今年の夏ごろから、どうやってこの旅を締めくくろうか考えるようになった。
3度目のラサへ向かうことは決めていたので、東からのラサ入り(川蔵北路・南路)と西から(新蔵公路)、そしてネパールへ抜ける道(中尼公路)をすべて通ったことになり(北からの青蔵公路は全線舗装なので除外)、チベットの旅もこれで一区切りかな、あとは新しく出来た鉄道にでも乗って上海から日本に帰ろうかな、と考えていた。
しかし4年以上に及ぶ旅の最後が鉄道ではなんとも締まりがないなあ、と思っていたところへ、天の声が下った。(8つ前の「4年振りのチベットの恩返し」をご覧下さい)
そうだ!ダラムサラへ行ってダライラマに会おう!これだけチベットに惚れ込んだんだから最後の締めくくりとしてこれ以上の場所はない!!
・・・という訳で3たびインドへ向かうことに決めたとさ。
2006年12月14日木曜日
西南西に進路を取れ!
2006年12月3日日曜日
ラサ観光都市化計画
今年のラサは鉄道開通、内外の観光客ワンサカいらっしゃいませ、に向けて都市改造したところが随所に見られる。
特にポタラ宮周辺は激変。まず正面の広場に「平和的開放記念塔」なる巨大な塔が建てられた。
チベットが『平和』的開放なら、南京にも虐殺博物館なんかじゃなくて「日本軍入城熱烈歓迎記念塔」でも建ててもらいたいものである。
その広場は夜になるとライトアップされるのだが、池や橋につけられた紫やピンクのライトがチカチカ(ゲスに)輝いてまあきれい!
極めつけは池の周りにグルリと「卍」のマークのライト。
「中国では信仰の自由が守られています」アピールのつもり??
ちなみに五体投地していい場所というのが決まっていて、それ以外の場所ですると逮捕されてしまうとかしないとか。(未確認情報)
ポタラ宮の周りにも巡礼路があって、以前は一休みのためのチベタン茶舘や露店がズラリと並んで賑やかだったのだが、今は全て撤去されてしまって植木遊歩道になっていた。
してそこかしこにスピーカーがあってチベット語で歌われている中国の流行歌が(ゲスに)ガーガーピーピー流されていてまあいい雰囲気!
「中国では言語の自由が守られています」アピールのつもり??
もしダライラマ法王が50数年ぶりにラサ帰還!成ったとしても、この変貌振りを見たら「インドの方がマシじゃ」と帰っちゃうかもしれない。
2006年11月16日木曜日
昨日の敵は…
とあるチベットの小さな町で子供らと遊んでいた。
一緒に家へ戻るとその子供らが母親に「日本人って悪い奴だと思っていたけど、この人はいい人みたいだよ」と話している。
いい人、と言われたことは嬉しいけれど、やはりフクザツな気分。
しかしこの子がこういう感想を持つのも致し方ない。
テレビをつければ24時間必ずどこかのチャンネルで反日番組やっているし、学校では低学年の教科書に「日本鬼子(日本人に対する蔑称)」の文字が堂々と出ている。
こういった徹底的な対日感情悪化洗脳政策にあっては、純粋な子供らが何の疑いもなくそう信じてしまって当然だろう。
しかしここはチベット。
君らの本当の敵はもっと最近の、もっと身近にいるんだよ、ということを誰かが語り伝えねば、やがてその歴史は風化し忘れ去られ、別の歴史にすりかえられてしまう…。
チベットの将来を担う子供たちが今こんな状態にあるとダライラマ先生が知ったらさぞ嘆き悲しむことだろう。
ダイエット中
風邪気味だったその日は朝からあまり食欲がなかった。
あるキツイ峠を越えようとしていた時、未だかつて経験したこともないような強烈なハンガーノックに見舞われた。
自転車から下りて押すどころか立っていることさえできず、そのままその場に倒れこんでしまった。
しばらく休めば復活するかも、と2時間くらい道端で寝転んでいたが、まったくその兆しなし。
その時フト思い出した。
以前にバスに乗った日本人のツアーグループに会い「これでも食べて」と日本の飴をいくらかもらっていたのだった。
そうだ、それを食べて気合を入れなおして頑張ろう!
はいつくばりながらバッグからその飴を取り出したところでガクゼン。
その袋に記されていた文字は…
「シュガーレス」「カロリーゼロ」
ちなみに7月に再始動して10月にラサにたどり着く間に失った体重は13.7kg。
2006年11月5日日曜日
御用だ!!
今回でチベット滞在都合9ヶ月。
ずっと許可証なしの非合法旅行をしてきたのだが(自ら出頭したアリは除く)、ついに今回公安に捕まってしまった。
場所は東チベット非開放の町、昌都。
鉄道開通したせいか、間もなくチベット入域許可が必要なくなる、という噂が外国人旅行者間を駆け巡った。
実際雲南省方面からのラサ行きローカルバスは中国人料金で外国人も乗れるようになり、道中数ヶ所あるチェックポストはゲート開きっ放しで見張りは居らず、こりゃいよいよ本当か?!とまったく何の警戒もなくその町の宿に泊まっていたのだ。
して滞在4日目の深夜2時…。
突然ドアを激しくノックする音で飛び起きた。
強制的に鍵を開けられ中に入ってきたのはMP含む公安5人。
「身分証を見せろ!」どうやら違法外国人旅行者狩りではなく、安宿に潜む不穏分子チェックのようで「なんだ、外人か」とさっさと帰ってしまった。
そこで機転の利く者ならその後に起こりうる事態に備え素早く手を打つところだろうが、何しろ真夜中で公安に対してもナメ切って考えていたので、のん気に二度寝に入ってしまった自分が今となっては恨めしい。
して数時間後の朝8時、またしても激しいノックの音。
入ってきたのは紛れもなく中華人民共和国公安部外事課の男。
「この町は非開放だ。パスポートをよこせ。そして今すぐ署へ同行してもらう。」
万時休す。
パトカーに乗せられ、向かった署内でアーだコーだ説教され、有無を言わさず罰金400元(6000円)の刑。これだけで済めばまだよかった。
何しろ法律を犯しているのは明らかなのだから。
しかし外国人、特にサイクリストや徒歩旅行者が最も恐れているのは「追放」。
ここまで何日もかけて必死に頑張ってきたのを全て無にしてしまう恐怖の宣告。
まさにそれを受けてしまった。
「即刻バスターミナルへ行き、即刻チケットを買い、即刻雲南行きのバスに乗り、即刻チベットから出て行け。」
親切な公安さんはパトカーに乗って一緒にバス停まで行ってくれ、国家権力を利用し窓口前の行列に横入りし、240元(3600円)のチケットを買わされた。
合計一万円の大出費、それ以上に「追放」という処分の重さのショックに倒れそうになっていた。
しかししかし。
やはり毎日あのまずいツァンパを食べ続けるような信心深さが天を我に味方させた。
その日のバスはすでに満席で明日のしかない、と言われたのだ。
悔しそうな公安は窓口の女に「もしこいつが払い戻しに来ても取り合わないように」と言い残し去っていった。
去ってゆく公安の背中は心なしか寂しそうだった…なんて気にするはずもなく、すぐさまダッシュで宿へ戻り荷物をまとめてチェックアウト。
そして一路西へ、逃げろや逃げろ。
しばらくは後方からの車が逃走した私を追ってきた公安ではないかとビクビクしていたが、十数kmも離れればもはや堕落した公安が追ってくるはずもない安全地帯。
いやはや、とんだ捕り物劇かな。
グレートジャーニー
地方のチベタンは農閑期に入るとラサへの巡礼の旅に出る。
ある者は家族と、ある者は友人と、またある者は村総出で。
行き方も、飛行機で、ランクルで、バスで、トラックの荷台に乗って、トラクターで、歩いて、など様々。中でも、最もチベットらしく、最も皆から尊敬されるのが、五体投地で尺取虫のように少しずつ進んでゆく巡礼だ。
彼らの方法は、五体投地部隊と荷運び部隊に分かれ(役は日替わり)、荷運び部隊は大八車、トラクターなどに生活用品全てを積み込み先行し、水のあるところでテントを立て、牛の乾燥ウンコ(焚き火の燃料となる)を集め火をおこし、茶を沸かし食事を作って後続の巡礼部隊を待つ。
そう分業しても五体投地前進は絶望的に遅いので一日に移動できるのはせいぜい10km。
ほとんどのグループは、ラサまで半年近くかかると言っていて、その長さに唖然とさせられたものだが、さらにその上をゆく物がいた。
それは「一人」五体投地巡礼。
17歳の少年僧が行っていたそれは一人なので全ての作業を自分で行わねばならない。
まず荷の積まれた大八車を100m引っ張る。
そこに車を置いてさっきの所まで戻って五体投地を開始し100m前進。
また大八車を100m引っ張って…をひたすら繰り返す。
もちろん水汲み・テント立て・食事作りも自分でやらねばならない。
食料がなくなれば托鉢も行わなければならない。
そのため団体巡礼者に比べ一日に移動に費やせる時間もはるかに少なくて、丸一日使って移動できる距離は平均で4km、上り坂だと3kmくらいしか進めない…。
赤ちゃんのハイハイより遅いのでは??
出発してからすでに一年少し経った、と言っていたが、彼の田舎からラサまでは約2500km。
平均4km/日で二年弱かかる訳だ…。
エベレストに登ることが冒険でもなんでもなくなった現在、身の回りの者以外特に認められることもなく、世に知られることもなく、チベットの山奥でひっそりとこんなハードな冒険をしている者がいたとは!!
彼から「自転車だと一日どのくらい進めるの?」と聞かれ答えるのが恥ずかしかった。
「地球一周一人五体投地!」
これを成し遂げれば冒険史に残る大偉業になること間違いなし!!
しかし一日4km進むとしても地球一周4万kmにかかるのは約30年…。
やっぱり無理か。
(写真:一人五体投チャー。さすがにもうラサに着いたか?)
魔法の食べ物
食べても食べても減らない不思議な食べ物ってなーんだ?
3.2.1.ブー。
答えは「ツァンパ」。
今回バアちゃんの家に居候したのは2週間。
何でそんなに長くいたのかというと、ちょうどその時ツァンパの原料となる大麦の収穫の時期でそれを手伝っていたから。
出発の時には餞別としてサイドバッグ一つが丸々いっぱいになるほどの大量のツァンパ(推定5kg)、バター、チーズ、ヨーグルトを頂いてしまった。
あまりの多さに困惑したが、せっかくの頂き物を粗末にすることなどできるはずもなく、その後は朝昼晩、約1ヶ月間ひたすらツァンパを食べてひたすら荷物減量に努める。
道中道端で休んでいる巡礼者などに呼ばれ「ツァンパ食うか?」と言われた時も「自分のがあるから」と自分のを出してお茶だけ頂く。
そうしてあれだけあったツァンパも徐々に減っていった。
が、泊めてもらったり、一緒に野営したりしたお礼にラマの写真を渡すと、さらにそのお返しに「せめてツァンパでも持っていってくれ」とまたドサッと増えてしまうこと3回。
結局ラサに到着した今でもサイドバッグ一つは丸々ツァンパの入ったまま…。
ラサに居てまでも朝食はツァンパ食ってます。
こりゃあと数ヶ月はもちそうだ…。
とあるチベタン曰く「大麦は種さえまいておけば勝手に成長するのでタダみたいなもんだ」(もちろん畑の準備・収穫などは大変な作業だけど)
2006年11月3日金曜日
ツインズ
中国で施行されている一人っ子政策は誰も彼もが子供一人だけ、という訳じゃなくて、省ごとにいろいろ細かいところで違いがあって、漢族以外の少数民族はおおむね2人までは認められているようだ。
チベタンも2人。
しかしそのバアちゃんちには子供が4人もいる。
一番上(女17歳)は在家の尼さん。
2番目(女13歳)は小学生。
しかし3番目(女8歳)は学校には行っておらず、放牧担当で朝早くから牛羊を追って草原へ行き、夕方それらを連れて家へ戻ってくる。
ああ、やっぱり3人目じゃ多額の罰金を払わされるので出生登録しないで戸籍のない子供となってしまい学校には行けないんだな…と思っていた。
しかしある日その家庭の戸籍手帳を見せてもらってビックリ。
なんと3番目の子もしっかり戸籍があるじゃないか。
さらにその中身をよく見てみて2度ビックリ。
なんと2番目と3番目の子の誕生日が同じ日になっている!!
その2人は5年の年齢差があり誰が見てもとても双子とは思えないのだが、こんな裏ワザがあったとは…。
登記された誕生日は上の子の日になっていたので3番目が生まれたときに局で「ゴメン、そういやうちの子双子だったんだけど一人申請するの忘れちゃってさあ」とでもやったのだろうか?!
しかし残念ながら4番目(男3歳)の戸籍はなし。
しかも現在母さんは妊娠中…。
やっぱり「ゴメン、そういやうちの子4ツ子だったんだけどさあ」ってやるのかな?
(写真:左から長男・三女・次女)
4年振りのチベットの恩返し
(まずは「チベットの恩返しその2 母の想い」をご覧ください)
オレはあの村へ戻ってきた。
あの老婆のいるあの家へ。
この4年間、ただ気がかりだったのは67歳だったあの老婆が既に天に召されてしまっているのではないか、ということだった。
しかしそれは杞憂に終わった。
しっかり健在だった老婆は、突然現れたオレを温かく迎えてくれ、あの時と同じようにバター茶を振舞ってくれた。
まずは4年前のお礼に、これまでバッグの奥深くに大切に隠し持ってきたダライラマの写真をドサッと渡した。
目を丸くして驚く姿を期待したのだが、返ってきた言葉は逆にオレの目を丸くさせた。
「アンタもダラムサラへ行ったのかい?」
4年前は確かに「もう老いてしまってラサにも行けない」と言っていたはずなのに?!
聞けば去年子供たち(10人)がお金を出し合ってインド巡礼ツアーに招待したのだそうな(亡命ではなくてもちろん合法ルート)。
しかも夏…。
そしてさらにその後カイラス巡礼にも行き、カイラスコルラを五周(一周52km、最高5630m)、マナサロワール湖を一周したんだそうな。
オレが正直に「カイラスは行ったが一周だけでヘバッて、湖は見ただけ、インドは何回も行ってるけどダライラマに会ったことはない」と言うと「若いもんがダメだねえ。もしまたインドに行くなら絶対ラマに会いに行きなさい」とお説教されてしまった。
この調子ならこのバアちゃん、100歳までは大丈夫そうだ…。
A列車で行こう!
青蔵鉄道が開通し1ヶ月ほどして「既に線路の沈下が起こっている」と耳を疑うような話を聞いた。
「標高4000mの高原の永久凍土の上に鉄道を敷くという難工事を、偉大なる中華人民共和国の土木建築技術を結集して成し遂げた世紀の大事業」と謳っていたのに?!
今回通ってきた道のうち、ラサ手前約300kmは鉄道と併走する。
白く雪の被った山々をバックに3輌の気動車が16輌の客車を引っ張って進んでゆく姿はまさに圧巻。
しかしふと下を見るとアチコチの橋げたを補修工事している…。
やはりその噂は真実?!
しかも橋は無数に架かっている。
チベット独立要求過激派の爆破ターゲットとしては格好の対象ではないか!
やはり世界中にアピールできる北京オリンピックあたりが狙い目か?!
鉄道ファンの皆さん、青蔵鉄道ご乗車はできるだけ早目をお勧めします。
僕らのアイドル
ダライ・ラマ14世。
チベット仏教界において政治面・信仰面、両面においての最高権力者。
1989年にはノーベル平和賞も受賞し、世界にも認められる大人物であるが、残念ながら中国にとっては「偉大なる中華人民共和国分裂をもくろむ第一級政治犯」的人物。
そのため国内ではダライ関連のニュースは一切流れず、インターネットでも規制に遮られ閲覧不可能。
写真なども手に入れることができない。
外国人が国外から持ち込み、チベタンに渡すのも法律に引っかかってしまう。
……と知りつつ持ち込んでしまいました、150枚。
もちろん闇で売りさばいて一儲け!なんてするわけはなく、お世話になったチベタンへの御礼にするつもりで。
道中、泊めてくれた一家、ツァンパ・バター茶を振舞ってくれた農民、つらい巡礼の最中声をかけてくれ一緒に野営した巡礼者、などなど。
「どうぞこれを」と差し出すと、まるで長年恋焦がれた人についに巡り合ったかのように一様に目を丸くしてそして頭にかざします。
肉体はチベット本土から遠く離れたところへ行ってしまったけれど、彼の精神はしっかりと皆の心の中に留まっているようです。
ある一人の巡礼者が言いました。
「私たちは辛い巡礼中、苦しくなると彼のことを頭に思い浮かべるのです。」
2006年10月31日火曜日
ラサに着きました
2002年秋、2004年夏に続いて3度目のラサに着きました。
今回は雲南省から入って、東側からラサに向かう2本ある道の北側(川蔵北路)を通ってのラサ入りです。
チベット人からも「その道は寒いし、道も悪いから止めとけ」と言われるくらい寒いことで有名な地帯でしたが、その通りほぼ毎日雪が降り、早朝は零下20℃近くまで下がり、越えた4000m以上の峠は15個、とハードな旅になりました。
しかし親切な農民・遊牧民・巡礼チベタンに助けられ、楽しくここまで来れました。
今年7月にラサへ通じる鉄道が開通し、ラサは確実に大観光都市へと変化してしまいましたが、知り合いの人たちに温かく迎え入れてもらい疲れも吹っ飛んでしまいます。
ラサは、そしてチベットはこの先どこへ向かっていくのでしょう?
2006年8月26日土曜日
チベットに来ました
現在雲南省の北の端(標高3200m)にいます。
ここは行政上は雲南省ですが、すでに完全にチベット文化圏です。
草原が広がり、ヤクが放牧され、チベット民族衣装を着た人が農作業をしています。
ここからは川蔵北路を通ってラサへ向かいます。
そして再び隠密行動開始なのでしばらくは連絡おあずけとなります。
それではごきげんよう!
2006年8月15日火曜日
自転車王国
4年前初めて中国を訪れた時、観光地にいる中国人観光客がみな高級一眼レフカメラやビデオカメラなどをもっているのに驚いたものだが(今思えば彼らは公務員で公費使い込みの可能性大)、今ではそれらが全てデジタル化し、私のカメラを見て「おや?お前のカメラには液晶がついてないのか?」とバカにされてしまう始末。
まあそれはさておき、国内団体旅行→個人旅行→若者バックパッカー旅行という変化とともに、長期自転車旅行というのもまだまだ少ないながら確実に広まっているようだ。
4年前にはほとんど見かけることはなかったが、今年はそこかしこで中国人サイクリストに出会う。
しかも乗っている自転車が日本で買えば20万円以上しそうなShimanoXTRフル装備の高級車だったりして…。
すごいのは自転車だけじゃなくて、1000mアップの峠が連続する平地のない貴州省を毎日200km走ってきたというレーサー車に乗る65歳とか、青海→チベット→雲南の大高原地帯5000kmを3ヶ月で走ってきた60歳とか、カシュガルからチベット高原完全横断してきたカップルとか、やってることも超難度。
さすが自転車王国、ツール・ド・フランスを中国人が中国製人民号で制する日もそう遠くないとみた!
2006年8月5日土曜日
抗日戦争大勝利記念日
「ああ言えば上祐」の中に書いた「日中戦争で5000万人の中国人が殺されたために…」というのがもし仮に真実だったとした場合、10数年の期間でこれだけの人を殺すためには一日に大体一万人殺さねばならぬ計算になる。
一発一発手動で装填する三八式歩兵銃でこんなにも殺すにはメシ抜きで頑張ってもちょっと無理なような…。
もしかすると旧日本軍には歴史の闇に葬られた秘密特殊部隊が存在し、とっくに核開発を終えていたのかも。
「少年」とか「肥満男性」とか名付けられた新型爆弾を中国各地で250発くらいピカドンピカドン。
そういうことなら日本(の一部)の言う「南京大虐殺などなかった」という主張と、中国の言う「南京で30万人が殺された」という主張の矛盾が矛盾でなくなる。
それにしてもなぜ中国でそんな華々しい戦果をあげられる戦力を持ちながらインパール作戦では出し惜しみしたのだろう?
もったいないことだ。
まもなく8月15日。
果たして小泉さんは靖国神社に参拝するのだろうか?
するとまた鬼の首をとったかのように中国人にいろいろ議論を吹っ掛けられるんだよなあ。
いやだなあ。
四年大昔
自分でも忘れつつあったが、今回の中国再訪の最大の目的は以前お世話になった人々を訪ね歩くことにあった。
が、3年ぶりに訪れた中国の町は変化が大きく、居なくなって会えない人が多い、というのは去年の今頃書いた。
そしてさらに一年が過ぎた現在。
再訪する町する町、こんなに大きなところだったかなあ?というくらい横へ横へと拡張され、ボロ宿ボロ食堂などはきれいサッパリ取り壊され巨大なビルに変わっていた。
再会成ったのは開発から取り残されたような途中の小さな村の人くらい。
おかげでここまでの再会率は20%を割ってしまった。
あの時笑顔で見送ってくれたあの人たちはいったい今どこで何をしているのだろう…?
点灯虫
中国の建物の廊下や階段などには音感知式の電灯があって、パタパタと足音高らかに歩いてゆくとパッと点灯ししばらくして消える。
とある安宿に泊まっていた時のこと。
その建物は建築費をケチったか部屋の壁の上方が開いていて隣の部屋や廊下と筒抜けだった。
そして草木も眠る丑三つ時…。
どうやらここは夜のお仕事をするお姉様方の職場でもあったようで、私の隣の部屋へ男を連れて入ってきた。
一応声をひそめてはいるものの、安レンガの壁で上が開いているので声も音も筒抜け。
あんなことやそんなことをしている様子が手に取るようにわかってしまう。
いやはやタダでこんなに聞かせてもらってラッキ、じゃなかった、うるさくて眠れやしないじゃないか全く!
そしていい汗かいて二人は出てゆき、やっとこれで安眠…と思ったとたん、一階のロビーでそのお姉様がなにやらママさんに訴えている。
理由はさっぱりわからないのだが、絶叫・怒号・号泣。
ウギャギャギャー!ビェー!ビェー!ウギャギャギャギャー!ビェー!ビェー!
そのあまりの声の大きさに三階の廊下のセンサーまでがいちいち反応してしまいパカパカ点灯。
それが約2時間くらい続いたところで泣き疲れたかやっと静かになった。
もう今日は寝坊でいいや…と思ってしばらく、そこはバスターミナルの近くであったため、始発を知らせるバスのクラクションがブー!ブー!ブー!またその音で電気がパカパカ…。
このスリルと興奮こそが安宿の醍醐味。
2006年7月12日水曜日
今は山中 今は浜
7月1日、チベット高原北部を縦断しラサへ到達する青蔵鉄道が開通した。
当日はテレビでは朝から晩まで特番が組まれていて、式典の様子、一番列車の発車、こんな難工事をやり遂げた中国は偉大です、これでチベットの経済も飛躍的に発展しチベット人も大喜びです、的報道をひっきりなしにやっていた。
確かにこれは偉大な難工事だったろうし、経済も少しは発展するだろうが、2年前ラサを訪れたときに知り合いのチベット人にこの件を尋ねたところ「きっと中国人がもっとたくさんやってきて私たちの住む所が無くなっちゃうかも…とっても心配している」と言っていた。
私の聞いたのは3人だけなのでもしかしたらその他の599万9997人のチベタンは鉄道大歓迎しているのかもしれないが、やっぱりきっとしてないとみた。
実際、この鉄道の目的はチベットで産出される鉱物の輸送(←これはテレビでも言っていた)とインドとの有事の際の軍隊の輸送(←これは私の勝手な予想)にあると思われ、チベット人のことなんかハナっから考えてもいないだろう。
以前新疆カシュガルのウイグル人が「鉄道が開通してから中国人がどっと押し寄せ我々の町をメチャメチャにしてしまった」と怒っていた。
結局のところ、中国政府がチベットやウイグルにしている政策は、大日本帝国が中国の地に勝手に満州国を作って富を貪った行為となんら変わりないのだ!
…と知ったような口を利いてしまいましたが、小難しい政治的思想的なことは抜きにして、4000m以上の高原をひた走る列車に一度揺られてみたいなー。
「世界の車窓から」もビックリな雄大な風景が見られること間違いなしだろうしね!
2006年6月26日月曜日
世界杯開催中!
今回のW杯には中国は出場していないにもかかわらず、テレビでは全試合完全生中継を含め朝から晩まで24時間、足球、足球、足球。
それは大変よろしいのだが、ただ一つ不満なのは試合終了のホイッスルが鳴って30秒くらいで「ご視聴ありがとうございました。再見」とスタジオに返してしまうこと(これは先のオリンピックのときもそうだった)。
自分としては勝って喜びに沸く姿、負けてうなだれる姿など、悲喜こもごもの様子を試合の興奮の余韻に浸りながら見てみたいと思うのだが…。
映画館でもそうで、最後のクライマックスシーンが終わると、エンディングシーンを見ることもなく観客は一斉に帰り始め、スタッフロールが始まるころには客席には私一人、何てこともしばしば。
傑作だったのは「キングコング」を見た時。
島でコングが生け捕りにされたところ(全体の中間点)をラストシーンと勘違いした観客らがその後のニューヨークシーン(1時間くらいある)を見ずしてドワーっと帰ってしまったこと。
君らそんな1分2分を争って早く帰らねばならないほど時間に追われる生活してるわけじゃなかろうに…、と言いたいところだが、この現象は中国に限らずアジア・中東・アフリカ諸国で映画見たときも同じで、もしかしてスタッフロールを最後まで見るような奇特なヒマ人は日本だけ?!と心配になってきた。
ヨーロッパとかアメリカとかではどうなんだろう?
誰かそちらで映画見た経験のある方、教えて下さい。
2006年6月20日火曜日
ああ言えば上祐
中国人と話していて日中関係のこじれについての話題が出たとき、以前は無条件で「私ら日本人が悪うございました、すみません」と謝って済ませていたのだが、最近は謝るばっかが能じゃなくてやっぱり言いたいことは言うべきだな、と考えを改め反論、というか話題すり替え・問題はぐらかし作戦をするようにしている。
こんな風に…
・南京大虐殺についてあやまれ、の話題が出た時……確かに日本人は謝罪すべきだ。しかし中国も元寇の時対馬で大虐殺を行っている。我々は750年近く待っているが未だ中国政府は謝罪していない。謝るのはそっちが先だ。そもそも中国の歴史教育では南京についてはこれでもかと教えるのに、自分らの行った虐殺についてはほとんど言及していない。不公平な教育方針だ…と話題を逸らせてゆく。
・南京大虐殺で30万人(中国発表)も殺すなんて、の話題が出た時……天安門事件の死者数は諸外国メディア発表が1万人なのに対し、中国政府発表は5人(第一回の報告)。つまり中国政府は2000倍のサバを読む可能性がある。おそらく南京でも30万人ではなく実際は150人程度だろう。その程度の死者なら戦争じゃなくても当時の南京なら自然に発生してるよ。そもそも政府発表の数字をそのまま鵜呑みにする方がおかしい…と話題を逸らせてゆく。
・靖国神社参拝の話題が出た時……靖国には確かに戦犯も祭られているが何百万人という一般兵も祭られているのだ。首相が参拝するのは当然だ。それなのに中国のニュースでは首相が戦争犯罪者を英雄視している、そればかり。中国のニュースの内容なんてごく一段面からしか見ていないウソっぱちだ…と話題を逸らせてゆく。
・中国の偉い誰かさんが言った「日中戦争で5000万人が殺されたために中国の発展は50年遅れた」の話題が出た時……もしかしたらそれは事実かもしれない。ならば文化大革命と共産党一党独裁のために中国の発展は1000年遅れたね。もし毛沢東がいなけりゃ今頃中国は宇宙を支配し、タイムマシンも光速ロケットも発明していただろうね…と話題を逸らせてゆく。
・尖閣諸島の話題が出た時……うむ、もしかしたらあそこは日本の領土じゃないかもしれない。その時は諦めて放棄するが、その時は台湾に返すよ。そもそも台湾は中国の一部、なんて思っているのは世界中で中国人だけ。もし台湾に行ったら本屋で世界地図を見てみな。そこには「中華人民共和国」なんて国はどこにもないんだぜ…と話題を逸らせてゆく。
・歴史教科書の話題が出た時……もし教科書に「進出」と記してあったところであの行為が「侵略」であったことくらい日本人の誰もが理解している。帝国主義は許されない、批判されて当然だ。しかしその帝国主義を批判し続けている中国が、チベットに対して行った行為(派兵・破壊・虐殺・強制労働・言語統制)こそ帝国主義そのものではないか?まもなくチベットに鉄道が開通するがこれを歓迎するチベット人など皆無であることを知れ!…と話題を逸らせてゆく。
…などなど。これによって相手を黙らせることができるか、火に油を注ぐことになるかはあなたの話術次第!
しかしなあ、731部隊についてはだけは逃げ道が全く見つからないんだよなあ。
ありゃやっぱり日本人が悪いわ。
日本政府は即刻中国人に謝罪すべし。
(写真:中国によって破壊されたチベット寺)
2006年6月17日土曜日
無題
前々項にて腐敗はイカン!との内容を記したが、社会主義国である中国においては、あくまで主役は政府であり、民衆はその引き立て役。そこが我々の民主主義国とは根本的に違う。
だからその国の人がその制度をフルに利用し利益や幸福を手にしようとするのはその国に生まれてしまった人々の一つの知恵であって、一概に非難もできないのでは、と思う(もちろん汚職を肯定しているわけではない)。
というのは、ある公務員から「日本人が中国を旅行するのは簡単だが、中国人が日本を旅行することは大変難しい。日本人はちょっと働くだけであなたのような長い旅ができるが、我々には絶対不可能だ。不公平だ!」と言われたこと(腐敗者に言われたくはなかったが)。
確かに私は日本という経済的に恵まれた国にタマタマ生まれたおかげで、他国(特に貧乏国)との経済格差を利用することによって今のような旅ができている訳で、不公平だ!といわれると返す言葉がない。
(本当は、1945年(抗日戦争勝利)とか1989年(天安門事件)とか豊かになれるチャンスは幾度となくあったのにそれを全部お上が潰した。君らの貧困の原因は全て「一党独裁」にあるのだ!という返す言葉があるのだが、ちょっと危険思想なのでまだ言ったことがない)
つまるところ何が言いたいかというと、私の旅というのは決してひけらかしてはならぬ、どちらかというとちょっと恥ずかしい旅であるのだなあ、と5年目に突入した今、思う。
これぞ中国!
バスターミナルでバスを待っていたときのこと。
広い待合室の中にテレビが一台。
W杯の試合が放送されていてテレビの前には多くの客が観戦していた。
するとそこへ切符モギリの服務員(若い女)がテレビのリモコンを持ってツカツカと現れ、チャンネルを連続ドラマに換えてしまった。
当然客からはブーイングが起こるが「チャンネル権は私にあるのよ!」と言わんばかりに完全無視で腕組みしてドラマに熱中していた。
もちろんこれ公務中の出来事である。
そういえば香港に向かう時乗ってきたバスは途中お客を拾わない特急バスだったのだが、突然ある所で停車。
何事かと思ったら運ちゃんが道端の農民直売のスイカを2玉買っていた。
中国のバス会社で働きたいなー。
フハイ
4年前に知り合った友人を訪ねていったところ、こりゃまいった!と唸ってしまいそうな素晴らしく豪華な接待を連日連日怒涛のように受けてしまった。
というのもその人の家族、友人たちが皆揃って公務員だからである。
中国の官僚・公務員の腐敗ぶりはつと有名だが、この度その実態を目の当たりにしてあらためて中国の一般庶民に生まれなくてよかった、と思った。
まずその豪華接待の後一度もお金を払っているのを見たことがない(サイン一つで全部公費もち)。
車であちこち連れて行ってくれるがその車は公用車である。
広い自宅は公務員特権で半額で購入できる。
各人毎年一回一万元(15万円)クラスの旅行がタダ。
これすべて人民の税金によって賄われている…。
中国でも中央に近い地域ではそれなりに取り締まっているらしいが、ここは地方都市なのでナアナアの野放し状態、汚職は当然の権利だと思っているフシがある。
まあしかし2000年以上昔の話である「項羽と劉邦」なんかを読んでも役人の腐敗は既に存在しており、ということは、汚職は即ち故宮や万里の長城よりもはるかに長い歴史を持つ中国の一つの伝統文化といってよいだろう。
ここはひとつ中国政府に開き直ってもらって、汚職の歴史を集めた「腐敗博物館」を開設し、参加料を払って食事からジキジキまで各種様々な使い込みを体験できる「汚職実体験コーナー」を設け、更には毎年最も汚職を働いた役人を国の重要無形文化財として表彰する…なんてのはどう?
2006年6月2日金曜日
自由
中国に変換されながらも今なお自治を保っている「自由」の土地、香港。
「自由」、ああなんという魅惑の響き!
「集会・結社・言論・宗教の自由」、ああこれこそ人間の住むべき本来の姿!
約一年振りに不自由な世界から自由の世界に舞い戻った私はスピーカーを準備し、惑うことなく人々の集まる公園に行き大声で叫んだ。
「毛沢東主席・中国共産党万歳!!」
「社会・共産主義だけが真の平等な世界を築けるのだ!」
「人民公社は生産の雄!」
「打倒帝国主義!チベット・ウイグル、全民族一致団結して植民地支配を叩き潰せ!」
「進め人民解放軍!日本鬼子を皆殺しにせよ!」
あ、そうだ、あとひとつ。
「中国政府は直ちに元寇の際の大虐殺について日本国民に謝罪せよ!!!」
ふう、すっきりした!
ビザ延長
今中国ビザ再延長のために香港にいます。
普通ビザ取得のためには専用の紙にいろいろ記入して写真張って…と面倒なことこの上ないものですが、なぜか香港だとお金と写真一枚とパスポートをエージェントに渡すだけで翌日にはアッサリ長期ビザがとれてしまうのです。
なんだ、つまりは金がほしいだけのことかって気もしますがね。
ちなみに過去、ビザ・入国書類で「えっ?そんなこと書かせるの?!」って思わせたベスト(ワースト?)3は…
第3位:宗教を書け(1996年シリア 入国カード)
無難に「仏教」と書いておいたが、もし「ユダヤ教」と書いたら入国拒否か?!
第2位:瞳と肌の色を書け(2003年ビルマ ビザ申請)
「肌色」じゃ答えになってないし、さりとて「黄色」と書くのもなんか嫌だったので「茶色」と書いておいた。実際日焼けしていて真っ黒だったからね。
第1位:ここ3年納税している現地人2名の名前を記入し納税レシートを添付せよ(2004年バングラデシュ ビザ延長)
「ツーリストなのにそんな都合のいい知り合いがいるわけないでしょう!」と係官に文句を言うと「なら諦めな。それとも…」とワイロの請求。なんだ?ユスリのネタか?!無論拒否。クサレバングラ役人。
2006年5月26日金曜日
下から読んでも山本山
中国のスーパーで味付け海苔を発見。
5枚1組で包装されていて、味も大きさも日本のと全く同じ。
しかしその大袋の裏側に書かれている内容が・・・。
そこには「こんなときにどうぞ」の絵と説明が載っていて、1つはベランダで音楽を聞きながら本を片手にクールに海苔をつまむ男の姿。
もう1つは、若いカップルが公園でイチャつきながら楽しそうに海苔を食べる姿。
日本人のカップルがデートの時「ちょっと待ってて、ジュース買ってくるから」のノリで、中国では「ちょっと待ってて、味付け海苔買ってくるから」ってやるの??
と中国人の友人に問えば、
「別に普通だよ」の答え。
ホンマかいな!?
2006年5月10日水曜日
中国と私
私が中国という国を初めて意識したのは、幼き頃テレビでドリフのやっていた人形劇「飛べ孫悟空!」を見て「あの加トちゃんというキャラは何者だろう?」と思ったことだが、二番目に意識したのは中国残留孤児のニュースを見た時だったろう。
姉(日本に帰れた)と妹(中国に残された)感激の再会!の映像で、妹の方が姉より20歳くらい老けてしまっているのを見て
「ウウム、中国で生活するとこんなに老化が早いのか…。くわばらくわばら」
と幼心に強い衝撃を受けたのを覚えている。
それから時は流れ、急激な経済成長を遂げた今の中国にいて、そういうのはもう過去の話、と思っていたのだが…。
私の泊まっている宿で働く農村出身の服務員さんたち。私よりはるかに年上と思って「おばちゃん」と呼んでいた人が実は同い年、あるいは年下だったりして…。
(そりゃ個人差ってもんじゃないのか?!というツッコミはなし)
貧しい農家の子は中卒後都会へ出て3Kバイト(含ジキジキバイト)に身をおく苦労の生活。実際この前参加した田舎の誕生日会でも、お客はチビッコか中年以上の人ばかりで、20-30代は出稼ぎに行ってしまい皆無に近かった。
中国貧富の差解消の道はまだまだ険しい…か?
八十大寿
知り合いの人から「今度うちの田舎のバアさんが80歳の誕生日でお祝いするからアンタも来るかい?」と言われたので参加させてもらうことにした。
親戚一同集まって、おめでとう!ってやるのかと思ったら全然規模が違って、
参加者200名以上(そこの村人ほぼ全員)!
食材になる動物:豚七頭、牛一頭、鴨十数羽!
各テーブルにはあふれるほどの肉肉肉料理(野菜ゼロ)!
飲め飲め白酒(焼酎)!
これが朝昼晩三回!
そして三日間続く!
最後には、ううっ、もう肉は当分いらない…ってなってしまった。
「まあ田舎の生活は普段娯楽が少ないのでこういう大イベントは楽しみなんでしょうね!」と主催者側に問うと、
「とんでもない!金はかかるし、準備は大変だし、本当はやりたくないのだが、さりとてやらぬとケチな一家だと陰口たたかれるし…ブツクサブツクサ」
ううむ…。
ならば同じ質問を参加者側に問えば、
「とんでもない!毎年のようにアッチコッチで同じような会があって(結婚・出産・60歳・70歳・80歳…)、毎回ご祝儀出さなきゃならんし(500-1000円程度)、参加しないと付き合いの悪い奴だと言われ、さりとて三日間全て参加するとズーズーしい奴だと言われ…ブツクサブツクサ」
ううむ、ムラ社会…。
ちなみにこういう習慣があるのはこの辺りの少数民族の一部(トン族・ヤオ族)で、漢族の人に言わせれば「そんな面倒なこと漢族はしないね」とサラリ…。
求人広告 その後
実は女子大生にムフフな家庭教師をしてもらっていたのは旧正月休み前後の計2週間だけで、その後地元でブラブラしているネーちゃんを雇ったところ、これがとんでもなく使えない代物で、自称堪忍袋の尾の長い私をわずか3日でキレさせクビにし、更にその後「私は元教師で標準語が話せます」とバリバリの訛り言葉で自己紹介するおじさんを雇ってしばらく勉強してました、というか雑談してました。
そういう訳であんまり中国語の上達には役立ってないですが、この最後のおじさんは文化大革命の時農村で強制労働させられた経験を持つ苦労人で、当時の話とか、毛沢東から今の政府までをボロクソに批判する話(外では絶対できぬ)とか聞けてなかなか興味深かったです。
私もお返しに、生中継で見た天安門事件の真実とか、去年新疆成立50周年式典に独立要求組織から爆破予告が出てた話とか、一般中国人が知ることのできない中国国内の重大ニュースをたくさん教えてあげてたいそう喜んでもらえました。
めでたしめでたし。
(写真:二度と農村には行きたくありません(右))
2006年5月6日土曜日
コネなき者は去れ!
龍勝から30kmくらいの所に「温泉」という地名そのまんまの温泉街があって、今まで行くことはなかったのだが、まもなくここを去るにあたりどんなところか見ておくだけでも悪くなかろう、と体慣らしついでにひとっ走り行ってみることにした。
で、到着。
日本の山の温泉街と大して変わらぬ風景で、1分後には、ハイ満足、帰ろ、と思ったところ「イーユエーン(一元)」と誰かが私の名を呼んでいる。振り向けば以前龍勝の私の泊っている宿でコックをしていた男で、今この温泉街の食堂で働いているという。
「今日はここに泊っていきな。飯も宿もタダでいいから」
もちろん断る理由もないので即決。
言われるままについてゆくと、いくつかのホテル前を通り過ぎて「ここだよ」といわれた所はなんとこの温泉街NO.2の4ツ星ホテル、最低の部屋が850元(=13000円)!しかしそれは満室だったのでさらにグレードアップした1500元(=23000円)の豪華部屋にタダで泊らせてもらえることになってしまった。
こんなラッキーなことはないのだが、まさかこんなことになろうとは夢にも思ってなかったので、私の服装はいつもの自転車乗る時よりもさらにひどい格好(短パン・洗濯のし過ぎで肩に虫食いみたいな穴のいっぱいあいたボロTシャツ・ワラジ並みに底の擦り切れたビーサン)。案内してくれるボーイに運ばせる荷物すらナシ。
情けないやら恥ずかしいやら…。
してメインの露天風呂に行くぞ!ということになり、ここも顔パスでスルー(入湯料100元=1500円)。
中国人はみな海パンかパンツのまま風呂に入るようだが、まさかこんなことになろうとは夢にも思ってなかったので、パンツの替えなどもっていようはずもなく、仕方ないので一人だけフリチ○で入っていたところ、あまりのお粗末なブツに見かねたか、従業員が「これ穿きな」と商品の海パンをタダでくれた(推定10元=150円)。
情けないやら恥ずかしいやら…。
その後夜の温泉街をブラブラしているとその一角にアヤシゲな桃色の蛍光灯の光る「保健中心(センター)」なるものがあったので、
「隊長!自分はあそこで健康診断を受けたいでありますが、あれも顔パスになるのでしょうか?」と問えば、
「ウーム、タダはチト難しいが、観光客料金200元(=3000円)を地元料金50元(=750円)にしてやることはできる」とおっしゃる。
「据え健康診断受けぬは男の恥」と論語にもあるので、いっちょいきますか?!と思ったが、まさかこんなことになろうとは夢にも思ってなかったので、私の財布の中には17.2元(=258円)しか入っておらず
「やっぱり病気の問題とかあるし止めときます」
と言い訳して断念。
情けないやら恥ずかしいやら…。
秒読みW杯!
中国でもサッカーW杯は注目を集めている(バクチの対象としてだが)。
テレビでは各出場国のサッカー事情を紹介する一時間番組がやっていて、先日、日本のも紹介されていた。
で、番組のラスト、川淵チェアマンが日本のサッカーの将来を語るインタビューシーン。
放送では川淵さんの声(小さくだが聞こえる)に中国人ナレーターの声で翻訳をかぶせてあるのだが、川淵さんはずっと日本チームについて語り続けているのに翻訳のほうでは途中から
「いやそれにしても中国も大都市を中心にサッカー熱が高まってきているので将来アジアサッカーの中心は日本と中国になると思いますよ」
なんて訳されているではないか!
オイオイ川淵さんはそんなこと一言も言ってないぞ!
恐るべし情報操作・プロパガンダ大国、中国…。
サッカーおじさんの話まで操作するか…。
男の夢(最終回)
私が男塾塾長江田島平八であある!
久しぶりの登場かと思えばなんと最終回であある!!
(以下読みにくいので平文)
一年前に開講した男塾ですが、この度塾長の旅立ちに伴い閉塾することと相成りました。
初めは遊び半分で始めたつもりがいつしか受ける方も教える方も結構本気になってきて、別に専業でもないので教えるのに四苦八苦…。
日本語って普段気にすることもなく話していることをいざ説明しようとすると(助詞「は」と「が」の使い分けとかね)自分でも何でか全く分からん、という情けないこともしばしばでしたが、まあ何とか楽しく一年やってこれました。
まもなく卒業する高三の生徒の一人はこのまま大学の日本語学科へ進むことに決めたようで、助力できてうれしいことこの上ないですが、今まで教えた文法とかがテキトーであることがすぐバレてしまいそうで…。
まあ小さな日中友好になったかな!と思う江田島平八であある!!(完)
(写真:女子高生と一緒でニヤける江田島)
再始動の辞
中国に来てまもなく一年。
ビザももう切れてしまうので、そろそろ日本へ帰るか…と思っていましたが、ふと思い返せば一年もの長いビザを取ったのは最後にもう一度ゆっくりじっくりチベットへ行くためであったのに、ここで帰ってしまってはなんか尻切れトンボになりそうな気もするので、ちょいとビザを延長して一年ぶりに自転車野郎に戻ることにしました。
で最近はサビサビに固まってしまった自転車を必死に整備し直して何とか元通りにし、衰えてしまった体に鞭打ってトレーニングしているところです。
2006年2月10日金曜日
求人広告
昨年12月。
半年経っても一向に上達しない己の中国語に、このままじゃいかんとふと思い立ち家庭教師を雇うことにしました。
そこで紙に「教師求ム」と書いて宿の入り口にペタッ。
ちなみに私の今住んでいる所は、東京でいえば銀座にあたる商業地域のど真ん中(規模は100万分の1くらいしかないけど)にあり、この町の人の多くが前を通るため、2時間も経って散歩に出ればアチコチから「おう、先生探してるんだってなあ」と声がかかるほどです。
早くも翌日には数名の希望者が現れ、面接して厳正な審査のうえ一人を選びました。
その理由はその人が上手な普通話(共通語)を話せたからです、というのは表向きの理由で、真の理由はその人が女子大生だったからです。
で授業開始。
すると開口一番「アナタの発音はひどいアルネ」。
半年以前、CDを聞きながら自学自習していたときには確かに話せたはずの普通話の発音は、この半年間でいつしか南方方言に完全に侵されてしまったようです。
よって翌日からは小学校1年生の国語の教科書を使って基礎の基礎からやり直し。トホホ・・。
ドラフト一位指名
1月29日、旧暦の元旦。
中国でも年が明けました。
新年快楽!!
この半年間一ヶ所に定住したおかげで友人・知人も多数でき、年末にはいろいろな方々から「年越しはうちに来て一緒に過ごそう」の声をかけてもらってうれしい限りでした。
しかしここで新たな問題発生。
年越しというのは、23:59:59→0:00:00の一瞬一度限りであり、私の体も一つしかないので誰か一人を選ばねばなりません。
私がどこにしようか決めかねていると「あの家はケチだからやめとけ」とか「あの家の料理は不味い。うちのは美味い」とか本音トーク炸裂の悪口合戦になっていき、その中で一つを選ぶと私の立場まで危うくなる恐れがあると心配になってきました。
いつしか小さなムラ社会に私も組み込まれてしまったようで・・・。
よって最終的に私が選択したのは町から遠く離れた小さな農村で、中国の伝統的正月を迎える、というものでした。