東京ではマスクをかけている人を多く見かけたにもかかわらず、自分には何の異常も起こらなかった。結婚式の超豪華メニューも存分に満喫できた。やはり暇なとき散歩ついでにマニ車回したりするような信心深さが効いたとみえる。花粉症はなったら一生お付き合い、の定説を覆し、我が身に奇跡が起こった!!
で、名古屋に向けて自走中、浜松辺りでキコキコやっている時。そう言えばさっきから何か目が痒い。ゴミでも入ったかな?いや待てよ、この口辺りのモゾモゾ感……、これはもしや?!?!
あーあ、一年で最も快適なはずの季節は、やっぱり不快な季節のままだった…。
2007年4月13日金曜日
ボクが日本に帰りたくない理由 その後
16年ぶりの東海道
今から16年前、大学一年の私は夏休みに東京→名古屋の自走帰省をした。東京を深夜3時に出発し、夜は静岡掛川で一泊、翌日昼には名古屋に着いた。空荷であったが真夏だったのでさすがにバテた。
あれから時は流れ、私も「中年」印の棺おけに半分(全部?)体を突っ込み、白髪も増えた。その老体に鞭打ってこの長い旅のラストを締めくくるために久々の自走を決行した。全舗装・峠一つとはいえ約400kmの距離がある。まあ3-4日もあれば充分だろうと出発したのだが…。
軽い軽い、体が軽い!インドから帰ったままの重量級荷物に加え、帰国直後に結婚式に参列したため礼服・引き出物まで持っているのに、東京朝8時発、宿泊無しの徹夜で翌日の午前9時に名古屋に着いてしまった。我ながら凄いと思う(自我自賛ですみません)。
それにしてもチベットを横断するサイクリストは世界に数多かれど、礼服・引き出物をぶら下げてツーリングする人はそうはいないとみた。
浦島太郎
日本に帰って驚いたこと。
●自転車で走るのがえらくおっそろしいこと:車道が狭く、車がスレスレを凄いスピードで通り抜けていくので、インド・中国の荒っぽい運転よりも遥かに圧迫感を感じる。
●町が静かなこと:車は多い、人も多い、店も開いている、でもシーンとしている。車は無用なクラクションを一切鳴らさないし、人々はケータイに夢中、話し声も囁くような小声。まるでゴーストタウンのよう。
●そして最も驚いたこと、それは驚くような変化がなかったこと:もちろん細かい所では変化がある。しかし中国の1-2年で古い町並みが一掃され、全く面影もない新しい町が忽然と出現するような変化をこれでもかと見せられた今では、日本の変化など無いに等しい…。
最後の関門
タバコみたいだけどそうじゃなくて幻聴が聞こえたりするような枯草を持っている人、写真集のようだけど写っている人が全然服を着ていないような本を持っている人、彼らにとって最も怖いもの、それは世界最高の眼力を持つと言われる日本の税関。あのヘビのような無表情の目で睨まれれば、何もやましい物を持っていなくてもこちらはすくみ上がったカエルも同然。
今回怪しいものは全く持ち帰ってないんだけど、さすがに5年日本を離れ、うちインドに3回、一年半も滞在しているのだから、問答無用の別室送りは免れないと覚悟していた。
係:どちらへ?
私:中国とチベットとインドとどことそことあそこと…
係:え?それ全部自転車で行ったんですか?!しかも5年ですか?!?!すごいですねー!!お疲れ様でした!はい、パスポート。
私:…。
以上。
やはり日本の税関は善悪見極める世界最高の眼力をお持ちのようで!!
2007年4月10日火曜日
帰国報告
2007年4月7日、5年間の世界(といってもチベットとその周辺諸国だけなのだが…)自転車旅を終えて日本に帰ってきました。
日本に帰ってきてまずは吉野家で牛丼を食べました。
牛丼(ほぼ)復活、おめでたいことですね。
それではこれからもよろしくお願いします。
2007年4月3日火曜日
ボクが日本へ帰りたくない理由(わけ)
この旅を始める直前の2002年春、過去にない体の不調を感じた私に、担当の医師は死刑宣告にも等しい告知をした。
「花粉症ですね」
風邪でもないのに鼻水が止まらず、悲しくもないのに涙が流れていたのだ。
しかし以来5年間日本で春を過ごすことがなかったためにあの苦痛は忘れかけていた。だが間もなくの帰国は恐らく花粉真っ只中の4月7日。しかもその翌日は友人の結婚式に出ることになっている。ツァンパやターリーじゃなくて、舌鼓をポンポコ200回くらい打ちたくなるような美味しい料理を久々に味わうことができるはずなのに鼻グズグズに詰まって味なしではあまりにも悲しい・・・。
私にとってはインド大都市の地獄の大気汚染よりもスギ花粉の方が大敵なのだ。
チベットの恩返し その5『父と娘』
それはラサでの馴染みのチベタン飲み屋から帰ろうとした時だ。帰り道一緒になった客のオヤジがこっそりオレに告げてきた。
「実は私の娘が今インド・ダラムサラの学校で勉強している。6年前に亡命させたのだが、それ以来娘の姿を見ていない。お前はこの後ダラムサラへ行くのだろう?娘の学校を訪ね、成長した姿を写真に撮ってラサへ送ってくれ。」
この手の頼まれ事はもうお手の物だ。二つ返事で承諾し、オヤジの写真もそこで撮っておき、オレはダラムサラへ向かった。
そしてその亡命チベット人の子どもが多く寄宿している学校へやって来た(実はその学校はダラムサラにはなく、100kmくらい離れた所にあって探し出すのに随分苦労したのだが・・・)。そこの先生に事情を話し、その娘の名を告げるとすぐさま連れて来てくれた。15歳の小柄な女の子だった。
ラサであなたのお父さんに会いましたよ、と写真を渡すとそれだけで止め処もなく涙が彼女の頬を伝った。思わずこちらももらい泣きしてしまいそうになるのを堪え、彼女の話を聞く。
「少しの間だけでもいいからラサに帰ってお父さんお母さんに会いたい」
パスポート無しの亡命の身分ではそれはちと難しいかも・・・とはとても言えず、ご両親はあなたがここで頑張って勉強し続けることを望んでいるはずだよ、と言うと、
「じゃあ頑張って勉強して大学卒業してからラサへ帰る!」
と力強く答えてくれた。
彼女が立派に学を修め、堂々と祖国へ凱旋できることを強く願いつつ、オレは帰路についた。獅子の描かれたチベットの国旗がポタラ宮の上にはためくことを夢見ながら・・・。
(写真:中央が娘。両脇も亡命してきた子供たち)
あとは帰るだけ
涼しく快適だったダラムサラをあとにし、インドの首都デリーにやって来た。
山から下界へ下りて来てみると既にそこは40℃近い灼熱地獄。
2ヶ月間ダラムサラで充分すぎる静養をとってしまったために、この暑さは体にこたえた。
しかしこれでもうお仕舞いだ、と思うと多少無理も効いて、その炎天下の中150km以上を連日走り続けた。さすがにバテた。
でももうあとは日本に向けて飛ぶ日を待つだけだ。