入院3日目。
なんとわずかであるが左足の指が動いた。
ピクピクとではあるが動いたのだ。
やっぱり私はついているなあ、先生、看護婦さん、見てよ!この足!
ほら!ほら!動くでしょ!
・・・というところで目が覚めた。
ぼんやりした頭で左足に神経を集中してみた。
何も感じない。
ピクリとも動かない。
そんな事起こるわけないよなあ、とあきらめの思い。
夢にまで出るほどのショックであることの悲しさ。
しかしいつまでもクヨクヨしていては埒があかない。
この事態を少しでも良い方向に向けられるよう考えねば。
幸いなことにひざより上は大丈夫だ。
アキレス腱も正常である。
おそらく普通に立ち上がることは難無いだろう。
あとはブラブラになる足首をテーピングなどで固定すればいいのではないか。
そうすれば多少不格好でも歩くことはできそうだ。
そう考えていたらこんな怪我たいした怪我じゃないような気がしてきた。
それより逆にこの怪我をなんとかうまく利用できないものか。
障害者手帳とって、電車に只で乗れたりしないかな。
18切符ともこれでおさらばだぜ!
何だかウキウキしてきたぞ!
しかしこのウキウキ感も心の底からの本物のウキウキ感ではないことは充分過ぎるほどその時の私には分かっていた。
2004年1月10日土曜日
第10話 希望の光
2004年1月8日木曜日
第9話 検診
入院2日目。
朝の検診でドクターがやってきて包帯を取り替えたりひざの調子を診たりしていた。
彼は何も言わず黙々としているのでこっちから聞いてみた。
「左足の骨はどうだったんですか?」
「君の足の骨はNOブロークンだ」
そうか、骨は大丈夫だったのか。
しかしもう一つ昨日の夕方頃から気になっていたことがあった。
それはしびれたままの左足である。
包帯でグルグル巻きにされた足でも、ひざは微妙に前後に動く。
しかし足首や足の指は後方へ曲げることはできてもそれを戻すことができないのだ。
そのことをドクターに聞いてみた。
すると包帯の先に少し出ている指をペンでツンツンし、動かしてみろ、と言う。
しかし曲げれても戻せないことを説明すると悲しそうに首を振りまたよく分からぬ言葉でフニャフニャ話し出した。
その中に「Cut」と言う単語だけが強い衝撃を伴って耳に入ってきた。
神経が切れてしまって動かないことを説明していることは明らかだった。
私は再び聞いてみた。
「それは復活しないのか?」
「No」
事故が発生して以来私は常に気を強く持ち続けてきた。
一人で全てやらねばならぬ、今動きを止めては何も前進しないからだ。
ただ、この時初めてうろたえた。
もうあの足の感覚は永久に戻らないのか?
自由に歩いたり走ったり跳びまわったり野球したりサッカーしたり、そして自転車に乗って世界を旅することももうできないのか?
私は一生身体障害者のレッテルを貼られ不自由な生活を送らねばならないのか?
なんとなく覚悟していたとはいえ、現実に言葉に出して言われた時のショックはここに書き記すことはできない。
私の乏しい表現能力ではこの深い悲しみを表すことはできないくらいのショックなのだ。
その日1日色々な事が頭をよぎり去っていった。
今となってはもう覚えていない。
覚えていたとしてもここに書き切れない程のことを考えていただろう。
ただその日、ズタズタにされた体を心を少し癒してくれたことは事故の加害者、つまり反対車線に飛び出し、私をはね、町の病院まで輸送してくれたオッサンら三人が見舞いに来たことだった。
第8話 目覚め
目が覚めた。
何だかすごく明るい部屋にいた。
ここはどこだろう?
そうだ、トルコだ、そして確か車にはねられ病院に連れてこられたのだ。
そしていい気分のガスを吸ったのだ。
ということはここは手術室だな。
はあ、これから足の手術か、痛いだろうな、嫌だな。
いろいろ考えた。
そして横にいた看護婦さんに聞いてみた。
「私のオペは?」
「終わったわよ」
「へ?!?!」
ビックリした。
確かに妙に明るいと思ったのは体を照らすライトの光ではなく窓から入ってくる日光の光だった。
妙に重く感じていた左足は、痛みのためではなくギプスと包帯のためであった。
体は硬い手術台ではなく、柔らかいベッドと枕の上に横たわっていた。
全てが終わっていたのだ。
全身麻酔の威力がここまですさまじいとは思わなかった。
でもこの日はその余波を受け一日中眠かった。
食事が配られても「ありがとう」と言った直後に寝ていたし、もう食べ終わったと思って食器を下げに来たときに目覚めて「は、今食べます!」と体を動かしたところで再びお眠り。
三度目に「いいかげんに食べなさい!」と怒られやっと口をつけることとなった。
でもあんまり美味いものではなく食欲も無いので、ほとんど無理矢理口に押し込んでいたようなものだ。
とにかく一日中眠くて食事以外はひたすら眠っていた。
2004年1月7日水曜日
第7話 本番
さっきの部屋に戻り顔面の裂傷部を縫う手術をした。
チクチクチクと、まあ手際よく顔の手術は終了。
さていよいよ足の方かな、と思ったら私がさっき夕食を食べたばかりだというのでしばらく待つことになってしまった。
仕方ないのでその先生相手に今までの旅のバカ話をしたところゲラゲラウケてくれたのはよかったのだけどこっちは顔も足もグチャグチャの状態なのでつらいところ。
ネタも尽きかけたところでやっと
「それではそろそろオペします、フニャララ」
とまた流暢な英語で説明された。
相変わらず理解できてないけど、彼に任せておけば大丈夫だろう。
でもいちおう最後に彼に言っておいた。
「Don't cut my left leg!」
明るい手術室に入るとすぐ顔前に「シュー!」と音を立てるガスマスクのようなものが近づけられた。
「これは眠るためのもの?」
「Yes」
「それじゃ、おやすみなさい」
そう言ってこの気体を胸一杯吸い込んだ。
うおー!すごくいい気持ち!
体中の痛みがスゥーと消え、まさに天にも昇る気持ち!
どんな麻薬もこれにはかなわないだろう!
こりゃいっぱい吸っとかなきゃ損だ!
と二口目を吸いこんでいる最中、私の意識は百億万光年遥か彼方に飛んでいった。
第6話 開始
担架(キャスター付)に乗せられ救急口から中に入り病院の廊下を駆け足で進んでゆく。
流れゆく天井を見ながら「ううむ、テレビドラマみたいだな」と思った。
しかしドラマと違うのは、勢いよすぎて曲り角で壁にぶつかったり押し戸の部屋に入ろうとしたが扉に鍵がかかっていて激突したりすること。
そのたびに担架の上でのたうちわまる私であった。
とりあえず検査室のようなところに入り応急処置が施された。
落ち着いた雰囲気の先生が来て、落ち着いた感じで英語で説明された。
でも専門用語が多く私の達者な理解力を持ってしてもあまり理解できず、とりあえず
「ウンウン、サインですね、ハイしましたよ、もうさっさと麻酔でもしてこの痛みから開放してくださいな」
と投げやりにはなってないがとにかく何かしてもらいたかった。
担架は再びテレビドラマ風にX線室に向かい何ヶ所か写真を撮った。
そこの係の兄ちゃんが涙が出るほど不親切で、こっちの体がボロボロなの知ってるくせに
「さあこっちの台に移って!」
「もっと横だよ!」
「ハイひっくり返って!」
「もっと下へもっと下へ!」
とやたらうるさい。
少しは優しくしてもらいたいもんだ。
2004年1月6日火曜日
第5話 再輸送
揺れる車の中で私は思っていた。
たった1000円くらいの宿代をケチったためにこのような惨事になってしまったのだ。
こんなバカ者はざらにはいないだろう。
事故を引き起こした無謀なナイトランの判断を下してしまった自分をひどく呪った。
直接の原因である、あの飛び出してきた車に対する怒りは不思議と無かった。
とにかく自分に腹を立てた。
自分をののしった。
自分を呪った。
救急車は舗装状態のよくない道を結構なスピードで進んでゆく。
だから時々跳ねたりして足へショックはかなりのもの。
途中数回止まり看護婦さんが私の様子を見に来てくれる。
この時足にはエアバッグのようなものが巻きつけられており圧迫しちゃいけないという配慮で1回おきに空気を出し入れしてくれるのだが、この人らの肺活量はかなり少ないらしく空気を一杯にしても圧迫どころかあんまりショック吸収すらしてくれない。
毎日エアマットを膨らませている私の強靭な肺をお貸ししたいくらいだったがそうもいかず歯がゆい。
空気を入れた時ですらそうなのだから抜いたときはもうひどいもんだ。
車がゴトンとなると足に激痛が。
何回目かの停車でもう我慢ならず、空気は抜かないでくれ!と頼もうとしたとき、目的の町に到着したのだった。
2004年1月5日月曜日
第4話 初診
担架に乗せられ広い部屋の中央に置かれた。
医者が来ていろいろ聞いてきた。
彼は私が頭を打っていることを心配していたようで、ひたすら「黙るな!話し続けろ!」と言う。
仕方ないので「エジプトからヨルダンシリアと自転車で・・・」とお決まりのトルコ語を披露した。
もちろんそんなの誰も聞いておらず、みんなドタバタドタバタ部屋を出入りしている。
そして大概の人が私の左足を見て「こりゃヒドイ!」みたいなことを言うので、これは相当なことになっているのかとドクターに聞いてみた。
「私の体には何が起こったんですか?」
「君の左足はブロークンしている。」
やっぱりか・・・
それにしてもどんなひどい状況になっているんだろう?
私は痛む体を無理に起こし自分の左足をその時始めて見てみた。
メガネは吹っ飛んでしまって無い。
右目は全然見えない。
そんな劣悪な視界状況の中でも私にははっきり見えた。
左足ふくらはぎの皮膚を突き破って中から赤黒い物体が飛び出しているのを・・・
結局その病院でやったことは左足に水をジャバジャバかけ顔を少し拭いたくらいで、これ以上は手におえましぇ〜〜んって感じでドクターから「君を大きな町の病院に輸送する」と告げられた。
そうだろう、その方がいいよ。こんなちっぽけな病院じゃ「こりゃ直せないからちょん切っちゃった方がいいな」ってなりかねないもんね。
私の体は今度は救急車に乗せられ大きな町に向かった。
ここからそこまでは山道を70km行かねばならない。
2004年1月4日日曜日
第3話 緊急輸送
車は近くの町に向かっていた。
軽い振動を体に受けながら自分の体について何がどんな状態なのか判断していた。
この時点で一番ひどいことになっているだろうと思われたのは顔面の右半分。
特に右眼球である。
左目を隠して右目だけで見てみると視界の中心部が全く見えない。
右目が失明という事態は想定せねばならないな、と思った。
口の中は大丈夫そうだ。
歯も揃っている。
両腕、指の関節を動かしてみる。
全て問題無し。
同様に右足も問題無し。
なんだ、意外と平気じゃないか。
ただ一つだけ気がかりなことがあった。
左足のふくらはぎに強い痛みと腫れを感じ始めていたことだった。
これはもしかしたら骨折しているかもしれないな、そうなったら入院も長くなり、ちょっとやっかいだな。
なんて思っているうち町の病院に到着した。
第2話 そしてそれは起こった
辺りはますます暗くなり道はどんどん細くなる。
そのうち町の終わりを印す看板も見え街灯も無くなった。
しかし交通量もそれほどではなく追い風なので頑張ればそのうちスタンドもあるだろう、それにもし見つからなくてもその辺の道端で寝ればいいや。
明日でトルコともお別れなのに最後に辛いことになっちゃったなあ・・・なんてことを考えながら先を急いでいた。
そんな時である。
前方から数台の車の照らすヘッドライトが見えた。
そして後方からも一台の車が来る。
このままだと逃げ場を失ってしまう!
横へそれねば危ない!
そう思った直後、横を通りすぎる車の列から一台の車が対向車線に飛び出してきた。
アッ!と思う暇はあったのだろうか?
その次には私の体は無残な形で道に転がっていた。
ヘッドライトの強烈な光と人々の声が聞こえる。
「ヤバンジュ(外人)!ヤバンジュ!」
それ以外にもワイワイ聞こえたがそれだけが聞き取れる単語だった。
どっかのおばさんだろう、ライトに照らされた私の顔を見て「ヒャッ!!」と悲鳴を上げていた。
自分でも感じていた。
生ぬるい液体が顔を滴り落ちるのを。
そして私のくしゃけた体は何人かに担ぎ上げられバンの荷台に押し込まれた。
2004年1月3日土曜日
第1話 それは涙で始まった
時は1997年9月4日。
当時私は大学一年間の休学中で地中海一周の自転車旅をしていた。
エジプトからトルコまで走り、そのトルコ生活も3ヶ月に近づいた。
そろそろ次国ギリシャに入るべく、エーゲ海沿いを行き明日国際フェリーに乗り、いよいよトルコともお別れになる予定になっていた。
トルコではほとんどがガソリンスタンドで泊めてもらい、それがよい出会いを生み、一番の思い出となっていた。
これがトルコ最後の夜なのだから、やっぱりこのパターンで締めたかった。
町はあったのだがここはリゾート地帯。
きっとホテル代も高いだろう。
まあちょっと走ればすぐスタンドもあるはずさ。
そこならまた新しい出会い、感動があるに違いない。
よし出発だ!
・・・と既に薄暗くなりかけた道に向かって私は走り出した。
その時、当然私は何も知らない。
その後何が起こるかについて。
それが出会いや感動ではなく、
今まで感じたことのない世界、
悪夢のような事態であることなど・・・