私は神など信じないが、ラサに来てそれを信じたくなるような出来事があった。
2年前、ラサでお世話になった家に娘さんがいて、ラサを去った後も度々メールのやり取りがあった。
しかししばらくして連絡がなくなり、その後そのアドレスも消滅してしまった。
(ホットメールは1ヶ月アクセスしないと消える)
そして月日は流れ、先日ラサに2年振りにやって来てメールボックスを開くと何とその娘さんからのメールが来ているではないか!
発信日を見れば到着の2日前になっている。
もちろん彼女は私が今ラサにいることなど、それ以前にチベットを再び旅していたことさえ全く知らない。
その後実際に会ってみると彼女もビックリ。
やっぱりラサは神の住む街である。
(写真:左がその娘さん)
2004年7月28日水曜日
神の住む街
ラサに来たのは…
西チベット方面から東に向かうと、途中で道が二手に分かれる。
北東方向はラサへの道、南方向はネパールへの道。
結局ネパールに行くのでショートカットして直接ネパールに下りることもできた。
しかし片道750km、往復1500kmの遠回りをしてでも私はラサに行きたかった。
安くてうまい中華が食べたい、ポタラ宮の雄姿を再度拝みたい、しかしもっと大切なことがある。
それは2年前に訪れたときに会った人達にもう一度会うためだ。
ラサに着いて早速彼らの元に向かった。
忘れられているかもしれないので当時撮った写真を持って。
しかしそんなものは不要だった。
宿の服務員、毎日通った食堂のおじさんおばさん、カメラ屋の小姐、みんなみんな顔をあわせたとたん「アンマ?!」
わずかの期間滞在しただけなのにみんなしっかり覚えていてくれた。
笑顔で2年前の話に花が咲く。
もうそれだけでラサにわざわざやってきた甲斐があったというもんだが、これらはほんの序章に過ぎない・・
そう、最大の目的は1ヶ月間居候させてもらった一家を訪れることにある。
(なぜ居候することになったかは「チベットの恩返しその2 母の想い」を参照してください)
門をくぐると懐かしい顔が「アンマ?!」
しばらく近況報告をした後はみんな普通の生活に戻る。
2年振りに会ったのに、なんか仕事か学校から帰ってきただけのような淡白さで、もう少し大騒ぎしてくれてもいいのにな、と思う反面、この特別扱いされない感じが逆に嬉しかったりもするのである。
2004年7月27日火曜日
Capital of TIBET
カイラス山の麓の村でのこと。
不本意にも白人の皆様と一緒に飯を食うことになりました。
本当は行きたくなかったのですが、私が行かないと彼らは料理の注文すらできないから仕方がありません。
そこで私がこれからラサに向かうことを言うと、彼らは次々とラサの悪口を始めました。
「広い道に高いビル、ラサなんてただの中国の街だぜ。ポタラ宮なんて博物館じゃないか。行くだけ無駄だよ。」
ラサは私の最も好きな街、黙って聞いている訳にはいきません。
「君たちはジョカン(チベット仏教の総本山の寺)の開門に参加しましたか?(巡礼者が殺到し大騒ぎになる)
シャカムニ(御本尊)に触れた後の彼らの笑顔を見ましたか?
毎朝地元チベタンのするリンコル(市内を一周)を共に歩きましたか?
1日と15日に行われるお祭りに彼らと共に参加しましたか?
もし一つでも体験してたら、ラサを中国の街、なんて呼べないはず。
ラサは紛れもなくチベットの首都ですよ。」
彼らは一つも参加してませんでした。
彼らが見たのは中国風のラサの街、そして外国人用ホテルに、外国人向けメニューの置いてあるレストランのみだったのです。
続けて私は言いました。
「あなたたちにとってラサは観光地、だけど私のとってのラサは大切な旅の目的地。だからポタラ宮もあなたたちには博物館だけど、私にとっては重要な旅のシンボルなのです。」
白人さんたちは黙ってしまいました。
私の勝ち。
キューピー30秒クッキング
本文を読まれる前に「ツァンパ」豆知識!
「ツァンパ」とはチベット人の主食で、大麦を炒った物を粉にし、バター茶(しょっぱ生臭い)でこねて食べます。
食べ方にもいろいろあり、
1.粉のまま舐める(舐める時息を吸うと必ずムセる)
2.バター無しの塩茶でこねる(遊牧民が放牧中によくやっている)
3.バター茶でこねる(お手軽)
4.3にチーズバターを加える(一般家庭はこれがスタンダード)
5.4に砂糖も加える(飛び込みアッパー昇竜拳並みの破壊力を持つスーパーウルトラハイグレードな食べ方。これを出されたらもてなされている、と思っていいだろう)
「ツァンパ」は保存が利き、軽いので携帯食としては抜群で、調理(といえるかどうか…こねるだけ)も簡単。
しかもあまり量を食べられない(食べたくない)のでなかなか減らない、腹持ちがいい(消化が悪い)、といいことづくめのチベット料理の代表選手です。
…以上を踏まえた上で本文へどうぞ。
<今日の献立>
バラエティーツァンパ
○毎日毎食同じ味のツァンパだとさすがに飽きるものです。
料理に大切なのはやっぱり味付け!
ツァンパにいろいろ混ぜてみてあなたのツァンパライフを何倍にも楽しくしちゃいましょう!
これを食べれば今日の放牧の疲れも吹っ飛んじゃいますよ!!
<用意するもの>
・ツァンパ(いっぱい)・チキンスープの素・レーズン・カレー粉・胡椒・唐辛子パウダー・ケチャップ
<調理法>
ツァンパとそれぞれを混ぜてこねるだけ
<結果>
・チキンスープツァンパ:チキンスープは別で飲むべき。マズイ
・レーズンツァンパ:レーズンパンを生で食っているかのよう。マズイ
・カレーツァンパ:期待度と裏腹にかなりマズイ
・胡椒ツァンパ:絶望的にマズイ
・唐辛子ツァンパ:切腹したくなるほどマズイ
・ケチャップツァンパ:「哀しいけどこれってツァンパなのよね!」と言いたくなるほどマズイ
<結論>
下手な小細工はするもんでない。
素材の味を大切に・・・
2004年7月25日日曜日
インド人とカイラス山
カイラス山は仏教・ボン教のチベット系宗教の聖地である以外に、ヒンズー教・ジャイナ教のインド・ネパール系宗教の聖地でもある。
よってカイラスに行くと、見慣れたモンゴロイドに混じって大勢のインド人・ネパール人巡礼ツアー客が来ている。
突然あの濃ーーい顔が多数出現するもんだから、それだけでマクー空間に引きずり込まれたような感じがする。
外国に来れるようなインド人だから当然彼らは金持ち。
インド人の金持ちと言えば、タイコ腹のおとっつぁん+サリーからブヨブヨ肉のはみ出たおっかさん+英語スクールに通う生意気なガキ、の3点セットに決まっているのだがやっぱりここでもそうだった。
で、もちろん彼らもコルラ(山を一周)する。
しかし「金持ち汗かかず」とインドの格言にある通り彼らは歩かないのである!(歩く人もいるけど)
行ける所までジープで行き、後は馬に乗り、荷物はポーターが運び、また車が来れる所で拾ってもらって帰る。
ズルイ!
さてここで問題です。
彼らの夕食メニューは何だったでしょう?
3、2、1、ピンポン!ピンポン!
その通り、カレーです。
香辛料はわざわざインドから運んだんだってさ。
地雷
西チベットでトイレがあったのはアリとサガだけ。
あとの町や村ではその辺で適当にする。
普通中国の村では肥料になったり野ブタが食べたりするので残らないが、西チベットではその過酷な環境のせいで農業は成り立たず、ブタも生きられないため、ブツはそのまんまとなる。
ある町でのこと。
やっぱり「その辺でしてこい」と言われたので建物の裏に回ってみたらビックリタマゲタ。
その数に驚いたのではない。
まず壁に沿って1mの等間隔でズラリ一列。
壁の端まで来ると1m前進し、先ほどのと正三角形の頂点の位置に配置されるようにズラリ。
それが27列続いていた(数えてみた)。
まるでダイヤモンドゲームの升目のようだ。
もちろん私もその隊列を乱さぬよう、正しい位置に地雷をセット。
このままのペースでいけば数年後には地平線の向こうまで達するんじゃないか、くらいの勢いである。
その地平線の先にはインドがある。
その町のあたりはアクサイチンと呼ばれる国境線の定まっていない地域なのでいつインド軍が攻めてきてもおかしくない。
しかしこの果てしなく広がる整然と並んだウンコを見たらビックリして逃げ帰るだろう。
戦わずして勝つ。
中国人民解放軍バンザイ!!
2004年7月24日土曜日
中国的少数民族問題
中国人サイクリストと一緒に行動していた時こんなことがあった。
西方民族であるウイグル人ばかりの工事事務所で一休みし、いざ出発しようとすると彼らはこっそり私にだけ耳打ちし
「おまえだけ残れ」。
ご飯やお茶でもてなしてくれた。
そして彼らは言った。
「俺は漢民族は嫌いだ。数年前までカシュガルはウイグル人の街だった。しかし数年前(鉄道開通時か?)から突然大量にやって来て街をどんどん変えてしまっている。」
TVを見ていて戦争ドラマで日本兵が漢族を殺したり犯したりするシーンが出ると「いいぞ日本人!漢族なんてメチャクチャにやってしまえ!」と息巻く。
同じような思いをチベット族やその他の少数民族もきっと抱いていることだろう。
しかし考えてみれば、西方民族(ウイグル・キルギスなど)、キョウド(モンゴル族)などの異民族を支配下に置くのは秦の始皇帝以来の漢民族の長年の夢であり、今を生きている彼らにとっては不幸だが、一時期は彼らが漢民族を脅かしていたこともあったのだ。
だからもし中国に何らかの事態(革命??)が起これば今の立場なんてアッサリひっくり返っちゃうかもしれませんね。
(写真:漢民族を殺せ!と彼らは言った)
人種対決
アメリカ人×1、スイス人×2、中国人×2、日本人×1(私)の計6人がほぼ同じに西チベットに挑んだ。
はじめは6人一緒だったが次第に2つのグループに分かれた。
アメリカ人+スイス人の「アングロサクソンズ」
中国人+日本人の「モンゴロイダーズ」。
これは別に私の白人嫌いがそうさせたのではなく、旅のペースが明らかに違ったからだ。
「アングロサクソンズ」の特徴はその凄まじいまでのスピードである。
長い足をフルに活用し現地人の誘いも無視しグイグイ飛ばす。
そして飯は自炊が基本。
中華料理はまずいそうである(なんと!)
対し「モンゴロイダーズ」は遅い。
短い足を頑張ってクルクル回しても全然追いつけない。
それなのによく休む。
一旦止まると休憩が長い。
人の誘いも律義に対応する。
でも結果的にはこれがすごく旅を楽しくしてくれた。
私一人では通じない言葉をカバーしてくれたし、中国語の勉強にもなるし。
食事のオーダーもやっぱり中国人のセレクトは抜群!
張くん、蘭くん、ありがとう!!
僕の検問突破術
始めに言っておきますが、このコラムは偉大なる毛沢東主席のお作りになった、偉大なる中華人民共和国の、偉大なる法律を明らかに犯すものなのであまり自慢できる話ではないのですが、こういうこともできる、という参考程度にどうぞ。
チベット全域は都市を除き公安の許可なく訪れてはならぬ非開放地域である。
ツアーを組んで、しかるべき金を払えば許可が取れるのだが、個人で自転車で、となるとほぼ不可能である。
でも行ってみたい人はどうするか?
とりあえず行っちゃうんである。
でも敵もさる者。
そうはさせじと検問が存在する。
そこを通るとき、全くフリーパスのこともあれば、パスポートチェックだけの時もある。
最悪は「許可証を見せろ」と言われることで無いことがばれれば、良くて罰金。
悪ければ圏外追放。
みんなこれを恐れていて深夜にコソコソ通り抜けたりしているが、私はいつも白昼堂々と挑む。
結局パスポート見せただけで終わることが多いからだ。
しかし一度「許可証を見せろ」と言われてしまった。
や、やばい・・・
しかし私には一つの策があった。
取り出したる一枚の紙。
それは大学の卒業証明書(英文)。
私は知っている、中国の多くの公安が英語を話すことも読むこともできないことを。
それはそれらしきフォーマットで書かれ、それらしき判子やサインが載っている。
それをさも当然のように堂々と見せる。
この時注意すべきは
「あなたは英語が読めますか?」
などといったような、誇り高き中国公安のプライドを傷つけるようなことを決して言ってはいけない。
彼がそれを「許可証」だと認め(卒業証明書だが)、そこに「この者の通行を許可する」と書いてあると読んだのなら(○○学部××年卒業としか書いてないが)それでよいではないか。
さらに効果をあげるためには、素早く係の名札を見てその名前から漢族かウイグル族かチベット族か判断する。(漢族なら王○○、李××のような3文字なのですぐ分かる)
そしてそれにあった言葉で対応するのだ。
するときっと笑顔で「一路平安!」と見送ってくれることだろう。
(写真:魔法の通行証)
NOと言えないニッポン
新蔵公路は現在道路拡張工事の真っ最中。
そこを通るとき、ただでさえ厳しい道が、川の中を通らされたり掘り下げられた沼の中を通らされたりと苦難を極める。
しかし悪いことばかりではない。
そこでは工事に従事する人々の住むテントがある。
食事どきにそこを通ると、大抵「飯食ってけよ!」と声がかかるのだ。
行けばブッカケご飯ドンブリ超大盛り3杯。
ありがたく頂き出発すると、またすぐ隣のテントからも誘いの声が。
もちろん断ってもいいんだけど、この先もしかしたら食事できるような所が無くなるかも・・・の恐れからまたゴチになってしまう。
こんな調子で一日8食なんて日もあった。
空腹に悩まされることは想定していたが、まさか胃拡張で苦しむことになるなんて・・・
うれしい誤算。
(写真:出稼ぎ農民たち)
雪やコンコ
前回東チベットの旅では靴を一度も履くことはなく全てサンダルで通した。
その反省を生かし今回は靴を持ってこず。
それは当たりだった、前半においては。
道路工事中では迂回路が川の中だったりして膝までズブズブ浸かって歩かねばならずサンダルの方が便利であった。
しかし後半、状況が一変。
平均標高3000mを越えると毎日のように雪が降った。
たいていニワカ雪程度なので大丈夫だったが、時折一晩中降り続くときもある。
朝テントから出ると一面銀世界。
どこが道なのかすらも分からない。
トラックの残した轍だけが唯一の道しるべ。
それを伝っていくのだが、午前は踏まれた雪が凍ってツルツル滑り脇の新雪にはまり込むと裸足がピリピリ痛い。
でも昼過ぎると融けて道が泥沼と化すのでやっぱりサンダルの方がいいかな。
夜は毎晩氷点下。
前回冬のチベットで寒さに苦しんだ経験を全く生かさず、今回も長年愛用している+10℃仕様の寝袋しかないのでやっぱりつらかった。
夏だから大丈夫だろう、とタカをくくったのが甘かった。
夏の新蔵公路(カシュガル-アリ)は冬の中尼公路(ラサ-ネパール)より寒かった。
教訓
「備えなければ憂いあり」
(写真:どこへ向かって進めばいいのか…)
狼が出るぞう!
狼に遭った。
結論から言うと襲われることはなかったが。
アリの西、数百kmに渡って人の全く住んでいない地域がある。
そこがすなわち狼出没地域である。
行く前は散々地元民におどされた。
「独りで行くと死ぬぞ!」と。
ならばどうすればよい?と問えば、
「銃を持て」
こんなことになるのならパキスタンのおかしらにトカレフ1丁譲ってもらうんだった。
私にも一応武術の心得はあるものの、珠算3級程度なので狼相手には心もとない。
それ以外の対処法としては・・・
・石を投げる
・棒を振り回す
・とにかく逃げる
・あきらめる
・・・など。
ギャートルズとかわらんではないか。
で、本当に狼はいた。
「ウォーー!」
私を見て天に向かって高らかに吠え上げた。
まるで映画のワンシーンを見ているかのようだ、などと感激に浸っている場合じゃない!
逃げろや逃げろ。
しかし、のち走る狼も見たが、そのスピードといったらとても自転車で逃げ切れるものではなかった。
狼に襲われないためにはどうすればよいか。
答えは一つ。
神に祈るのみである。
ただし注意点が一つ。
出没地域はウイグル自治区とチベット自治区の境界にまたがっている。
アラーに祈るべきか、ダライラマに祈るべきか、そのところ間違えのなきよう。