2003年10月8日水曜日

インド人とは

本で読んだ話で恐縮ですが・・・

かなり昔、インドのデリー空港で日航機が事故を起こし多数のインド人が死亡。
その時滑走路にいたインド人も巻き込まれ一人死んだ。

日航側は保証金として全員に一律30万円を払うことを決めた。
するとインド政府からクレームがついた。
その内容はなんと、、

「一人30万円は多すぎる!
 そんなに払ったら、以後滑走路にインド人が殺到してしまう!
 半額にしてくれ。」

ウソのようなホントの話です。

技術大国

イタリアのシチリア島からチュニジアに向かうフェリーを待っていた時のこと。

乗客の大半は出稼ぎ帰りのチュニジア人だった。
みんな久し振りに会える家族へのプレゼントを大量に持っている。
しかし乗り込む際、イタリア人係員から「一人荷物は2個まで!」という命令が。
せっかくの荷物も強引な係によりポイポイ投げ捨てられている。
あまりのそのやり方に第三者としても怒りを覚える。

そして自分も自転車とともに乗り込もうとしたところ
「これは二輪車だから別の切符が必要だ!」
先に乗り込んでいたチュニジア人からも
「可哀想に、あいつもつかまったか・・・」

こうなったらコイツの鼻をあかしてやろう!
切符を買いに行くように見せかけ建物の影に隠れ自転車を輪行する。
他の荷物も全て輪行バッグに詰め込み1つにして再挑戦。

「どうだい?これなら二輪じゃないし、荷物も一つだぜ!」

係員は渋々通過を許可してくれた。
するとデッキから見ていたチュニジア人から一斉に「ウォー!!」の声。
中に入っていくと皆々から「さすが日本人!頭がいい!!」と賞賛の嵐。
船内のビデオでブルース・リーの映画をやっていて悪の白人をバタバタやっつけるのを見て(関係ないけど)ますます日本人の評判はアップしたのでした。

2003年10月4日土曜日

ダイエット!

アメリカ、ニューヨークでのお話。

こちらの外食と言えば、ハンバーガー・ピザ・ポテトにコーラ。
サイクリストならいざ知らず、普通の人にはやはりカロリー過多。
アメリカではダイエット熱が盛んとは聞きますが、想像を絶するようなデブがいっぱいいるのが事実です。
それでも食い続けたら無限に太るのでは、と心配になります。

それとは別に、回転扉が多いのもNYの特徴。
地下鉄の出口はバー式の回転出口だし、建物の入り口はたいがい回転式です。
これが結構狭いので先程のようなデブは引っ掛かるのでは、と心配になります。

で、ここで気づきました。
やはりデブは引っ掛かるのです。
身動き取れなくなって、数日間もがいているうち痩せて脱出できるようになるのです。
無限デブがいないのも、回転扉が多いのもこれで合点がいきました。
NY市制あっぱれ!って感じです。

確かにそういう目で見てみると、そこかしこに引っ掛かってもがいているデブの姿が・・・

2003年9月25日木曜日

脱プン!その5(トルコ編)

トルコではガソリンスタンドによく泊まらせてもらっていた。
敷地の隅の方にマットだけ敷いて寝かせてください、と頼むと43発43中という驚異的な成功率でOKしてもらっていた。
こちらとしては寝かせてもらうだけで充分なんだけど、さすが親日的なトルコ人、それだけでは許してくれずメシになれば一緒に食おうと誘ってくれたり、観光に連れていってくれたり、家に招いてくれたりしてありがたい限り。

トルコ中部、カッパドキアに近いガソリンスタンドに泊めてもらった時のことだ。
やはりここでも歓迎してくれ、メシに加え、ビール2本にスイカ半玉までいただいてしまった。
しかも外じゃ危ないから事務所の中で寝なさい、と部屋の中に入れてくれた。
夜、皆は各家に帰り、そこには私一人・・・

深夜、モーレツな尿意で目が覚めた。
寝る前しこたま水分摂ったので当然だろう。
トイレは外にあったので扉を開けて出ようとしたところ・・・
何と外から鍵がかけられている!
しかも窓は開かない!
これじゃ軟禁だ!!
すでに膀胱は危険度レベル4に達している!(レベル5で核ミサイル発射)
2Hzの自家製コンピューターをフル稼働させ、はじき出された答えは
「金魚ばちにしろ」
しかし翌朝白い腹を浮かせ全滅していたらヤバイというので却下。
続いて出された答えは
「植木にしろ」
しかしこれも臭いでばれそうなので却下。
う、う、危険度レベル5は目前である!

しかし、節分には豆まきをするような信心深さが功を奏したのだろう。
神は我をお見捨てにはならなかった。
このとき部屋には自転車ごと入れてあったのだ!
素早くボトルの中身を捨て、そこにジョ〜。
フゥ〜、助かった〜

しかーし!ここで気を抜いたのはマズかった!
直後に今度はモーレツな便意が襲ってきたのだ!
しかも猶予許さぬ緊急非常事態宣言である。
またもやレベル5は目前に迫っていた!
しかししかし、お彼岸に墓参りをするような信心深さが功を奏したのだろう。
やっぱり神は我を見捨てることはなかった。
自転車の荷物の中にはビニール袋があったのだ!
ブリブリ...フゥ〜

翌朝、みんなが戻ってきたところで何食わぬ顔して裏の畑にまいておいた。
その年の畑は豊作だったという。

2003年9月24日水曜日

脱プン!その4(シリア編)

トルコ国境まであと数kmというシリアの片田舎で居候していた時のこと。
夕食に何か傷んでいたものがあったようで家の者の数人が下痢にみまわれてしまった。
みんな夜中も次々とトイレに駆け込む。
しかし田舎なので夜間は水道がストップ。
缶に汲み置きされた水がどんどん減ってゆき、腹が痛いよりもこのままじゃ尻洗えなくなるのでは・・・の恐怖に襲われていた。

翌日、運悪くこの日がシリアビザの限界だったのでゲリゲリのまま出発しなければならなかった。
国境を越えトルコに入ったところでダウン。
その辺に野宿しようと準備していた。
すると農作業帰りのトルコ人が来て
「そんな所で寝ないでちょっとついて来な」
と誘ってくれた。
コンテナを改造した仮宿泊所へ。

深夜一人で寝ていたとき、それは襲ってきた。
ヤバイ!と立ち上がった瞬間、彼らは自由を求め旅立っていってしまった。
近くの川で蚊にボコボコに刺されながら体と服を洗ってコンテナの中も洗い流しておいた。
しかし翌朝やってきた人らが中に入るなりしかめっ面して洗浄を始めてしまった。
情けないやら申し訳ないやら・・・

強烈な思い出から始まったトルコ初日であった。

2003年9月23日火曜日

宗教冒涜

初めてのイスラム国訪問であったエジプトにて。

日本では感じることの出来ないイスラムの神秘性に酔いしれていた。
そんな中、町外れの小さなモスクに行ったところちょうどお祈りの時間。
外から中の様子をうかがっていると、それに気付いた導師さんがやってきて話し掛けてくる。

「日本人か?」
「イエス!」
「エジプトは楽しいか?」
「イエ~ス!」
「イスラム教徒になりたいか?」
「イエ~~ス!!」

勢いで言ってしまった。

「それでは『ムニャムニャ(本当はもっと長い)』と2回唱えなさい。」
「ムニャムニャ、ムニャムニャ」
「よろしい、これで君はイスラム教徒だ。これからは『ムハンマド』と名乗るがよい」

ムハンマドになってしまった。

その後イスラムの基本である「五行六信」の教えを受け、礼拝前の身の清め方を習い、ペコペコやる礼拝法も伝授された。
いっぱしのエセイスラム教徒である。

しかしここでイスラム教徒になったことによるパワーは想像を超える絶大なものであったのだ。
旅の途中で会った人に宗教を聞かれ、イスラムと答えるとまるで旧知の友を迎え入れるかのような歓迎を受けてしまう。
それが楽しくて頻繁に使ってしまった。
場面に応じて「キリスト教」「仏教」も使い分けていたのだが・・・。

ある時茶店で皆でワイワイやっていた時、やはり宗教を問われその時は「仏教」と答えた。
するとさっきまで楽しく話していた中の一人が突然
「この異教徒め!汚らわしい!出て行け!」
と怒り出したのだ。
周りの人が静めようとするもその怒りは収まらず、私はスゴスゴと退散した。

その時思ったのだ。神聖なる宗教を私のように遊び半分で使うものではない、と。
それ以来「イスラム教」は封印し、無難に「仏教徒」ということにしておいた。

時は流れ一年後、モロッコのカサブランカにいた。
そこには近代建築術の推移を集めた豪華絢爛の巨大モスクがある。
異教徒も観光は出来るのだが、その時は運悪く金曜昼の礼拝の時間で観光客の入場は禁じられていた。
私はまもなくカサブランカを去らねばならなかった。
しかしどうしてもこのモスクの中を見てみたい!
そして思わずしばらく封印しておいたあの禁断の技を使ってしまったのだ!!

入り口に近づくとやはり警備の人が「外人は入れません」と言ってくる。
私は言った。しかも既に身につけていたインチキ臭いアラビア語で。
「私は日本からのイスラム教徒です。このモスクで祈るためはるばる遠くからやって来ました。中に入って皆と一緒に『ムニャムニャ』と唱えたいのです!」
すると警備の人はちょっと待て、と言い残し偉い導師様を連れてきた。
その導師に同じことを繰り返すと、導師はニコヤカに
「遠いところよく来てくれました。さあ中へどうぞ」

中は想像を遥かに超えていた。
数千人のイスラム教徒がいっせいにしゃがんだりペコペコする様は巨大な稲穂の波が揺れているようでもあった。
すがすがしい気分でカサブランカをあとに出来そうだ・・・。

しかしやはり神の天罰が下ったようだ。
その日乗ることになっていたバスは、荷物だけ載せて私をおいて行ってしまった。
翌日荷物は返ってきたもののやはり神聖なる宗教を冒涜するべきではなかったのだ。
それ以来「イスラム教」は封印されたままである。

2003年9月21日日曜日

海水浴

ヨルダンとイスラエルの間に「死海」はある。
海抜マイナス394m、地表で世界一低いところにあり、年中暑くて乾燥している上、流れ出す川がないので塩分がどんどん濃縮され、普通の海よりはるかに浮力を生む。
新聞読みながらプカプカ浮いている写真を見た人も多いだろう。

で、実際入ってみると本当にプカプカ浮いてしまうのだ!
でもあんまり安定していないので疲れるし、オマケのクロスワードを解きながら「母さんお茶」なんて言うことも出来ないので注意しよう。

また浮力が強すぎるのでうつ伏せで泳ごうとすると尻が浮いてしまい顔がドボッと水に沈む。
口に入れば辛いを通り越して苦いし、目に入ろうものなら激痛が走る。
傷口もヤバイし、痔もヤバイ。
ホモの人はもっとヤバイ。
小さく波も立っていて、波打ち際で遊んでいた子供に波がかかると大変!
アッチコッチからビエービエー泣き叫ぶ声が聞こえてくる。

でもここはアンマンから多くの海水浴客が来ていて(他にヨルダンの海は最南端がちょっと紅海に面しているだけ)ビキニパンツのおとっつぁんと真っ黒なチャドルのおっかさんが仲良くスワンボートを漕いでいたり、チャドルのまま泳いでいる女の人がいたりして面白いです。

多分対岸ではイスラエル人がトップレスで日光浴したりしてるんだろうなあ。(想像)

2003年9月18日木曜日

インディージョーンズ

ヨルダンの観光のハイライトはなんと言っても「ぺトラ」。
「インディージョーンズ3」のロケにも使われた巨大な遺跡です。
しかし入場料が30$くらいして高い!
できることなら安く入りたい。
そういう情報はまことしやかに旅行者の間を駈け抜けます。

方法はこう。
ぺトラ近くのある宿の主人は、ぺトラ入場券のモギリもやっているので、その宿に泊まってちょっとニギらせれば1/20の現地人料金で入れてもらえる、というもの。
私もその宿に泊まって早速オヤジに話を持ちかけてみました。
しかし返ってきた答えは
「わりい、オレ明日非番なんだよ。その代りいい方法を教えてやろう。」

翌日、オヤジに教わった方法で入場を試みます。
その方法とは単純なもので、夜暗いうちに出て、入場ゲートに続く道に沿って流れる川(今は乾季で枯れている)を通ってゲートをパスせよ、というもの。
ライト片手に歩いて行くとゲートの横で犬がガウガウ吠えていてちょっとビビリましたが、何の問題もなくクリア。

その先には幅5m、高さ100mくらいの岩の隙間がクネクネ続いています。
トコトコ行き、やがて空も白み始めた頃、その隙間の向こうにぼんやりと朝日に浮かび上がる巨大な遺跡が!!
この人類の遺産が今目の前に!!
しかもたった一人、私だけが見ている!!
ピラミッドに続き再び立ち尽くしてしまいました。

前回のピラミッドもここもその後普通に見物もしたのですが、一般の時間だと観光客もウジャウジャいるし、それにたかる土産物屋もうるさくていまいち。
それどころか、旅の初めにあまりにも衝撃的なこの2つを見てしまったためその後見た数々の遺跡が全て大した物に思えなくなってしまいました。

そのくらいスゴイのだよ、夜のピラミッドと朝のぺトラは。

2003年9月16日火曜日

台湾の事情

台湾には大きく分けて2つの人々が住んでいる。
1つは元々この島に住んでいた人々、高砂族という名で呼ばれたりもする。
もう1つは戦後共産党に追われ大陸から逃げてきた蒋介石率いる国民党の中国人。
現在は西部の大都市に中国人が住み、政治経済に中心を担い、元々いた人らは東部や山間部の貧しい地域で暮らしている。

そんな山間部を訪れたときのことだ。
日本統治時代を経験している年配の人はもちろん、その子供の代までもが今の日本人の忘れてしまった美しい日本語をしゃべっていた。
訪れる前は韓国と同様、日本人に対し恨みを持っているのではないか、と不安に思っていたのだが話してみると全く違っていた。

日本時代は平和に上手くやってこれていたのに(もちろんそうでない事件もいろいろあるのだけど)、あとから入ってきた奴ら(中国人)がそれをメチャクチャにしておいしいところだけ持っていってしまった、と。

日本は素晴らしい所なんでしょう?死ぬ前に一度行ってぜひ皇居を拝んでみたいです、と言う人もいた。

もしかしたら現存する真の大和魂はここにしかないのかもしれない・・・

日本人、反省せよ!

韓国、ソウルの南に「独立記念館」がある。
何年か前に日本が教科書問題で日韓の歴史をうやむやにしようとしたことに対し韓国国民が怒り、「歴史を忘れ去ってはならない!」と、秀吉の時代から日本が韓国にしてきた悪行の数々を広大な敷地の中に模型と映像で示したものである。

展示には拷問の再現シーンや、後ろ手に縛られた韓国人が日本兵に銃で頭をぶち抜かれる映像が流れていたりと見ているとドーンと暗い気持ちになってしまうようなものばかり。
説明文には、韓・英・中・日の4ヶ国語で書いてあるのだが、見学に来ている人らの感情を察するに日本人とばれてはリンチに遭ってもおかしくないような感じがしたので顔は韓国文に向け目だけ日本文を追ったり、切符を買うときもピッタリの額を出し、中でも一言も口をきかぬなどのささやかな努力をしてみた。
しかしこういう時に限って子供に「ねえねえ、トイレはどこ?」ときかれたりして困ってしまった。

とにかく見終わった後は、悲しいような、情けないような、申し訳ないようなひたすら反省するだけであった。
日本人は焼肉食って免税品を買うだけじゃなくてこういう所にぜひ行くべきであろう。

ただ気になったことが一つだけある。
ここは韓国の小学生の社会見学として定められているらしく全国からバスに乗ったものすごい数の小学生が続々とやってくる。
日本が韓国に対しひどい事をしてきたことは事実だろうし、その歴史を知ることは大切である。
しかしまだ現在の国際関係もよく理解していないような子供のうちに、このようなショッキングなシーンをこれでもかというくらい見せつけてもよいものだろうか?
これがトラウマになって、よくわからないけど日本人は悪いやつだ!と思い込んだりはしないのだろうか?
せめて高校生くらいの分別のつく歳になってから見せるべきではないのだろうか?

この疑問を、ソウルにいた日本統治時代を経験していた日本語ペラペラのおばあさんと、帰国後にも友人の韓国人に聞いてみた。
するとやはりこのことは韓国でも問題になっているらしかった。
しかも時は日韓共催ワールドカップ前年であり、両国は不幸な過去を忘れこれからは協力してやっていこう、と言いながらもう一方では日本の悪を強調している。
改正すべきとの声が上がっているらしかった。

W杯が終わって一年。
今もまだ多くの小学生が見学しているのだろうか・・・