それはポルトガルの首都、リスボンでのこと。
到着が随分遅くなりあたりは真っ暗。首都だけに宿代は高そうだし、何の情報もないままこれから街中を探し回るのも面倒なので、ひとまず中央駅に向かった。国際列車が発着するような大きな駅なら24時間開いていて駅寝もできるだろうと思ったからだ。
予想は的中。待合室にはバックパックを置いて休んでいる旅行者が結構いる。この人らと一緒に夜を明かせばとりあえず安心だろう・・・。
深夜1時過ぎアナウンスが入る。
「1時××分発パリ行きまもなく入線します」
ア、アレ?旅行者は皆バックパックを抱え出て行ってしまった。残っているのは私一人。
それでもそこで粘っていると、やがて駅構内水をまいての清掃作業が始まってしまった。
係が「ここは閉めるからな。出て行ってくれ」
え、そんな~。
仕方ないので駅舎脇で寝ようかと外に出ると、そこにはスキンヘッドとか黒人とかいかにもアブナそうな若者がタムロしている。こんなところで寝たら朝までに丸裸にされ尻の毛までむしられそうだ。さりとて今更宿探しするにはもう遅すぎる。自転車に乗り宛てもなく街を彷徨う。公園にもヒャーヒャー騒いでいる若者がいてここもダメ。うー、どうすればいいんだ・・・。
と、ここでハタとチュニジアでの一件を思い出した。そうだ!インターチェンジのああいった所なら誰もいないかもしれない!!
リスボンは山と谷の坂だらけの街で立体的な道が縦横に走っている。ワラをも掴む気持ちで郊外に足を向けると、街の中心から2kmくらいの所に理想的な場所を発見!木立に覆われ騒音も届かず道から中は全く見えず、そこはまさに理想的な都市の中のキャンピングサイトだった。
結局リスボン滞在の数日間はそこにテント張りっぱなしで荷物もそこに置いたまま市街観光したのだった。
チュニジアのオヤジ、ありがとう!!
次に会うときはチュウぐらいはさせてやってもいいかな。
2008年1月27日日曜日
ホモ達の輪!(号外)
2008年1月26日土曜日
ホモ達の輪!(金曜)
パキスタンにて。
とある家に泊めさせてもらっていたらオカマの友達が遊びに来た。
タイのオカマは努力の甲斐あって驚くほど綺麗な人がいたりするが、パキのオカマはゴツイ体に青々とした髭剃りあとがあったりしてとても見れたものではない。
私と友達(常人)とその友達(オカマ)の3人で話していて、夜になりそろそろ寝るか、ということでベッドが2つある部屋へ。すると常人とオカマは普通にベッドインし、横にいる私をはばかることなくイチャイチャし始めるではないか。私はその後累が及ぶことをひたすら恐れていたが、事を終えると2人はそのまま寝てしまった。
翌朝。
「日本では男同士でこういったことしないのか?」と聞かれる。
「いないわけじゃないが大変少数派だ」と答えると「へーそうなんだ。パキでは普通みんなやってるぜ」とサラリ。
この一週間、ホモ・ホモ・ホモと書き連ねてきてしまったが、「ホモ」というのは実は正しくない。正しくは「本当はすごい女好きだが仕方がないので両刀使い」である。
数多いイスラム国の中でもかなり厳しい戒律に縛られているパキスタンでは、結婚前の男女が性交渉などは問題外、並んで歩くことすら良しとされない。
健全な青少年の抑圧された性的エネルギーはたまる一方。
その同じ悩みを持ち合うもの同士がお互いに欲求不満解消しようとするのは異常行為でも何でもないようだ。
だから結婚して晴れて自由の身となった暁にはアッという間に10人のパパになるわけさ。
2008年1月25日金曜日
ホモ達の輪!(木曜)
チュニジアにて。
懲りもせず安宿を求めた結果、やっぱり出稼ぎ労働者宿に泊まることになってしまった。
夕方一人のオヤジに食事に誘われ、食後は「ちょっとそこらを散歩しよう」と言われる。
ついて行くとオヤジはどんどん郊外の方に向かってゆき、やがて高速のインターチェンジの道が円を描く内側の空き地へ入って行って「ここで休もう」とドッカリ腰を下ろした。周囲はビュンビュン車が通るものの、その中はひと気が全くない。
既にホモ感知センサーはレッドゾーン手前まで来ており、私はちょっと離れた所に座る。するとやはりオヤジは「もそっと近こう寄れ」と指示し、なんだかんだで私の大切な操を奪おうとしてくる。
確かにここなら誰も来ないのでムフフな野外活動するにはもってこいの場所だ。だが当然そんなことしたくないので軽くスウェーでかわし「もう帰ろ」とスタスタ帰路についた。
もうこうなるとこの手のネタは日常茶飯事的出来事でわざわざここに記すような話でもないのだが、この日の経験がのち意外な場面で私の身を助けることになろうとは当時の私は知る由もなかった・・・。
(写真:チュニジアの出稼ぎ宿。意外にきれいだな)
2008年1月24日木曜日
ホモ達の輪!(水曜)
トルコにて。
横に座ったオッチャンが話ながら太ももをナデナデしたりしてきて既にホモ感知センサーはレッドゾーンを振り切っていたのだが、この時点で中東生活半年を越え幾度となくこの手の状況に面してきつつも、なんだかんだでのらりくらりとかわし男の操を守り抜いてきた私にとってはもはや声を荒げるような事態ではなく、軽くいなして、それじゃそろそろおいとまするよ、ということになった。
オッチャンは別れの挨拶(両ほほを交互に合わせる。トルコでは男同士でも普通にやる)をしようとする。もちろんそれは何でもないことなので、私もほほを差し出し片ほほを合わせた。
そして逆側も合わせようと顔をすれ違わせようとしたその時!歴史が動いた。
オッチャンの顔の横移動が突然90°向きを変え私の方へ!
アッサリ唇を奪われてしまった。
ヌメッとした粘膜の感触、中東キスはヤニとニンニクの味がした。
オッチャン昨日餃子食ったな?!
2008年1月23日水曜日
ホモ達の輪!(火曜)
同じくそのヨルダンの宿での話。
イラクからの出稼ぎ二人が「今晩飲みに行こう」と誘ってくれた。ついさっきまで「この辺りのスナックは太ったネーチャンがいてグヘグヘだ(アラブ人はデブが好き)」というような高尚な話をしていたので、そういったところを見ておくのも文化人類学発展のためには悪くないな、と快諾。
そして夜。
二人に連れられて向かった先はそういった店がありそうな街の中心地ではなく住宅地、しかも体を横にしないと進めないような薄暗い路地裏の方だった。そして着いたのはスナックでもなんでもない一軒のボロ民家。扉を開けると床に男ばかり10人くらいが車座になっている。全員イラク人で、アラク(松脂のような香りのする蒸留酒。水を加えると白く濁る)をグビグビ飲んでいる。
かなりビビリながらも話しているうち次第に打ち解け、アメリカの悪口とか言い合ってると随分楽しくなってきた。調子にのって飲み続けているうち、フト気付くと周りに座っていた男らがだいぶ減っている。私をここへ連れてきた二人も「お前はまだ残って飲んでていいぞ」と言い残し先に帰ってしまった。
結局最後まで居たのはここの元々の住民二人と私の計三人。三人ともかなりベロベロになってそろそろ寝ようかということになった。寝る前に流しで顔を洗っていると男の一人がスルスルと寄って来て、後ろからガシッと羽交い絞めにし熱い生臭い息を吐きかけてくるではないか。そこは軽く振り払って寝床へ向かった。すると三人分布団が敷いてあるにもかかわらず、その男は私の布団の中へ入ろうとしてくる。そんなのを相手するのも億劫なくらい酔っていて「いかんいかん」と押しのけていたのだが、あまりにしつこいので「止めんか!」と一喝するとスゴスゴ自分の布団へ引き下がって行った。
ようやく安眠・・・。
して翌朝。
昨晩のことなど何事もなかったかのように男は私を宿まで送り届けてくれ「友情の印に」と売り物のネクタイを一本くれた。このネクタイは記念に今も封を開けずにとってある。
(写真:その宿のロビーにて。当事者は写ってません)
2008年1月22日火曜日
ホモ達の輪!(月曜)
中東・ヨルダンでのこと。
安宿を求めてさまよった結果泊まることになったのはシリア・イエメン・イラクなどからの出稼ぎ労働者が集まっているような所だった。
突然ふってわいてきたような東洋人の出現に、皆毎晩ワイワイガヤガヤ。
言葉の壁を乗り越える世界共通の話題と言えばやはり下ネタ。
紙にいろんな絵を描いて国家間の差異など話し合い、文化人類学発展に貢献したりしていた。
すると一人の男が「お前はこういうのが好きなのか?ならばあとでオレの部屋に来い」と言う。こりゃアラブ産ムフフ本でも見せてくれるのかも!とウキウキしながらその男の部屋に向かった。
そこは4人部屋、中に入るとその男だけがドッカリとベッドに腰掛けていた。そして男はこっちをジッと見つめて言った。
「で、お前はオレに何をして欲しいんだ?」
私のホモ感知センサーは瞬時にレッドゾーンを振り切った。
「いえ、私にはそういう趣味は無いので結構です」
男は諦めたようで、そのままそこで文化人類学討論などしていたのだが、やがて時間は過ぎ男は再び言った。
「どうだ?今晩はその空いているベッドで寝ては?」
その宿では私はベランダにマットを敷いて寝ていたのだが、ベランダで寝ようがベッドで寝ようが一泊の代金は同じだという。それなら久し振りにベッドで寝るのも悪くないかな、と了解したのだが・・・。
「じゃあ電気消すぞ」とスイッチの前に立った男は、消灯後ニヤリと薄ら笑いを浮かべると、カチャリ扉の鍵まで閉めてしまった。そしておもむろにこちらのベッドの方へ寄って来てガバッと私に覆いかぶさると荒い息を吐きながらそのヒゲ面を近寄せてきた。
「や、やめろー!!」
強く払いのけると男は仕方ねーなーといった感じでスゴスゴ自分のベッドへ戻って行った。怒った私はすぐさま部屋をあとにする・・・ことはなく、このままここにいれば何か文化人類学発展に貢献できるような調査結果が得られるかもしれない、と危険な期待を持って残留。
その功績を称えられ、その年のノーベル文化人類学賞を受賞した。
2008年1月21日月曜日
リトルワールド
大阪へ行ったときのこと。
香港で出会った旅の友人が新世界を案内してくれることになった。
「アジア好きならきっと気に入ってくれると思いますよ」と言われて。
異様に寂れたジェットコースター付きの建物を抜けて、いきなり目に飛び込んできたのはギンギンギラギラ、ド派手な看板が所狭しと並ぶ一帯。
ウォ~!これはまさに香港ではないか!
そこで串カツ食ったあと向かったのはローカル色タップリの商店街。
白ランニングシャツにステテコ姿のオッチャンがチャリンコ乗って風呂屋に向かう姿はまるで中国の田舎のよう!
そして更にその奥の怪しげな紅色蛍光灯輝くその一角は・・・、おーここは韓国ソウルのオーパオパオ?!はたまた中国の床屋さんストリートか~?!
そしてドヤ街を抜けるとそこには職業安定所。
だだっ広い構内に何するでもなく座り込んだり雑談している人々。
このけだるい退廃的な雰囲気は・・・、そう、まるでインドの駅!
日本にいながらにしての異国体験。
この一帯をぜひ「『裏』リトルワールド」と名付けたい。
2008年1月16日水曜日
水戸納豆
パキスタンで弁護士さん(金持ち)の家に泊めさせてもらっていた時のこと。
そこの居間は教室くらいありそうな大広間で、酷暑期(外は40℃くらい)だが、天井の扇風機の下にいるだけで大変涼しく心地よい。
お昼にその弁護士さんが戻ってきた。当然彼はスーツ姿で革靴を履いている。でもなぜか靴下は履いていない。
ここは砂漠に程近い大乾燥地帯で湿度は限りなく低いはずだが、彼の革靴の中はボルネオ並みの湿度100%。
くつろごうと靴を脱いだ瞬間。
扇風機の風にあおられその広い室内に、物凄い、いやそれはもう本当に物凄い納豆臭が立ち込めた。
もしそこにホカホカの白いご飯があったのなら、日本人ならその臭いだけで三杯はおかわりできるね。
2008年1月15日火曜日
ファイナルアンサー
中国人とは幾度となく日中歴史問題について討論してきた。
時には謝罪し、時には反論し。
しかし都合3年にわたる中国滞在の結果、今回ついに完全無欠というべき返答を見つけ出した。
どんな問題でもいい、日中の歴史について意見を求められた場合こう答えるのだ。
「南京にしろ731にしろ日本人のせいで中国の皆さんには大変な迷惑をかけてしまった。しかし日本の侵略により中国人がこうむった最大の被害は、国共内戦で共産党に勝利をもたらせてしまったことだ。本当に申し訳ない。」
こう話すと100%の確率で相手は「おー!その通りだ!もし国民党が勝利していたら今頃オレラも台湾みたいにかくかくしかじか・・・」
中国人は誰もが知っている。現在の自由な台湾の繁栄振りと、中国の一党独裁による生活の格差を。
この返答は日本の非を認めつつもさっさと話にキリをつけられ、実は彼らが本当は話したいがなかなか言い出せない話(共産党批判)を自然に引き出し話題を転換できるという、両者にとって非の打ち所のない完璧な答えなのだ。
歴史に「もし」は禁物だ。
しかし敢えて言おう。
もし1937年日本軍が中国へ侵攻していなかったのなら、当時圧倒的有利な状況にあった国民党軍が共産党を駆逐するなど赤子の手をひねるよりも簡単だったはず。
捏造された歴史ばかりを教えられている中国人でもこれくらいは常識として理解している(実際は敗戦続きの長征もえらく勇ましい話ばかりでごまかしている)。
結局のところ共産党政治は素晴らしい!なんて思っている人は一人もいないんじゃない?共産党員も含めて。
2008年1月13日日曜日
ではその他のニュースをいくつか
12月20日午後、JR東海道線上り列車の車内で、ボムッ!という大きな音とともに異臭が広がった。駆けつけた署員が車内にいた挙動不審な男(35)を発見、治安維持法に抵触するとして現行犯で逮捕した。
その男は「内ポケットに入れてあった中国で買ったライターが突然破裂した」と意味不明なことを繰り返すのみ。そのために1時間に渡り上下線ともダイヤが大幅に乱れ、通勤通学中の乗客約8000万人に影響が出た。
事態を重く見た政府は外交ルートを通し正式に中国に謝罪を要求する構え。
(ロイター発共同)
2008年1月12日土曜日
魔女の宅急便
実は、今回のラサ滞在で取り返しのつかないポカをしてしまった。
私には6年前に初めてラサに来たときからお世話になっている一家がいる。
最近そこの娘さんが英語の先生になったというので、その学校へ行き授業の様子を写真に撮ったりした。
その写真をぜひほしいと言われたのだが、あいにくそれがラサ滞在の最終日だったため直接渡すことができず、北京に移動してからプリントし郵送することにした。
しかし過去数度その家宛に郵便物を送ったことがあるのだが、一度も届いたことがない。
今回は写真の量も多いし期待されていることもあって確実に届いてほしいという思いから、EMSを使って郵送することにした(中国では国内でも速達便としてEMSが使われる)。
それから10日くらい経って日本に帰り着き、さすがにもう届いているだろうとホームページで確認してみたところ、投函から3日後にはラサの中央郵便局に到着しているのだが、その後そこに留め置きになったままになっている。
EMSでもこれか!と腹立たしく思いながら手元にある自分用のアルバムをパラパラ見ていたところ、背筋の寒くなるようなとんでもないことを発見してしまった。
送った写真の中には授業風景の他にその家族の写真も混じっていたのだが、その中の一枚の背景に壁に貼られたダライ・ラマの写真が!!その気になって見れば充分判別できるくらいの鮮明さで写ってしまっている。
もしかして郵便局留め置きの理由は、公安の検閲によってそれが見つけられたためで、住所も書いてあることから家宅捜索され、家の中をしっちゃかめっちゃかにされ、誰か連行され・・・なんてことになってしまっているかも!?とめちゃめちゃ不安になり、なんとかそちらに連絡取りたいと思ったのだが、電話は通じず、メールも返事なく。
これはチベットの一つの平和な家庭を破滅に追い込んでしまうようなとんでもない大失態である。
恩を仇で返すとはまさにこのこと。
いてもたってもいられないが、この遠く離れた地では今更どうしようもない・・・
とあきらめかけたが、一つだけ希望の光があるのを思い出した。
チベットで知り合った日本人がまだラサにいるはず!
急遽その人に頼んで郵便局まで行ってもらい、更にその娘さんの家に行って事情を説明してもらう。
どうやら自宅強制捜査などは行われていない模様、との報告を受けホッと安堵の胸をなでおろした。
その後その家族が自ら郵便局を赴き無事それは受け取れたとのこと。
めでたしめでたし。
そもそもこういった事態を招いてしまった原因には中国の郵便システムの欠陥が挙げられよう。
局によっては一戸一戸配達せず全て局留めにし、住民が自ら取りに行く方式にしているところがある。
もし住民に定期的に確認する習慣がなければ、送り主からその家に連絡しない限り永久に郵便物は届かない。
それを避けるために用いたEMSですらこのざまだ。
あれ?
もしかしたら中国の「EMS」って「Express Mail Service」じゃなくて、
「Er Mei Song 而没送(しかも配達しない)」だったのかも??
2008年1月10日木曜日
同業者
そして更にそのズダ袋。
さすがに日本じゃこんなの持って歩いている人なんていないだろうな~、と思いつつ大阪港から乗った地下鉄。
駅構内でゴミ箱から新聞漁ってるオッチャンがこれと全く同じ袋持ってた!!
2008年1月9日水曜日
ここ掘れワンワン!
帰国に向けて荷物のパッキングをしていた時同室の日本人に言われた。
「確か日本の税関って乳製品持ち込み禁止じゃなかったでしたっけ?」
ツァンパはバターとチーズを一緒に混ぜ込むことで少しはマシな味となる。
もし没収されちゃったらこの10数kgもの白い粉を一体どうしろというのだ?!
何とか守り抜きたいと思い、とりあえず粉袋の中奥深くに隠しこんではみたのだが・・・。
そして大阪港到着。
税関のテーブルに荷物を置くと麻薬犬が近寄ってくる。
鼻をクンクンさせている犬を横にして嫌な予感が頭をかすめる。
もし調教師が麻薬犬として育てる傍ら、個人的理由でバター犬としても調教されていたのなら・・・。
私には永遠にも感じられたその10数秒間、しかし全ては杞憂だったようだ。
結局日本では乳製品に関してはおとがめない模様。
おかげで日本にいながら充実のツァンパライフを満喫しています!
2008年1月8日火曜日
人身売買
今回の旅では大陸へは初めて大阪⇔上海のフェリーを使っての移動となった。
客層は旅行者・留学生・貿易の仕事してる人など様々。
その中で多数を占めるのは「研修」という名目で日本へ出稼ぎに行く若い中国人たち。
日本に向かう船上には20歳くらいの若い小姐が10人ほどいた。
日本人を見つけては「日本語教えて」とはしゃいでいるかと思えば船窓からの日本の陸地をじっと眺めていたりと、初めての海外に期待と不安が入り混じっている様子。
そして着岸。
入国審査を終えゲートを出たところには一目でカタギじゃないと分かる角刈りのお兄さんが迎えに来ていて、その男の運転するワゴンに乗せられどこかへ行ってしまった。
幸多かれしことを祈るのみ・・・。
2008年1月7日月曜日
激流中国
1/6の夜にNHKでやっていた「激流中国」。
その日のテーマは、親からの過度の期待を受け悩む一人っ子の子供たち、というものであったが、この舞台となっていた雲南省昆明では小・中・高ともに週休2日は確保されているので、私が以前日本語を教えていた龍勝の週休0日制に比べればまだマシな方だ。(2005年9月のコラム「ゆとり教育」をご覧ください)
当時学生らに「何でこんなにやらんといかんの?」と聞くと「全国統一試験の結果、成績優秀者の多い学校の校長先生は出世が早くなるから。本当は週末は休みの規則なんだけど守られているのは大都市くらいで、田舎の方ではナアナアになっちゃっているんだよ」と言われた。
また近くの村の中学では夜の授業が始まる前に7時のニュースを教室で見させられていた。
全国数百局あるテレビ局の主要チャンネルが7時になると一斉にこのニュースに切り替わる。
30分間の内容は100%プロパガンダで、本日党首脳はどこどこを訪問し熱烈歓迎され、経済は止まることを知らぬ右肩上がり、農民もますます富み、民衆誰もが大喜びで共産党に大感謝、というのが連日繰り返されている。
おそらく生徒たちにこれを見させることによって、若者に健全な社会主義精神を芽生えさせる、というよりは、校長の成果報告会かなんかで「うちの学校では国家繁栄・共産党万歳のためにこんな風に頑張ってます!」という点数稼ぎのためのネタとしてやっていると思われる。
結局のところ、教育は中国の科学発展のため、とかなんとか偉そうなこと言っているけど、所詮は先生らの出世の道具として使われているに過ぎない。
中国の子供たちは可哀想だな~。
2008年1月6日日曜日
人間の証明
中国のとある小さな町で。
今日泊まる宿を求めてそこら辺にいる人に「安いとこある?」と聞いてみた。
すると「あっちに安いとこあるけどあんなとこ泊まっちゃダメ。こっちの高い方にしなさい。」と言う。
別にどんなひどくてもどうせただ寝るだけなので、その安い方へ行ってみた。
行ってみてその人が勧めなかった意味がすぐ分かった。
一泊5元(75円)と激安ではあったが、ロビーにウサン臭い男らがタムロっていて雰囲気メチャメチャ悪い。
建物も薄暗くまるで魔の巣窟のよう。
それでもそこにチェックインし、言われた階に上がってみるとその音を聞いて他の部屋から人々が顔を出した。
それらが皆若い小姐なのだ。
当然ピンとくる。
ここは売春宿でもあったわけだ。
それでもまあいつもの調子でそのウサン臭い男らや小姐らとも仲良くなり雑談などしていたのだが・・・。
「今日も暑いですね。ところでお姉様方は多少銭?」
「15元よ。」
「ん?150元?」
「違うわよ。15元(230円)よ。」
「・・・・・・。」
バリューセットよりバリュー・・・。
「いやいやまあ安いのは消費者としては大変結構なことなのですが、それにしても同じ仕事するならお姉様方ほどの若さと器量があるならこんなハキダメみたいな所じゃなくて、せめて街の床屋で働けば100元くらいはとれるんじゃないの?」
「それは無理よ。だって私らには戸籍が無いもの。」
「!!」
一人っ子政策実施中の中国では、2人以上生まれてしまった場合、あるいは男手必要なのに女の子が生まれてしまった場合、多額の罰金から逃れるため出生登録されない戸籍の無い人間、つまり人口には数えられない人間が出現してしまう。
その数は一億とも二億とも言われている。
たとえ実際はいかがわしい事をしている床屋であろうが、一応名目は床屋なので雇われるにはれっきとした「存在する人間」でなければならず、「存在しない人間」はこのような日陰の日陰でしか生きていけないのだろう。
一人っ子政策の弊害がこんなところにも現れていたとは・・・。
夜間演習
西チベットに阿里という大きな街がある。
巨大な軍の駐屯地があり、その存在のために拡大していったような人工的な街だ。
そこには異様に床屋が多い。
言うまでもなく夜にはピンク色の蛍光灯がともるような床屋である。
血気盛んな若き人民解放軍兵士が夜の射撃訓練場として使用していると思われる。
当時私は本当に髪が切りたくて普通の床屋を探し歩いたのだが、どこを覘いてみてもこの寒いのにえらく薄着な小姐がソファにだらりと座っているような所ばかりで、なかなか椅子と鏡があるような店が見つからない。
それでもやっと見つけた普通の床屋で散髪してもらったが、やっぱりそこでもアフターサービスの勧誘があった。
その街以外にも、チベットでは荒野のど真ん中にポツンと駐屯地があったりする。
ある基地の正門前には二軒の掘っ立て小屋があり、一軒は食堂兼雑貨屋。
そしてもう一軒は床屋だった。
ここら辺りじゃ床屋小姐は生活必需品なんだな~。
熱い吐息
チベット横断中のことだ。
その日私は道路工事に従事している農民工の小屋に泊めさせてもらっていた。
普通こういった小屋では同じ出身地・民族ごとに分かれて住んでいる。
数ヶ月の共同生活を行うにはその方が揉め事とか起こらず都合がいいのだろう。
当然ほとんど男だが、洗濯・料理係として女がいる場合もある。
私がいたのは漢族小屋で、隣にはチベット人小屋が並んで建っていた。
そして草木も眠る丑三つ時・・・。
尿意で目が覚めた。
しかしここは標高5000m近い地点で外は極寒。
暖かい寝袋からは出辛くこのまま朝まで我慢しようか迷っていた。
その時。
隣の小屋でなにやらごそごそ物音がする。
そしてその音の中になんとも悩ましい女の吐息が聞こえてくるではないか!
とても楽しいことをしているのは明らかで、声を立てないように必死に抑えているものの、あまりの良さにこらえ切れないで漏れ出てしまった声、といった感じ。
その音源は私の寝ているすぐ横のビニールシートの壁一枚隔てた向こう側、手を伸ばせば届くような所で起こっており、もっとタップリ聞きたいということもあり、あ、いやいや、お楽しみのところ邪魔しちゃ悪いと思い、小便は朝まで我慢することに決めた。
翌朝。
目を閉じればまだ耳に残るあの悩ましい声。
モーソーはどんどん膨らむ。
あの熱い吐息の持ち主は一体どんな顔しているのだろう??
どうしても一目拝んでみたくて、用もないのにチベタン小屋の前でウロウロしてたところ、中から一人の女が出てきた。
・・・・・・オカメヒョットコ、、、。
モーソーはモーソーのままで留めておくべきだった・・・。
2008年1月3日木曜日
ネット警察
言論の自由の無い中国ではインターネットも大きく制限される。
誰がいつどのPCで何のページを見ていたか、全て記録される仕組みになっている。
外国人旅行者とてその例外ではない。
ある日の北京のネット屋にて。
一人の公安が店に入ってきて客全員の身分証チェックを始めた(これ自体は珍しいことではない)。
それが一通り終わって5分もしないうち更に5人ほど公安が入ってきて突然一人の男を逮捕、後ろ手に手錠をかけ連行していってしまった。
都会の無関心の代表選手的な北京っ子もさすがに動揺し、ざわめきが店内に広がる。
結局原因は何なのか誰も分からないままなのだが・・・。
恐るべし中国。
毛主席バンザイ!
今回家族で上海・北京観光するに当たり、私が唯一希望したのは「毛主席記念堂」。
あの偉大なる中華人民共和国成立の大英雄、毛沢東が眠っている。
入ってみるとガラスケースに入ったロウ人形みたいな小さなジジイが横になっているだけでいまいち偉大さは伝わってこないのだが、ここではもっともっとすごいものが見れるのだ!
そこには中国全土から物凄い数の中国人がやって来ているのだが、その人々誰もがギャーギャー大声で騒ぐことも無く、タンを吐くことも無く、タバコを吸うことも無く、横入りすることも無く、きれいに列を作り黙々とそのジジイを見ている。
中国の首都の中心の中心にいながら、最も中国らしくない中国を味わえるのがここなのだ。
なんだ、やればできるんじゃん!!
今中国では2008年8月のオリンピック開幕を控え、市民のマナー向上に必死に取り組んでいろいろキャンペーンやったりしてるけど、そんなことしなくても街中5mおきに毛主席人形を並べておくだけで充分なんじゃない??
直訴陳情
その農民御用達ズダ袋を持って北京駅に下り立った。
北京到着がビザ最終日だったためすぐ様公安へ延長申請に行かねばならない。
天安門方面行きのバス停で待っていると次々とウサン臭い奴が近寄ってきて「仕事探しか?」と聞いてくる。
地方から出稼ぎに来たと思われているようだ。
もしこれに付いていったら、おそらく不法営業の炭鉱で死ぬまで石炭掘らされること必至。
何とかそれを振り切り天安門に到着。
広場を横切ろうとしたら警備の公安に呼び止められる。
「オイ、そこの農民!そのデカイ荷物は何だ?全部中見せろ!」
かなり厳しい荷物検査が始まってしまった。
はじめは、勝手に見れば、とするにまかせていたのだが、フト財布の中にダライラマの写真を入れていたことを思い出した。
これ見つかるとマズイ!
先に身分を明かしてしまうことにし、パスポートを差し出すと・・・
「?!外人さんですか?!こりゃ失礼しました。よい旅を!」
今中国では開発により土地を強制的に奪われた農民らが北京へ直訴に押しかけ、それを排除しようとする政府との間でしばしば衝突が起こっている。
中国の農民は虐げられてるなー、と実感。