2006年11月3日金曜日

4年振りのチベットの恩返し

(まずは「チベットの恩返しその2 母の想い」をご覧ください)

オレはあの村へ戻ってきた。
あの老婆のいるあの家へ。
この4年間、ただ気がかりだったのは67歳だったあの老婆が既に天に召されてしまっているのではないか、ということだった。
しかしそれは杞憂に終わった。
しっかり健在だった老婆は、突然現れたオレを温かく迎えてくれ、あの時と同じようにバター茶を振舞ってくれた。
まずは4年前のお礼に、これまでバッグの奥深くに大切に隠し持ってきたダライラマの写真をドサッと渡した。
目を丸くして驚く姿を期待したのだが、返ってきた言葉は逆にオレの目を丸くさせた。
「アンタもダラムサラへ行ったのかい?」

4年前は確かに「もう老いてしまってラサにも行けない」と言っていたはずなのに?!
聞けば去年子供たち(10人)がお金を出し合ってインド巡礼ツアーに招待したのだそうな(亡命ではなくてもちろん合法ルート)。
しかも夏…。
そしてさらにその後カイラス巡礼にも行き、カイラスコルラを五周(一周52km、最高5630m)、マナサロワール湖を一周したんだそうな。
オレが正直に「カイラスは行ったが一周だけでヘバッて、湖は見ただけ、インドは何回も行ってるけどダライラマに会ったことはない」と言うと「若いもんがダメだねえ。もしまたインドに行くなら絶対ラマに会いに行きなさい」とお説教されてしまった。

この調子ならこのバアちゃん、100歳までは大丈夫そうだ…。

A列車で行こう!

青蔵鉄道が開通し1ヶ月ほどして「既に線路の沈下が起こっている」と耳を疑うような話を聞いた。
「標高4000mの高原の永久凍土の上に鉄道を敷くという難工事を、偉大なる中華人民共和国の土木建築技術を結集して成し遂げた世紀の大事業」と謳っていたのに?!

今回通ってきた道のうち、ラサ手前約300kmは鉄道と併走する。
白く雪の被った山々をバックに3輌の気動車が16輌の客車を引っ張って進んでゆく姿はまさに圧巻。
しかしふと下を見るとアチコチの橋げたを補修工事している…。
やはりその噂は真実?!
しかも橋は無数に架かっている。
チベット独立要求過激派の爆破ターゲットとしては格好の対象ではないか!
やはり世界中にアピールできる北京オリンピックあたりが狙い目か?!

鉄道ファンの皆さん、青蔵鉄道ご乗車はできるだけ早目をお勧めします。

僕らのアイドル

ダライ・ラマ14世。
チベット仏教界において政治面・信仰面、両面においての最高権力者。
1989年にはノーベル平和賞も受賞し、世界にも認められる大人物であるが、残念ながら中国にとっては「偉大なる中華人民共和国分裂をもくろむ第一級政治犯」的人物。
そのため国内ではダライ関連のニュースは一切流れず、インターネットでも規制に遮られ閲覧不可能。
写真なども手に入れることができない。
外国人が国外から持ち込み、チベタンに渡すのも法律に引っかかってしまう。

……と知りつつ持ち込んでしまいました、150枚。
もちろん闇で売りさばいて一儲け!なんてするわけはなく、お世話になったチベタンへの御礼にするつもりで。
道中、泊めてくれた一家、ツァンパ・バター茶を振舞ってくれた農民、つらい巡礼の最中声をかけてくれ一緒に野営した巡礼者、などなど。
「どうぞこれを」と差し出すと、まるで長年恋焦がれた人についに巡り合ったかのように一様に目を丸くしてそして頭にかざします。
肉体はチベット本土から遠く離れたところへ行ってしまったけれど、彼の精神はしっかりと皆の心の中に留まっているようです。

ある一人の巡礼者が言いました。
「私たちは辛い巡礼中、苦しくなると彼のことを頭に思い浮かべるのです。」

2006年10月31日火曜日

ラサに着きました

2002年秋、2004年夏に続いて3度目のラサに着きました。
今回は雲南省から入って、東側からラサに向かう2本ある道の北側(川蔵北路)を通ってのラサ入りです。
チベット人からも「その道は寒いし、道も悪いから止めとけ」と言われるくらい寒いことで有名な地帯でしたが、その通りほぼ毎日雪が降り、早朝は零下20℃近くまで下がり、越えた4000m以上の峠は15個、とハードな旅になりました。
しかし親切な農民・遊牧民・巡礼チベタンに助けられ、楽しくここまで来れました。
今年7月にラサへ通じる鉄道が開通し、ラサは確実に大観光都市へと変化してしまいましたが、知り合いの人たちに温かく迎え入れてもらい疲れも吹っ飛んでしまいます。

ラサは、そしてチベットはこの先どこへ向かっていくのでしょう?

2006年8月26日土曜日

チベットに来ました

現在雲南省の北の端(標高3200m)にいます。
ここは行政上は雲南省ですが、すでに完全にチベット文化圏です。
草原が広がり、ヤクが放牧され、チベット民族衣装を着た人が農作業をしています。
ここからは川蔵北路を通ってラサへ向かいます。
そして再び隠密行動開始なのでしばらくは連絡おあずけとなります。
それではごきげんよう!

2006年8月15日火曜日

自転車王国

4年前初めて中国を訪れた時、観光地にいる中国人観光客がみな高級一眼レフカメラやビデオカメラなどをもっているのに驚いたものだが(今思えば彼らは公務員で公費使い込みの可能性大)、今ではそれらが全てデジタル化し、私のカメラを見て「おや?お前のカメラには液晶がついてないのか?」とバカにされてしまう始末。

まあそれはさておき、国内団体旅行→個人旅行→若者バックパッカー旅行という変化とともに、長期自転車旅行というのもまだまだ少ないながら確実に広まっているようだ。
4年前にはほとんど見かけることはなかったが、今年はそこかしこで中国人サイクリストに出会う。
しかも乗っている自転車が日本で買えば20万円以上しそうなShimanoXTRフル装備の高級車だったりして…。
すごいのは自転車だけじゃなくて、1000mアップの峠が連続する平地のない貴州省を毎日200km走ってきたというレーサー車に乗る65歳とか、青海→チベット→雲南の大高原地帯5000kmを3ヶ月で走ってきた60歳とか、カシュガルからチベット高原完全横断してきたカップルとか、やってることも超難度。

さすが自転車王国、ツール・ド・フランスを中国人が中国製人民号で制する日もそう遠くないとみた!

2006年8月5日土曜日

抗日戦争大勝利記念日

「ああ言えば上祐」の中に書いた「日中戦争で5000万人の中国人が殺されたために…」というのがもし仮に真実だったとした場合、10数年の期間でこれだけの人を殺すためには一日に大体一万人殺さねばならぬ計算になる。
一発一発手動で装填する三八式歩兵銃でこんなにも殺すにはメシ抜きで頑張ってもちょっと無理なような…。

もしかすると旧日本軍には歴史の闇に葬られた秘密特殊部隊が存在し、とっくに核開発を終えていたのかも。
「少年」とか「肥満男性」とか名付けられた新型爆弾を中国各地で250発くらいピカドンピカドン。
そういうことなら日本(の一部)の言う「南京大虐殺などなかった」という主張と、中国の言う「南京で30万人が殺された」という主張の矛盾が矛盾でなくなる。
それにしてもなぜ中国でそんな華々しい戦果をあげられる戦力を持ちながらインパール作戦では出し惜しみしたのだろう?
もったいないことだ。

まもなく8月15日。
果たして小泉さんは靖国神社に参拝するのだろうか?
するとまた鬼の首をとったかのように中国人にいろいろ議論を吹っ掛けられるんだよなあ。
いやだなあ。

四年大昔

自分でも忘れつつあったが、今回の中国再訪の最大の目的は以前お世話になった人々を訪ね歩くことにあった。
が、3年ぶりに訪れた中国の町は変化が大きく、居なくなって会えない人が多い、というのは去年の今頃書いた。

そしてさらに一年が過ぎた現在。
再訪する町する町、こんなに大きなところだったかなあ?というくらい横へ横へと拡張され、ボロ宿ボロ食堂などはきれいサッパリ取り壊され巨大なビルに変わっていた。
再会成ったのは開発から取り残されたような途中の小さな村の人くらい。
おかげでここまでの再会率は20%を割ってしまった。
あの時笑顔で見送ってくれたあの人たちはいったい今どこで何をしているのだろう…?

点灯虫

中国の建物の廊下や階段などには音感知式の電灯があって、パタパタと足音高らかに歩いてゆくとパッと点灯ししばらくして消える。
とある安宿に泊まっていた時のこと。
その建物は建築費をケチったか部屋の壁の上方が開いていて隣の部屋や廊下と筒抜けだった。
そして草木も眠る丑三つ時…。
どうやらここは夜のお仕事をするお姉様方の職場でもあったようで、私の隣の部屋へ男を連れて入ってきた。
一応声をひそめてはいるものの、安レンガの壁で上が開いているので声も音も筒抜け。
あんなことやそんなことをしている様子が手に取るようにわかってしまう。
いやはやタダでこんなに聞かせてもらってラッキ、じゃなかった、うるさくて眠れやしないじゃないか全く!
そしていい汗かいて二人は出てゆき、やっとこれで安眠…と思ったとたん、一階のロビーでそのお姉様がなにやらママさんに訴えている。
理由はさっぱりわからないのだが、絶叫・怒号・号泣。
ウギャギャギャー!ビェー!ビェー!ウギャギャギャギャー!ビェー!ビェー!
そのあまりの声の大きさに三階の廊下のセンサーまでがいちいち反応してしまいパカパカ点灯。
それが約2時間くらい続いたところで泣き疲れたかやっと静かになった。
もう今日は寝坊でいいや…と思ってしばらく、そこはバスターミナルの近くであったため、始発を知らせるバスのクラクションがブー!ブー!ブー!またその音で電気がパカパカ…。

このスリルと興奮こそが安宿の醍醐味。

2006年7月12日水曜日

今は山中 今は浜

7月1日、チベット高原北部を縦断しラサへ到達する青蔵鉄道が開通した。
当日はテレビでは朝から晩まで特番が組まれていて、式典の様子、一番列車の発車、こんな難工事をやり遂げた中国は偉大です、これでチベットの経済も飛躍的に発展しチベット人も大喜びです、的報道をひっきりなしにやっていた。

確かにこれは偉大な難工事だったろうし、経済も少しは発展するだろうが、2年前ラサを訪れたときに知り合いのチベット人にこの件を尋ねたところ「きっと中国人がもっとたくさんやってきて私たちの住む所が無くなっちゃうかも…とっても心配している」と言っていた。
私の聞いたのは3人だけなのでもしかしたらその他の599万9997人のチベタンは鉄道大歓迎しているのかもしれないが、やっぱりきっとしてないとみた。
実際、この鉄道の目的はチベットで産出される鉱物の輸送(←これはテレビでも言っていた)とインドとの有事の際の軍隊の輸送(←これは私の勝手な予想)にあると思われ、チベット人のことなんかハナっから考えてもいないだろう。
以前新疆カシュガルのウイグル人が「鉄道が開通してから中国人がどっと押し寄せ我々の町をメチャメチャにしてしまった」と怒っていた。
結局のところ、中国政府がチベットやウイグルにしている政策は、大日本帝国が中国の地に勝手に満州国を作って富を貪った行為となんら変わりないのだ!

…と知ったような口を利いてしまいましたが、小難しい政治的思想的なことは抜きにして、4000m以上の高原をひた走る列車に一度揺られてみたいなー。
「世界の車窓から」もビックリな雄大な風景が見られること間違いなしだろうしね!