屋に招いて細々とやっています。
が、将来的には日本語検定一級合格率99%(バカは受験させない)、中国各都市に支部を置く巨大学校法人にしようと考えています。
ちなみに塾名はズバリ「魁!男塾」。
塾生には私のことを「江田島平八(ジャンティエンタオ-ピンバー)老師」と呼ばせています。
2005年7月21日木曜日
男の夢
2005年7月13日水曜日
三年大昔
今私は3年前にこの旅を始めた時と全く同じルートを走っている。
当時お世話になった人々にもう一度会うためだ。
会った瞬間に思い出してくれる人、説明して思い出してくれる人、当時の写真を見せてやっと思い出してくれる人、いろいろいるけど、皆一様に喜んでくれ、歓待してくれる。
その笑顔を見るだけでも、厚い中ヒーコラ自転車漕いでやって来た苦労が報われる。
ただ今中国は大発展期にある。
3年前とは町の様子が跡形もないほどに変わってしまっていたり、新しい町が丸々一つ出来ていたりする。
古い建物は容赦なく壊され、ボロ宿が豪華ホテルに生まれ変わっていたりする。
そのためせっかく訪ねて行っても、たった3年間なのに当時を知る人が全くいなくて虚しく引き上げることもあった。
今の中国にとっては3年は一昔どころか大昔なのだ。
水は流れてどこどこゆくの
6月、中国南部に大豪雨。
テレビでは最も被害の大きかった梧州という街を中心に
「200万人が家を失う100年に一度の大洪水」
と、気象庁の偉そうなオッサンが言っていた。
のち、その梧州を通ったが、街は2階まで水浸しで1階の店舗はほぼ壊滅していた。
この街は3年前にも訪れているのだが、実はその時にもこの街は大洪水で沈んでいて、私も実際その被害に遭っている。
私の記憶が正しければ、その時にもテレビでは「100年に一度の大洪水だ」と気象庁の偉そうなオッサンが言っていた。
この偉そうなオッサンの言うことが本当に正しければこの先200年はこんな大洪水は起こらないことになるね。
梧州、今が行き時だよ!
いらはい!いらはい!!
余談になるが、「200万人が家を失った」と報道されたわずか2日後。
テレビでは被災者にせっせと救援物資を手渡す人民解放軍の姿。
党の幹部らしき偉そうなオッサンが
「被災者の全ての生活は無事保障できた。問題は解決した!」
と誇らしげに語る姿。
被災者のジイさんが「本当に助かりました。ありがとうございます。」
と明らかに書かれた紙を棒読みする姿が映っていた。
国家機密
広州のユースホステルは、その昔、列強が中国に進出した際の玄関島(長崎の出島みたいな)にある。
そのため各国領事館が今もそこにあるような所だ。
そこを同宿のナイジェリア人と歩いていた時のこと。
一人の中国人女性がトコトコと寄って来てそのナイジェリア人に手紙を渡した。
おいおいこんな所でラブレターの手渡しかい?!
しかし部屋に戻って中身を読んでみてビックリの内容。
その文面は中国語で書かれていたのだが…
「私は広州○○大学核研究所の教授です。
ここは保管状態が極めていい加減で、度々危険物が盗難に遭います。
犯人はおそらくこの大学の卒業生です。
警察に訴えても動いてくれず、逆に察知されて犯人に食事に毒を盛られそうになりました。
犯人は○○食品(中国で有名な大食品会社)にその毒をばら撒く危険性があります。
親愛なる正義感あふれるアメリカ大使館に訴えます。…」
つまりこの手紙の主は、我々が偶然アメリカ領事館前をフラフラ歩いていたのでナイジェリア人をアメリカ人の黒人だと勘違いし、渡してしまった訳だ。
何というトンマな…。
しかし事は重大である。
ちょうど同室にはアメリカ人旅行者がいて、彼に領事館へ持っていくよう言ってみるとコイツが典型的なアジア人蔑視型人間で
「そんならちょうど中国の人口が減っていいじゃん」
と相手にもならぬ。
して、そのナイジェリア人は
「こういうのはうちの国で申し出れば賞金がもらえるんだ。だから国へ持って帰る」と言う。
密告制度のことだろう。
しかし全編中国語で書いてあるこの手紙を果たしてナイジェリアでどうしようというのか??
中国人の皆さん、もし広州を中心に毒物混入事件が起こったならそれはバカアメリカ人とアホナイジェリア人に強く言えなかった私の責任です。
ゴメンナサイ。。。
(写真:そのナイジェリア人、その後元気か?)
2005年6月24日金曜日
警戒水位
広州は連日土砂降り。
私の宿のある地域は低地にあって、川の水位が上がると真っ先に浸水する。
先日は上流でダムが大放水し、1階ドミトリーの住人は4階のトリプルへ移動になった。
ラッキー。
広州は河口に位置するので、濁流押し寄せ、家が流され…という洪水ではなく、じわじわと水位が上がり、いつしか水浸しになって、そしていつしか水が引いている、といった感じの洪水なので街中は比較的のんびりしている。
腰まで水に浸かって記念撮影する若者とか、サドルのすぐ下まで水に浸かりながらも自転車こいでるオバさんとか、釣り糸たれているジイさんとか。
中国4千年の歴史の雄大さを感じてしまった。
食は広州にあり
(このコラムは毎度おなじみの白人悪口コラムですので、白人の方、および白人フリークの方は読むのをご遠慮ください)
身分不相応の中国大酒店から、身分相応のユースホステルに移った初日のこと。
入ったドミトリー8人部屋には私以外全員白人(アメリカ人多し)。
話の流れで皆と一緒に夕飯を食いに行くことになってしまった(本当はいやだったが我輩の辞書にNOの文字はないので)。
どうせスパゲティーでも食いに行くのだろうと思ったら、意外にも中華へ。
でもそこは英語メニューのあるような外人向けの店なのでローカル店の3倍ぐらいの値段。
高いなー、とは思ったが人数がいるのでいろいろな料理が食べられるからまあいいか、と納得し、他の人が何を選ぶか聞いてみた。
するとなんということか!
皆ソバとか粥とかを注文するではないか!
まあこの点に関しては、白人が料理をシェアするするという事が嫌いであり、2人の白人がそれぞれ大盛りのチャーハンを一皿ずつ頼んで食ってる、しかも食いきれずに残す、という真に滑稽な姿をよく見ていたので納得できないでもなかったが、さらに驚かされたのは皆「肉抜き」を頼んでいたことだった。
どうやら「SARS」を恐れてのことらしいのだが「食は広州にあり」といわれるこの地で、何も病人食のような菜っ葉だけの浮いたソバなんか食わなくても…
以上のことは超健康志向の彼らの性格を考慮し、2億4千万歩譲って納得してやろう。
それにしてもこんな少量の飯で彼らは満足できるのだろうか??
疑問は部屋に戻ってから解けた。
満たされぬ腹をポテトチップスとコーラで満たしていたのだった。
私は包子(肉まん)を食べるために一人夜の街に出た。
肉汁滴るそれをかじりながら思った。
「丈夫な子に育ちやがれ!!」
2005年6月21日火曜日
反日デモ
数ヶ月前から新聞紙上をにぎわしている中国各地で起こった反日デモ。
かなり長引く状況に、行く前は相当ビビっていて、しばらく延期するか…とも考えたのだが結局来てしまった。
ここ広州も激しいデモのあった都市の一つ。
街に出て食事や買い物をするとき中国語を駆使し、日本人と悟られぬよう試みるが…。
一秒で外人とばれてしまう。
「アンタどこの国の人?」
「に、日本なんだけど…」
「なんだあ、ヤップン(広東語で日本のこと)だったのかあ!
ようこそようこそ!日本大好き!一度行ってみたいなあ!」
あ、あれ??
日本に対する激しい抗議デモはいったい??
大使館や日系企業への投石は??
そういうことがあったのは事実。
でもそうでない方が大部分。
今年のGWは一万人以上が中国旅行をキャンセルしたとか。
SARSの時もそうだったが、日本人は報道に過剰に反応しすぎのような気が…
まあこれはオイルショックのトイレットペーパー以来の日本人の特性なのかも。
禁臭席つくれ
その中国大酒店での朝。
朝食ビュッフェ、すがすがしい朝を満喫しようと、窓側の禁煙席に座り納豆ご飯などをいただいていた。
そこへどやどやと白人おばさんの一団が来て私の周りに座った(AirFranceのクルーだった)。
すると辺り一帯からシャネルの5番と6番と7番と8番と9番と10番と11番を混ぜたようなすさまじい香水臭がたちこめ、納豆臭をもかき消す、まるで芳香剤の充満したトイレの中でメシ食っているような状態になってしまった。
今日も一日頑張るぞっと。
星星星星星
広州で働いている知り合いの方に、前もって向かうことを伝えておくと、
「豪華ホテルに泊まらせてやるぞ!ドーンと来い!」
とおっしゃるので、ドーンと向かった。
予約されたのは広州一といわれるマリオット系の中国大酒店。
「大酒店」と聞いたときからイヤーな予感はしていたのだが、現実はそれを上回っていた。
広州到着。
ホテルを探し、一般道からロビーへ向かう進入路に入ったとたん、サッと警備員が道をふさぎ、
「ここはお前のような貧乏人が来るところじゃねーんだ!すぐさまうせろ!」
「私は客で、もう予約も済んでいます」
といくら言っても
「とにかく出て行け!すぐ消えろ!!」
何とかそこは切り抜けロビー前まで来たが、再び3人の警備員がダッシュで駆け寄ってきて
「何だテメーは!さっさと出て行け!今すぐ出て行け!!」
と猛烈な勢いで怒鳴り散らす。
いくら説明してもまったく聞く耳もたず。
取り付く島もない、とはこういう状態のことを言うのだろう。
玄関前でモメているのを見た英語のできる人が来て、日本旅券をちらつかせてようやくのこと納得してもらえたのだが…。
資本主義っていやですね。
マルクス万歳。
2005年6月14日火曜日
香港に来ました
シンガポールから香港に飛んできました。
今回は50kgの預け荷物、何の文句も言われず一発フリーでした。
グレイトキャセイパシフィック!
ここは3年前、旅をスタートさせた出発の地。
振り出しに戻ってきたわけです。
ここで中国の1年ビザを取りました。
過去2回のチベット、いずれもビザ期限に追われ逃げるようにネパールへ下りていたので今回はゆっくりと移動できそうです。
まずは西へ、雲南を目指します。