・友達を見つけるのが旅、友達と一緒に行くのが旅行
・ひょっとしたら帰ってこられないのが旅、必ず帰ってくるのが旅行
・浪費家がケチになるのが旅、ケチが浪費家になるのが旅行
・自分を見直すのが旅、他人と見比べるのが旅行
・風呂,食事,寝床に感謝するのが旅、それが我が家より上等でないと満足しないのが旅行
・風呂で洗濯するのが旅、風呂で泳ぐのが旅行
・自分の都合で動くのが旅、他人の作ったスケジュールで動くのが旅行
2003年12月24日水曜日
『旅』と『旅行』
2003年12月9日火曜日
猛犬注意
「危ない目に遭ったことはないんですか?」
こういう旅をしているとよく聞かれる質問である。
しかしそういう目には全く遭ったことがないのだ。
ほとんど田舎にいるのだから、外人をだましてやろう、なんていう悪い輩もそうそういない。
ただ運が良かっただけなのかもしれないけど。
しかし田舎だからこそ、という目には遭っている。
それは犬に襲われることだ。
遊牧民の多いチベットでは番犬が放し飼いにされている。
しかもこの地の犬は狼に近い種でとても強暴。
そこへトロトロ自転車で走っていくと、遥か遠くの方からガウガウ狂ったように吠えながら近寄ってきて威嚇とか無しにいきなりガブッと噛みついてくるのだ。
こんな所で予防接種などしているはずないので死亡率100%の狂犬病になったらアウトである。
初めて犬に襲われた時のこと。
その時偶然バックパックの腰ベルトがダラリと垂れていてそれに噛みついてきた。
グイグイ引っ張られながらも「助けて~!」と叫ぶと気付いた遊牧民が追っ払ってくれて助かった。
それ以後はわざとベルトを垂らしておいて、もしも襲われたとしてもまずそれに噛みついてくれるようにしておいたおかげで体を噛みつかれることなくすんだ。
今でも私のバックパックの腰ベルトには2つの牙の穴が開いている。
それを見るとチベットを思い出す。
2003年12月1日月曜日
恥部
先にも記したが中国の便所は扉はないので丸見え。
確かに最初は恥ずかしいんだけどこれは慣れの問題であり、周りも全部そうなんだから、と吹っ切ってしまえば気にならなくなるものだ。
ただ一つ、とても恥ずかしくて人に見られたくないことがあった。
中国は紙拭き文化なんだけど、私は旅中一貫して水手洗いで通してきた。
便所に行くときは500ccのペットボトル持参なのだ。
しかしその扉無し便所で尻を洗っているところを中国人に見つかると
「ウワ~!こいつ尻を手で洗ってやがる~!!」
と変な目で見られてしまうのだ。
それがとても恥ずかしくて、洗う時は人がいなくなってからじゃないと洗えなかった。
おー、紙よ!我を救い給え!
脱プン!その7(チベット編)
中国の一般的公衆便所には扉が無いことを御存知の方も多かろう。
これがチベットのド田舎なんて行くと、掘建て小屋のような建物で、大きな穴の上に丸太が渡してあってその数ヶ所開いた隙間にする、なんて所もある。
さすがに男女は分かれているけどお隣でキバっているオッサンの姿は丸見えなのだ。
そんな公衆便所が一つだけあるチベットの小さな村にいた時のこと。
その村で私は体調を崩して寝込んでいた。
腹の調子悪くその公衆便所に駆け込んだ。
すると既に先客のオッサンがキバっている。
そんなの気にする余裕無く私はゲリった。
ゲリりながらもオッサンには挨拶し自己紹介もしておいた。
翌日、まだ体調は思わしくない。
再び便所に駆け込むとなんとまた昨日のオッサンがいるではないか。
オッサンは私のくだり便を見て「まだ調子悪いようじゃのう」と声をかけてくれた。
それから2-3日調子は戻らなかった。
そして、なぜか、なぜか、便所に行く度にそのオッサンに会ってしまうのだ。
その度にオッサンは私のことを気遣ってくれるのだ。
私は涙した。
そして数日後、体が軽い!これなら!と便所に行くと、いうまでもなく今日もオッサンがキバっていた。
そして私の見事な一本グソを見て「おお!今日はいい感じじゃないか!」と。
「そうなんですよ!今日は調子いいからやっと出発できます!お世話になりました!」
我々は固い握手を交わした。
もちろん、洗っていない手で。
脱プン!その6(ネパール編)
ネパールで、山の斜面に建つ眺めよい宿に泊まっていた時のこと。
その宿には共同のトイレが一つしかなかった。
朝食後お腹もいい調子に動いてきてトイレに入ろうとしたら既に先客が頑張っていた。
しばらく経って再び行くがまだ頑張っている。
ヤバイ・・・
危険度レベルは3→4にアップした・・・
またしばらくして行ってみるがまだ頑張っているではないか!!
うわー!もう耐えられん!!
ついにレベル5到達!!
やむを得ず室内でビニール袋に脱プン。
その袋は・・・・・・・・・窓からポイ。
ネパールの山々がとっても綺麗に見えました。
潜入!女子中学校!
バングラデシュでのこと。
地元エロ兄ちゃんにいろいろ案内してもらっていた。
じゃあ次は学校を案内してやろうと言う。
しかもそこは女子中学校。
イスラムのこの国で女だけの園、女学校に入るなんていうのは日本で言えば女子更衣室に入って行くくらいのハレンチなことなのだ。
ではあるが、外国人をダシに使って秘密の花園に入ってみたい、というエロ兄ちゃんのエロ的欲望と、バングラデシュの教育現場を見学してみたい、という真面目な私の学術的欲望が、それを実行に踏み切らせる。
まず校長室を訪れ「私は日本から貴国の教育現場を見るためうんぬん・・」と挨拶。
すると校長先生は、「それはそれはようこそ、校内を案内しましょう」
授業中の各教室を回り、紹介され、生徒の質問に答えたり。
やがて「外国人が来ている」との噂が校内に広がったようで校庭にドワーと生徒が集まってしまっていた。
私が姿を見せるとキャーキャーの黄色い声。
バングラデシュの教育現場視察は、まことに有意義なものになったのでした。
潜入!村祭り!
チベットでのこと。
山あいの小さな村でお祭りをやっていた。
老若男女皆綺麗に着飾って輪になって歌い踊っている。
そこへちょいとお邪魔して見物させてもらうことにした。
すると私の存在に気付いた人々が周りに集まってきた。
その騒ぎがさらに人を呼びこむこととなり、いつしか大群衆に囲まれてしまっている。
村祭りは毎年やってくるけど、外国人が来るなんて滅多にない!ヤンヤヤンヤの大騒ぎ!!
これはちょっとマズイかなあ、と思ったとおり、やがてある人が「申し訳ないが出ていってくれんかのう?祭りが成り立たんのじゃ」
この時以外にも中国でもバングラデシュでも田舎の祭りで似たようなことが起こってしまった。
せっかく祭りが見れるチャンスだったのに・・・
こっちも向こうも残念残念な気分になりました。
スーパーマリオ
ビルマでのこと。
宿の受付にファミコンが置いてあった。
宿の兄ちゃんがスーパーマリオをやっている。
しかしとにかく下手クソなのだ。
スタートしていきなりクリボーに激突!
パックンフラワーに特攻!
奈落の底へ墜落!
何度も何度も挑戦するのだが同じ所で同じ様に死んでばかり。
後ろで黙って見守り続けていたけどもう耐えられない!
ちょっとコントローラー寄越せ!
隠し土管からワープして目の玉をひん剥かせ、ノコノコを使っての無限増殖で小便を漏らさせ、ピーチ姫を助けてクリアーし失神させてやった。
電子立国日本の面目躍如である。
しかし中国では麻雀(任天堂)をやっていた中国人が「これアガれない!不良品アルヨ!」と怒っていた。
役無し麻雀しか知らない彼らにその理由を説明するのは不可能だった・・・
分別回収
インドなんかだと家庭から出るゴミはガラスでも金属でも生ゴミでも全部一緒くたにして路地のゴミ捨て場にドバーと捨てている。
分別する、なんて面倒臭いこと一切無し。
日本だってちょっと前までは似たようなもんなんだからインドくらいなら当たり前だろ、なんてインドを見くびってはいけない。
インドこそ完璧なリサイクル国家なのだ。
そのゴミ捨て場をしばらく注目してみよう。
やがて大きな袋を担いだちょっと身なりの汚い方々が、ガラスならガラスだけを、ペットボトルならペットボトルだけをそこから拾ってゆくのだ。
生ゴミはノラ牛が食べてしまう。
そしていつしかそのゴミの山は跡形もなくなってしまう。
こうして集められたペットボトルには水道水を詰めて「ミネラルウォーターだよ!」といって外人に売ってしまう。
エコロジー先進国インドなり。
バックドラフト
中国のある町にいたときのこと。
宿の窓からふと外を見ると、何やら大群衆がゾロゾロとある方向を目指して歩いている。
気になって私もその群れに加わって歩いてゆくと、その先にあった家が火事になっていた。
その群集は野次馬の群れだったのだ。
群れが群れを呼び、道はびっしり人で埋まってしまっていた。
そこへ遠くからウーウーサイレンの音が聞こえる。
しかし大群衆に行く手を阻まれ消防車はまったく近づけない。
火はメラメラと燃え盛って、家は全焼してしまった。
なんだ、終わっちゃったか、という感じで群衆は帰路につく。
それでようやく消防車は現場に到着できたのだけど残るは灰ばかりなり。
もう何もすること無いのでそのまま帰っていきましたとさ。
2003年10月8日水曜日
インド人とは
本で読んだ話で恐縮ですが・・・
かなり昔、インドのデリー空港で日航機が事故を起こし多数のインド人が死亡。
その時滑走路にいたインド人も巻き込まれ一人死んだ。
日航側は保証金として全員に一律30万円を払うことを決めた。
するとインド政府からクレームがついた。
その内容はなんと、、
「一人30万円は多すぎる!
そんなに払ったら、以後滑走路にインド人が殺到してしまう!
半額にしてくれ。」
ウソのようなホントの話です。
技術大国
イタリアのシチリア島からチュニジアに向かうフェリーを待っていた時のこと。
乗客の大半は出稼ぎ帰りのチュニジア人だった。
みんな久し振りに会える家族へのプレゼントを大量に持っている。
しかし乗り込む際、イタリア人係員から「一人荷物は2個まで!」という命令が。
せっかくの荷物も強引な係によりポイポイ投げ捨てられている。
あまりのそのやり方に第三者としても怒りを覚える。
そして自分も自転車とともに乗り込もうとしたところ
「これは二輪車だから別の切符が必要だ!」
先に乗り込んでいたチュニジア人からも
「可哀想に、あいつもつかまったか・・・」
こうなったらコイツの鼻をあかしてやろう!
切符を買いに行くように見せかけ建物の影に隠れ自転車を輪行する。
他の荷物も全て輪行バッグに詰め込み1つにして再挑戦。
「どうだい?これなら二輪じゃないし、荷物も一つだぜ!」
係員は渋々通過を許可してくれた。
するとデッキから見ていたチュニジア人から一斉に「ウォー!!」の声。
中に入っていくと皆々から「さすが日本人!頭がいい!!」と賞賛の嵐。
船内のビデオでブルース・リーの映画をやっていて悪の白人をバタバタやっつけるのを見て(関係ないけど)ますます日本人の評判はアップしたのでした。
2003年10月4日土曜日
ダイエット!
アメリカ、ニューヨークでのお話。
こちらの外食と言えば、ハンバーガー・ピザ・ポテトにコーラ。
サイクリストならいざ知らず、普通の人にはやはりカロリー過多。
アメリカではダイエット熱が盛んとは聞きますが、想像を絶するようなデブがいっぱいいるのが事実です。
それでも食い続けたら無限に太るのでは、と心配になります。
それとは別に、回転扉が多いのもNYの特徴。
地下鉄の出口はバー式の回転出口だし、建物の入り口はたいがい回転式です。
これが結構狭いので先程のようなデブは引っ掛かるのでは、と心配になります。
で、ここで気づきました。
やはりデブは引っ掛かるのです。
身動き取れなくなって、数日間もがいているうち痩せて脱出できるようになるのです。
無限デブがいないのも、回転扉が多いのもこれで合点がいきました。
NY市制あっぱれ!って感じです。
確かにそういう目で見てみると、そこかしこに引っ掛かってもがいているデブの姿が・・・
2003年9月25日木曜日
脱プン!その5(トルコ編)
トルコではガソリンスタンドによく泊まらせてもらっていた。
敷地の隅の方にマットだけ敷いて寝かせてください、と頼むと43発43中という驚異的な成功率でOKしてもらっていた。
こちらとしては寝かせてもらうだけで充分なんだけど、さすが親日的なトルコ人、それだけでは許してくれずメシになれば一緒に食おうと誘ってくれたり、観光に連れていってくれたり、家に招いてくれたりしてありがたい限り。
トルコ中部、カッパドキアに近いガソリンスタンドに泊めてもらった時のことだ。
やはりここでも歓迎してくれ、メシに加え、ビール2本にスイカ半玉までいただいてしまった。
しかも外じゃ危ないから事務所の中で寝なさい、と部屋の中に入れてくれた。
夜、皆は各家に帰り、そこには私一人・・・
深夜、モーレツな尿意で目が覚めた。
寝る前しこたま水分摂ったので当然だろう。
トイレは外にあったので扉を開けて出ようとしたところ・・・
何と外から鍵がかけられている!
しかも窓は開かない!
これじゃ軟禁だ!!
すでに膀胱は危険度レベル4に達している!(レベル5で核ミサイル発射)
2Hzの自家製コンピューターをフル稼働させ、はじき出された答えは
「金魚ばちにしろ」
しかし翌朝白い腹を浮かせ全滅していたらヤバイというので却下。
続いて出された答えは
「植木にしろ」
しかしこれも臭いでばれそうなので却下。
う、う、危険度レベル5は目前である!
しかし、節分には豆まきをするような信心深さが功を奏したのだろう。
神は我をお見捨てにはならなかった。
このとき部屋には自転車ごと入れてあったのだ!
素早くボトルの中身を捨て、そこにジョ〜。
フゥ〜、助かった〜
しかーし!ここで気を抜いたのはマズかった!
直後に今度はモーレツな便意が襲ってきたのだ!
しかも猶予許さぬ緊急非常事態宣言である。
またもやレベル5は目前に迫っていた!
しかししかし、お彼岸に墓参りをするような信心深さが功を奏したのだろう。
やっぱり神は我を見捨てることはなかった。
自転車の荷物の中にはビニール袋があったのだ!
ブリブリ...フゥ〜
翌朝、みんなが戻ってきたところで何食わぬ顔して裏の畑にまいておいた。
その年の畑は豊作だったという。
2003年9月24日水曜日
脱プン!その4(シリア編)
トルコ国境まであと数kmというシリアの片田舎で居候していた時のこと。
夕食に何か傷んでいたものがあったようで家の者の数人が下痢にみまわれてしまった。
みんな夜中も次々とトイレに駆け込む。
しかし田舎なので夜間は水道がストップ。
缶に汲み置きされた水がどんどん減ってゆき、腹が痛いよりもこのままじゃ尻洗えなくなるのでは・・・の恐怖に襲われていた。
翌日、運悪くこの日がシリアビザの限界だったのでゲリゲリのまま出発しなければならなかった。
国境を越えトルコに入ったところでダウン。
その辺に野宿しようと準備していた。
すると農作業帰りのトルコ人が来て
「そんな所で寝ないでちょっとついて来な」
と誘ってくれた。
コンテナを改造した仮宿泊所へ。
深夜一人で寝ていたとき、それは襲ってきた。
ヤバイ!と立ち上がった瞬間、彼らは自由を求め旅立っていってしまった。
近くの川で蚊にボコボコに刺されながら体と服を洗ってコンテナの中も洗い流しておいた。
しかし翌朝やってきた人らが中に入るなりしかめっ面して洗浄を始めてしまった。
情けないやら申し訳ないやら・・・
強烈な思い出から始まったトルコ初日であった。
2003年9月23日火曜日
宗教冒涜
初めてのイスラム国訪問であったエジプトにて。
日本では感じることの出来ないイスラムの神秘性に酔いしれていた。
そんな中、町外れの小さなモスクに行ったところちょうどお祈りの時間。
外から中の様子をうかがっていると、それに気付いた導師さんがやってきて話し掛けてくる。
「日本人か?」
「イエス!」
「エジプトは楽しいか?」
「イエ~ス!」
「イスラム教徒になりたいか?」
「イエ~~ス!!」
勢いで言ってしまった。
「それでは『ムニャムニャ(本当はもっと長い)』と2回唱えなさい。」
「ムニャムニャ、ムニャムニャ」
「よろしい、これで君はイスラム教徒だ。これからは『ムハンマド』と名乗るがよい」
ムハンマドになってしまった。
その後イスラムの基本である「五行六信」の教えを受け、礼拝前の身の清め方を習い、ペコペコやる礼拝法も伝授された。
いっぱしのエセイスラム教徒である。
しかしここでイスラム教徒になったことによるパワーは想像を超える絶大なものであったのだ。
旅の途中で会った人に宗教を聞かれ、イスラムと答えるとまるで旧知の友を迎え入れるかのような歓迎を受けてしまう。
それが楽しくて頻繁に使ってしまった。
場面に応じて「キリスト教」「仏教」も使い分けていたのだが・・・。
ある時茶店で皆でワイワイやっていた時、やはり宗教を問われその時は「仏教」と答えた。
するとさっきまで楽しく話していた中の一人が突然
「この異教徒め!汚らわしい!出て行け!」
と怒り出したのだ。
周りの人が静めようとするもその怒りは収まらず、私はスゴスゴと退散した。
その時思ったのだ。神聖なる宗教を私のように遊び半分で使うものではない、と。
それ以来「イスラム教」は封印し、無難に「仏教徒」ということにしておいた。
時は流れ一年後、モロッコのカサブランカにいた。
そこには近代建築術の推移を集めた豪華絢爛の巨大モスクがある。
異教徒も観光は出来るのだが、その時は運悪く金曜昼の礼拝の時間で観光客の入場は禁じられていた。
私はまもなくカサブランカを去らねばならなかった。
しかしどうしてもこのモスクの中を見てみたい!
そして思わずしばらく封印しておいたあの禁断の技を使ってしまったのだ!!
入り口に近づくとやはり警備の人が「外人は入れません」と言ってくる。
私は言った。しかも既に身につけていたインチキ臭いアラビア語で。
「私は日本からのイスラム教徒です。このモスクで祈るためはるばる遠くからやって来ました。中に入って皆と一緒に『ムニャムニャ』と唱えたいのです!」
すると警備の人はちょっと待て、と言い残し偉い導師様を連れてきた。
その導師に同じことを繰り返すと、導師はニコヤカに
「遠いところよく来てくれました。さあ中へどうぞ」
中は想像を遥かに超えていた。
数千人のイスラム教徒がいっせいにしゃがんだりペコペコする様は巨大な稲穂の波が揺れているようでもあった。
すがすがしい気分でカサブランカをあとに出来そうだ・・・。
しかしやはり神の天罰が下ったようだ。
その日乗ることになっていたバスは、荷物だけ載せて私をおいて行ってしまった。
翌日荷物は返ってきたもののやはり神聖なる宗教を冒涜するべきではなかったのだ。
それ以来「イスラム教」は封印されたままである。
2003年9月21日日曜日
海水浴
ヨルダンとイスラエルの間に「死海」はある。
海抜マイナス394m、地表で世界一低いところにあり、年中暑くて乾燥している上、流れ出す川がないので塩分がどんどん濃縮され、普通の海よりはるかに浮力を生む。
新聞読みながらプカプカ浮いている写真を見た人も多いだろう。
で、実際入ってみると本当にプカプカ浮いてしまうのだ!
でもあんまり安定していないので疲れるし、オマケのクロスワードを解きながら「母さんお茶」なんて言うことも出来ないので注意しよう。
また浮力が強すぎるのでうつ伏せで泳ごうとすると尻が浮いてしまい顔がドボッと水に沈む。
口に入れば辛いを通り越して苦いし、目に入ろうものなら激痛が走る。
傷口もヤバイし、痔もヤバイ。
ホモの人はもっとヤバイ。
小さく波も立っていて、波打ち際で遊んでいた子供に波がかかると大変!
アッチコッチからビエービエー泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
でもここはアンマンから多くの海水浴客が来ていて(他にヨルダンの海は最南端がちょっと紅海に面しているだけ)ビキニパンツのおとっつぁんと真っ黒なチャドルのおっかさんが仲良くスワンボートを漕いでいたり、チャドルのまま泳いでいる女の人がいたりして面白いです。
多分対岸ではイスラエル人がトップレスで日光浴したりしてるんだろうなあ。(想像)
2003年9月18日木曜日
インディージョーンズ
ヨルダンの観光のハイライトはなんと言っても「ぺトラ」。
「インディージョーンズ3」のロケにも使われた巨大な遺跡です。
しかし入場料が30$くらいして高い!
できることなら安く入りたい。
そういう情報はまことしやかに旅行者の間を駈け抜けます。
方法はこう。
ぺトラ近くのある宿の主人は、ぺトラ入場券のモギリもやっているので、その宿に泊まってちょっとニギらせれば1/20の現地人料金で入れてもらえる、というもの。
私もその宿に泊まって早速オヤジに話を持ちかけてみました。
しかし返ってきた答えは
「わりい、オレ明日非番なんだよ。その代りいい方法を教えてやろう。」
翌日、オヤジに教わった方法で入場を試みます。
その方法とは単純なもので、夜暗いうちに出て、入場ゲートに続く道に沿って流れる川(今は乾季で枯れている)を通ってゲートをパスせよ、というもの。
ライト片手に歩いて行くとゲートの横で犬がガウガウ吠えていてちょっとビビリましたが、何の問題もなくクリア。
その先には幅5m、高さ100mくらいの岩の隙間がクネクネ続いています。
トコトコ行き、やがて空も白み始めた頃、その隙間の向こうにぼんやりと朝日に浮かび上がる巨大な遺跡が!!
この人類の遺産が今目の前に!!
しかもたった一人、私だけが見ている!!
ピラミッドに続き再び立ち尽くしてしまいました。
前回のピラミッドもここもその後普通に見物もしたのですが、一般の時間だと観光客もウジャウジャいるし、それにたかる土産物屋もうるさくていまいち。
それどころか、旅の初めにあまりにも衝撃的なこの2つを見てしまったためその後見た数々の遺跡が全て大した物に思えなくなってしまいました。
そのくらいスゴイのだよ、夜のピラミッドと朝のぺトラは。
2003年9月16日火曜日
台湾の事情
台湾には大きく分けて2つの人々が住んでいる。
1つは元々この島に住んでいた人々、高砂族という名で呼ばれたりもする。
もう1つは戦後共産党に追われ大陸から逃げてきた蒋介石率いる国民党の中国人。
現在は西部の大都市に中国人が住み、政治経済に中心を担い、元々いた人らは東部や山間部の貧しい地域で暮らしている。
そんな山間部を訪れたときのことだ。
日本統治時代を経験している年配の人はもちろん、その子供の代までもが今の日本人の忘れてしまった美しい日本語をしゃべっていた。
訪れる前は韓国と同様、日本人に対し恨みを持っているのではないか、と不安に思っていたのだが話してみると全く違っていた。
日本時代は平和に上手くやってこれていたのに(もちろんそうでない事件もいろいろあるのだけど)、あとから入ってきた奴ら(中国人)がそれをメチャクチャにしておいしいところだけ持っていってしまった、と。
日本は素晴らしい所なんでしょう?死ぬ前に一度行ってぜひ皇居を拝んでみたいです、と言う人もいた。
もしかしたら現存する真の大和魂はここにしかないのかもしれない・・・
日本人、反省せよ!
韓国、ソウルの南に「独立記念館」がある。
何年か前に日本が教科書問題で日韓の歴史をうやむやにしようとしたことに対し韓国国民が怒り、「歴史を忘れ去ってはならない!」と、秀吉の時代から日本が韓国にしてきた悪行の数々を広大な敷地の中に模型と映像で示したものである。
展示には拷問の再現シーンや、後ろ手に縛られた韓国人が日本兵に銃で頭をぶち抜かれる映像が流れていたりと見ているとドーンと暗い気持ちになってしまうようなものばかり。
説明文には、韓・英・中・日の4ヶ国語で書いてあるのだが、見学に来ている人らの感情を察するに日本人とばれてはリンチに遭ってもおかしくないような感じがしたので顔は韓国文に向け目だけ日本文を追ったり、切符を買うときもピッタリの額を出し、中でも一言も口をきかぬなどのささやかな努力をしてみた。
しかしこういう時に限って子供に「ねえねえ、トイレはどこ?」ときかれたりして困ってしまった。
とにかく見終わった後は、悲しいような、情けないような、申し訳ないようなひたすら反省するだけであった。
日本人は焼肉食って免税品を買うだけじゃなくてこういう所にぜひ行くべきであろう。
ただ気になったことが一つだけある。
ここは韓国の小学生の社会見学として定められているらしく全国からバスに乗ったものすごい数の小学生が続々とやってくる。
日本が韓国に対しひどい事をしてきたことは事実だろうし、その歴史を知ることは大切である。
しかしまだ現在の国際関係もよく理解していないような子供のうちに、このようなショッキングなシーンをこれでもかというくらい見せつけてもよいものだろうか?
これがトラウマになって、よくわからないけど日本人は悪いやつだ!と思い込んだりはしないのだろうか?
せめて高校生くらいの分別のつく歳になってから見せるべきではないのだろうか?
この疑問を、ソウルにいた日本統治時代を経験していた日本語ペラペラのおばあさんと、帰国後にも友人の韓国人に聞いてみた。
するとやはりこのことは韓国でも問題になっているらしかった。
しかも時は日韓共催ワールドカップ前年であり、両国は不幸な過去を忘れこれからは協力してやっていこう、と言いながらもう一方では日本の悪を強調している。
改正すべきとの声が上がっているらしかった。
W杯が終わって一年。
今もまだ多くの小学生が見学しているのだろうか・・・
ワレ登頂セリ
エジプト、カイロでのこと。
エジプトと言えばピラミッド。
ピラミッドと言えば登りたい。
というわけで登りに行きました。
しかし昔登ろうとして落っこちて死んだ人がいたらしく、法律でピラミッドの登頂は禁止されています。
だから夜中にゲリラ的に登るのです。
宿にお金パスポート時計などは全て置いておき、身元不明にしてわずかなお金だけを持って深夜、カイロから10km離れたギザへ向かいます。
タクシーはピラミッド入り口のちょっと手前で下り、塀を乗り越えて、隣接するゴルフ場をルパン3世のように走り抜けると砂丘にぶつかります。
その丘を越えていたとき同行していた人が「アッ!」と叫びました。
何かと思ってそちらを見てみると・・・
そこには月夜に浮かび上がる巨大な三角形のシルエットが!!
立ち尽くす、というのはこういうことを言うのでしょう。
しばし呆然。
ふと我に返り、いよいよ登頂開始。
辺の中央部は石の角が削れて危ないので四隅から登りましょう。
一つの石は高さ1mくらい。
階段状になっているので登るのは簡単です。
ウンショ、ウンショと頑張りつづけて140m、ヤッター!頂上にたどり着いたぞー!!
満天の星空の元、日の出を待ちます。
一番高いクフ王のピラミッドの頂上は石がなくなっていて10m四方くらい平らになっています。
石に彫られた落書きには数百年前のがあったりして長い登頂の歴史を感じさせます。
しかしとにかく寒い!
ただでさえ砂漠の夜は冷える上、風が吹きっさらしなので寒くてたまらない!
岩陰に身を寄せて風をしのごうとしても、なぜかそこにウ○コがあったりして臭い。
やがて東の空が白みがかるころ、カイロの町からうねりのようにアザーン(朝のお祈りのお知らせ)が聞こえてきて荘厳さはピークを迎えます。
さて日の出を見終わったところで下山。
しかしここからが本当の試練なのです。
下るのは簡単。
問題は下で警官がニコニコしながら我々の下山を待っているのです。
もちろん我々を捕まえるためです。
「コラコラキミタチ、ココニ登ッチャダメダヨ。」
「言葉わかりません」
「悪イコトシタラ牢屋ニ入ル、コレエジプトノオキテ。」
「そうだ皆さんにプレゼントがあるんですよ。」
こうして来る時ちょっとだけ持ってきた小銭(10円くらい)を渡せば無罪放免。
警官は毎日のようにやって来る登山客からお小遣いをもらえるし、我々は憧れのピラミッドに登れるし、両者利害一致し皆ハッピー。
でもこれは7年前の話です。
最近は登ると本当に牢屋に入れられちゃうらしいので登るならそのつもりでどうぞ。
2003年9月12日金曜日
人口爆発大国PART2
ご存知の通り現在中国では一人っ子政策実施中。
といっても誰も彼もが子供は一人!というわけじゃなくて省ごとにルールが違います。
厳格に「一人だけ」と決まっているのは東海岸を中心とした都市周辺。
人手を必要とする農家や少数民族には適用されません。
またこの定めは何十項目にもわたる長い規則で、それがかかれた大判のポスターが人の集まるところ(食堂など)に張ってあります。
読んでみると「結婚は男23歳以上女20歳以上」とか「もし第一子が障害者だった場合4年後以降に第二子をもうけてよい」とか。
それでいてもやはりできてしまうと巨額の罰金を払わなければならないので戸籍のない子供がたくさんいるらしい。
そういう子はもちろん学校には行けません。
中国の人口は公称12億、実際は15億人とか。
インドも人口は増加の一途をたどっています。
政府は産児制限を呼びかけているけど強制力がないので,そんなの俺の知ったことか!とみんなポコポコ産んでしまいます。
ヒンズー教徒に聞くと「イスラム教の奴らが嫁を何人ももらって10人も20人も子供を産むから悪いんだ!」と言います。
人口で劣るムスリムが挽回しようと頑張っているんですかねえ。
現在人口10億のインド、このままだと50年後には20億人に達するとか。
トルコでのこと。
子供が10人いる家に居候していました。
その家は農家ではなく人手を必要としているわけでもないし、お金持ちというわけでもないので「10人もいたらお金がかかって大変ではないのか?」と聞くと「たくさん子供を作って、その中に一人でも優秀な人間ができればそれで家族全員を養うことができるからそれでいいのだ!」と・・・
「下手な鉄砲・・・」の原理ですね。
2003年9月10日水曜日
永遠なれチベット仏教
「チベット仏教」と聞いてどんなイメージを思い浮かべますか?
4000m以上の険しい山の中の寺で、黙々と五体投地で祈る厳しい宗教・・・
そんな感じではないでしょうか。
でもそのイメージを持ってラサに行くとビックリしますよ!
あずき色の袈裟を着た坊さんが町でビリヤードやっていたり、VCD屋で香港映画を見てゲラゲラ笑っていたりするんですから!
本山ジョカン寺の前では多くのチベット人が五体投地を繰り返していてこれもイメージに近いのですが、よく観察してみるとみんなおしゃべりをしながら楽しそうにやっている。
ある時まるで筋トレをしているかのようにものすごいスピードで五体投地をしている人がいたので不思議に思って聞いてみたところ、
「腹が減っているからさっさと済ませて帰りたいんだ」
とのこと・・・。
食欲と信仰欲とのせめぎあいですね。
2003年9月6日土曜日
ハッピーバースデー!
一年前私は30歳になった。
いったいどこでこの記念すべき日を迎えるのだろう、とだいぶ前から気にしていたのだが、結局東チベットのとんでもない山深い中で、しかも周りに人も住んでいないような所なのでその辺の空き地にテントを張ってキャンプしていた。
暗くなるとやることもないのでさっさと寝た。
静かな30歳の訪れだった。
しかし翌朝目が覚めて外に出てみると、昨日は雲がかかっていてわからなかったのだが目の前にドカ〜ンと巨大な三角形の雪山が顔を見せていた。
誰にも祝ってもらえなかったけどこの山だけが祝ってくれているような気がした。
しかしそもそもチベット人は誕生日を祝う習慣はないらしい。
それどころか一般の人は自分の誕生日すら知らないのだ。
(ダライラマだけは特別で、ラマの誕生日はチベットの祝日)
大切なのは日ではなく生まれた曜日である。
これはビルマ仏教でも同じで、各曜日ごとに自分の守護動物(?)があり、それに願をかけるのだ。
日−トリ、月−トラ、火−ライオン、水(午前)−牙ありゾウ
水(午後)−牙なしゾウ、木−ネズミ、金−モグラ、土−竜
あなたは何曜日生まれですか?
2003年9月5日金曜日
中国的多人房事情
多人房とはすなわちドミトリー(相部屋)のこと。
小さな村のホテルではドミはなくシングルで5~10元(80~150円)位ですが、観光地や中都市になると値が上がるので多人房に入れば1ベッド5~10元位で済みます。
観光地の多人房は外国人でいっぱいで英語が共通語の異様な世界ですが、観光地でない都市の多人房は地方からの出稼ぎ工事のオッサンで占められていることが多いです。
中国人はお国自慢が大好きなのでいろんな土地の話が聞けます。
それにそういう人は1ヶ月とかの長期でいるのでその町の穴場、路地裏の安ウマ食堂、楽しい飲み屋、あんなこといいなできたらいいな的店などの情報をたくさん持っていて一緒についていくといろんな体験ができます。
中国ではまだ海外からの出稼ぎには会ったことはないですが、以前ヨルダンのアンマンで同じような出稼ぎドミに泊まった時は、ヨルダン・シリア・エジプト・イラク・スーダン・イエメンのアラブ多国籍軍状態。
ポツンと現れた日本人は格好のおもちゃで、いろんな所に連れていってもらい、ホモに2回も寝込みを襲われるなどエキサイティングな経験をしました。
その点中国はちょっとおとなしいかな・・・今のとこ。
中国的自転車事情
自転車を止めて休憩していると「ちょっと乗ってみていいか?」と言われます。
これは中東でもよく言われたことで乗せてあげるのですが、自転車にあまり乗らない中東人は重い荷物にまたぐだけでもフラフラしてしまうのに対し、さすがここは自転車大国!
皆さん容易に乗りこなしてしまいます。
ただあの前傾姿勢とギアチェンジにはかなり戸惑うようですけど。
在中国日本人旅行者事情
そのアメリカ人と一緒にいるときは皆は私を見ると「このアメリカ人のつきそい中国人ガイドかな?」と思うようでちょっとは気にしてもらえますが、一人だと一見中国人と同じなので誰も気にしてくれません。
だから混んでいる飯屋なんかに行くと主張するのが大変で結構苦労します。
ただ一旦日本人だと分かると意志疎通できる(筆談ですが)こともありすごく親しみ持ってくれてありがたいです。
それに一見中国人なので路地裏とかアヤシゲな店とかにもズカズカ入っていけて楽しいですよ。
中東でもやりたかったけど無理だったなあ、すぐ人だかりができちゃうから。
在中国外国人旅行者事情
先日まで3週間ほどアメリカ人サイクリストと行動を共にしてきました。
二人ともチベットを目指していたのですが、私が、4時には走るのを止め、後は町ブラブラ、地元交流、気に入った町なら1週間でも1ヶ月でもいたい、滞在・交流重視型なのに対し、彼は日が沈むまで走り続けとにかく先を急ぐ移動型でした。
その間は互いに妥協しながらやってきたのですが、このままだとお互いの旅に無理が生じるので
「今度生まれ変わったら一緒に旅しましょうね」「うん」
と納得し別れました。
それ以外にもどーにも彼とは合わず、私が現地の人が食べるものならゲテ物だろうと何でも食べ、飲むものを飲む(水道水だって生水だって)のに対し、彼はポテト・トマト・牛肉以外には箸もつけず、水は買うのみ。
私が頑張って言葉覚えるのに、彼は2ヶ月いるのに言える言葉は「プーヤオラー(辛いのなし)」のみ。
「アメリカに帰れ!」と何度出掛かったことか。
彼に限らず西洋人旅行者に多いのが旅先に自国文化を求める人が多いこと。
朝はパンとコーヒーだったり、夏なのにホットシャワーをねだったり、英語しか話さなかったり、と。
東洋人旅行者(日韓台)が現地文化に溶け込もうと努力する人が多いのに比べ彼らの傲慢さが鼻につくときがあります。
これが植民地支配を広げてきた側とされてきた側の違いかと思うのは考えすぎかな?(日本も一時してましたが・・)
旅のスタイルは人それぞれなのでとやかく言う問題ではないのかもしれませんが
「When you go to Rome, You should follow Roman rule.」
という言葉があるくらいなんだからもう少し努力してもいいんじゃないかなー、と思いました。
なーんて偉そうなこといってしまいましたが、実は私も異国文化を中国に持ち込んでいるのだ。
それはズバリ「ハンドウォシュレット」。
サイクリストにとって肛門様は生命線なのだ!!
清潔一番!!
中国的漢字事情
中国を旅するにあたって筆談は大変心強い交流方法ですが、やはり同じ文字でも意味が違ったり、字が簡略化されすぎて分からなかったり、そもそも日本にはない文字だったりして全て理解するには勉強しないとだめ。
私も毎日すごい量の筆談をしてきて(ボールペンの芯が1週間でなくなる)かなり筆談能力はアップしました。
それに発音は土地が移るにつれどんどん変化していくのでついていくのが大変ですが、文字はずっと共通なのも便利です。
やっぱりたった1文字で意味が伝えられるというのはすごいことだと思います。
ただ時折ビックリするような文字もあって
牙科・・歯医者のことです。噛まれそうですね。
炎熱・・天気予報で、気温は高いでしょう、のこと。燃えそうです。
雑誌読んでたらアイドルのプロフィール紹介があり
「身長5尺4寸」
なんか雷電為右衛門みたいで笑えました。
中国的靴事情
ここに来るまで靴は一度も履いたことがなく、ずっとスポーツサンダルで通してきたのですが、先日カカトが壊れたので中国人民の皆さんを見習って便所サンダルを買いました。
さすが中国4000年の歴史が生み出したものだけあって、安い、丈夫、吸水性ゼロ、そのままシャワーに入れる、などいいことずくめ。
愛用してます。
しかも人民の皆さんはこれで登山もしてしまうのでマネしてハイキング登山してみたらツルツル滑って大変でした。
やはりまだ修行が足りないようです。
それにやはり長距離サイクリングには向いていないような気も・・・。
私はもう少し修行してみますがよい子のみんなは真似しちゃだめだよ!!
中国的厠所事情
厠所とはすなわちトイレのこと。
中国の公衆便所は通称「ニーハオ便所」。
扉がないのが普通です。
これも慣れの問題で、隣のオッサンのりきむ顔を見ながらクソするのもまた一興。
また、ブタさん便所というのもあり、下でブーブー待っていて出したものをそのまま食べちゃう。
その近くで豚肉の料理を食べると食物連鎖を感じます。
ただ自転車に乗っていて意外な所で困ったことがありました。
それは野グソポイントがなかなかないこと。
中国の土地はおよそ人の手の届く所(道路脇はもちろんのこと、山ひとつが頂上まで全て棚田になっていたりする。どうやって上まで水を供給しているのかは今もって不明)は全て耕作地になっており、草むらとかが無いのです。
そんなの畑の隅でしちゃえばいいじゃん!と思うかもしれないけど、すげー山道でもどこへいくのかトボトボ歩いている人が必ずいて、その人にこういう所でクソするのをマジマジと見られるのはなぜか恥ずかしかったりするのだ。
中国的果皮事情
果皮とはすなわちゴミ全般のこと。
中国にしばらく居るとゴミをその辺にポイ捨てすることが気にならなくなります。
やはり初めはちょっと抵抗ありましたがある時考えを変えました。
町には多くの掃除おばちゃんがいてゴミを掃除してくれます。
それなのにもし中国共産党の大号令で「道にゴミを捨てたものは即死刑!」などという法律ができたら(共産党ならありえないこともなさそうでコワイ)在中国の何万人というおばちゃんが職を失うこととなり中国は大不況に陥ることでしょう。
ゴミを捨てることはおばちゃんの生活を守り、果てには中国経済のためだ!
そう思えばポイ捨てもミニNGOみたいなもんで、捨てた後は気分爽快!
ポイ捨て以外にも、歩きながら鼻ほじろうが、痰吐こうが、屁ここうが、一向に平気になりました。
ただ日本に帰ってからが心配ですが・・・
中国的発破事情
道路拡張やガケ崩れなどで道路工事はしょっちゅう。
道路をふさぐ岩を除くための発破作業もしばしば。
この前トロトロ走っていたら工事のオッサンに止められ「今から発破があるからちょっとこっちに来て」と道の端に寄せられました。
数分後、わずか100m位の所で10発のダイナマイトが爆発、頭の上を石ころがヒュンヒュン飛んで行きました。
国は広いくせにこういうところは狭いです。
これが中国式。
中国的電脳事情
電脳とはすなわちコンピューターのこと。
山奥なら話は別ですが、そこそこ人の集まっているところには必ずネットゲーセンがあり、小学生が巧みにマウスを操りブロードバンドシュミレーションで遊んでいます。
外で人力のみで巨岩を叩き割っているのとはえらいギャップを感じますが・・
ネット屋は携帯電話とともに急成長分野らしくあちこちに店があり新店舗は新マシンを入れているので環境はかなりいいです。
しかもADSLが標準。
それでいてフツーの町なら1時間20〜30円くらい。
PCの値段は日本よりも高いので買うなんてしなくてもこれで充分みたいですね。
中国的回族事情
回族とはすなわち在中国イスラム教徒のこと。
ウイグル方面だけかと思ったら南方にもいるんですね。
町にはたいてい回族街があって、店には例のミミズ文字の看板があるのですぐわかります。
以前その回族街に1週間ほど滞在してました。
5年ぶりのイスラム世界でしたが、1日5回のお祈りはどこへやら、昼間から酒は飲むし(豚肉は食べない)、その堕落ぶりはトルコ並みか。
いや、中国のモスクはアザーン(お祈りの時間ですよーの放送)すらないのだ。
でもアゴヒゲをフサフサに生やしたおじいちゃんが「ワシは10年前にメッカ巡礼に行ったのじゃよ」と話しみんなからの尊敬を集めているのを見るとなんか嬉しくなっちゃいます。(アゴヒゲはメッカ巡礼を済ませた者の証拠)
中国的少数民族事情
ここまで私の通ってきた道は中国南部の少数民族の居住区、これまでに10くらいの族に会いました。
それぞれの族はそれぞれの服があって(こう書くと特攻服みたいだなあ)女の人は普段からアイデンティティを誇示するかのように民族服を着ているので、見慣れない衣装を見ると、新しい地域に入ったな、と分かります。
ただ少数といっても10数億の大部分を占める漢民族に比べればの話であり、その数はかなりのもんでは?
以前ある族の人に「漢民族とは仲いいのか?どれくらいの人数がいるのか?」と聞いたところ、「民族団結、国家発展」という教科書通りの答えが返ってきて、やはり通りすがりの外国人には本音は漏らせないんだろうなあ、と思いましたが、数については「漢族よりは少ないけど○○族よりは多い」と、ちょっとライバル心も垣間見えたりして興味深いところです。
(写真:広西省トン族)
中国的裏床屋事情
知っている人もいるかもしれませんが、中国の床屋には2種類あって、ひとつはおっさんのやっているフツーの床屋。
もうひとつはピチピチ小姐がミニスカートで迎えてくれる床屋。
以前町を歩いていたら後者の求人広告を見つけました。それには・・・
・年齢18~22歳
・容姿端麗
・歯が揃っていること
・経験不問
結構厳しいです。
でも一応床屋だから髪も切らねばならなく、ガキを練習台にしているのを見かけました。
15分後・・・
あわれガキの頭はデコボコに。結局ママさんが仕上げ直してました。
中国で床屋に行くときは目的を明確にして行きましょう!!
中国的麻雀事情
中国では老いも若きも男も女も4人そろえば即麻雀。
昼飯食ったらおばちゃん電話で4人集めて家の前で野外麻雀。
私も果敢に勝負を挑み続け、始めのころはよく分からない手であがられ負け続きだったのですが、中国的規則が分かってきて最近はトントンの勝負ができるようになりました。
以前中東でバックギャモン習得のためにアラブ人に100連敗くらいしたことを思えば素早い上達です。
ルールは単純で、頭2枚に3×4の組を作れば役など必要なく、ポンしようがカンしようがお構いなし(ただしチーは大陸にはないようだ。台湾にはあるらしい)。
とにかく勝負が早くて流局はありえない。
そして当然金は賭けていて、一勝負(半チャンではない)ごとに、ロンで10元(150円)、ツモれば全員から10元で30元。
なんだ、安いじゃん、と思うなかれ。
庶民の平均月収が1000~1500元の中国では、日本で20万稼ぐ人の2000円に相当する金が一勝負ごとに動くのだ。
以前おばちゃんから50元くらい勝ってしまい、もらうのは悪いので遠慮しようとしたら、おばちゃんのプライドが許さないらしく
「いいからとっときなさい!ただし明日も勝負するから出発しちゃダメだかんね!!」
と言われ翌日見事に100元持ってかれました。
おそるべしおばちゃん。
ただ昔ジャッキーチェンの映画「プロジェクトA」の中で、サモハンキンポーの初登場シーンは麻雀をしているところであり、彼が役満を狙っているのを見て、派手好き・目立ちたがりの中国人は絶えず役満狙いの派手な麻雀をしているものとばかり思っていたのに、まさかポンジャンみたいなショボイ麻雀をしていたとは・・・。
長年信じてきたものに裏切られたような気分です。
中国的道路事情
中国はさすが自転車大国。道路には自転車専用レーンがあってそこを走れば快適です。
道も広く、ゆうゆう人民号とともに快適なサイクリングが楽しめます。
しかしそれは大都市周辺に限ったこと。
田舎の方に入ってしまえばたとえ幹線国道であろうとも山の一部を削っただけのダート道であることが多く、一歩間違えば奈落の底へ。
しかもその道も砂利道ならまだマシなのですが、土道なので車が通れば土埃がもうもうと立ち、湧き水の出るところでは足首まで埋まる泥沼と化し、一日の平均時速が5km/hということもありました。そんな道が300km(1000m峠含)も続いたときはホントにバスに乗ろうかと思いましたね。
僕の外国語覚え方術(番外編)
中国語の場合、下の方法に加えもっと効果的な方法があります。
それは筆談。
多少日本で使っている漢字と意味が違うものがあったり、略され過ぎて不明な漢字があったりするけど下手な英語よりよっぽど細かな感情を伝えることができます。
で、私の場合、筆談中には必ず書かれたものを読んでもらうようにしていました。
また書いた文の中におかしなところがあるときは直してもらうようにしていました。
中国語は発音は難しいけれども、なんとなく日本の熟語の発音と似ているので、アラビア語を覚えるよりははるかに簡単です。
加油!(がんばれ) 再見!(では)
僕の外国語覚え方術(暇人用)
言葉はコミュニケーションの基本。
ほんのちょっとでも現地語を話せば全然ウケが違います。
ここでは私流の現地語マスター術を紹介しましょう。
1.あいさつ!
「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」
最低でもこの3つは覚えましょう。
ガイドブックの会話集の中にも絶対あるでしょう。
向かう飛行機の中で覚えられるはず。
「テシェキュレデリム」(トルコ語のありがとう)
「チェーズティンバッレーカミャ」(ビルマ語のありがとう)
一見覚えにくそうだけど、本を見ながらでもいいから何度も使っていると自然と口から出てくるようになります。
これを言えば相手もきっとニッコリ笑顔を返してくれるでしょう。
これだけなら短期の旅の人でも十分覚えられますよね。
これすら覚えようとしない人はさっさと豚小屋に帰ってウ○コでも食っててください。
2.何言ってるのかさっぱりわからん!
全く未知の言語圏に入ると誰かが話し掛けてきたとしてもベラベラベラ〜と音として聞こえるだけで
質問されているのか怒られているのかすら解りません。
第2段階として「5W1H(いつ、誰、どこ、何、どちら、どのように)」に相当する言葉を覚えましょう。
その単語が聞こえれば少なくとも何か質問しているんだな、くらいは解ります。
「どこベラベラベラ〜」と言われれば、たいてい「どこから来たのか?」か「どこへ行くのか?」なのでどっちか答えればその質問文も解ることになります。
3.もっと語彙を増やしたい!
その辺で遊んでいる中学生か高校生をつかまえましょう。
この辺りの子は学校で習った英語を試したい盛りであり、外人と話したくて仕方がない。
「これは何?」と聞きまくって語彙を増やしましょう。
「寒い」「大きい」などの簡単な形容詞もわかるでしょう。
また、名前・年齢・場所の聞き方なども手に入れましょう。
このときに注意をひとつ。
会話集にもこの手の質問は載っていますが、そちらには「あなたのお名前はなんというのですか?」とか
「ここの地名は何というのですか?」といったような長々とした文章になっているので覚えにくい。
だから、「名前は?」「ここどこ?」みたいな聞き方を教えてもらいましょう。
そのほうが短くて覚えやすい。
4.更に高く!
単語だけを並べると並べるだけでも充分意思は伝わりますが、もっとしっかりした話がしたい人は大学へ行きましょう。
日本のバカ大学生と違って海外の大学生は大変しっかりした英語を話せる人がほとんどなので、そこの大学生をつかまえて過去・未来形、男性女性形、文による変格の仕方、など高度な文法を学びましょう。
聞いたところで覚えなければ意味がない。
私の場合は昨日仕込んだ言葉を紙に書いて、自転車のハンドルに張ってブツブツ唱えながら自転車こいでました。
また、ランダムに時計を見て8時42分なら「八百四十二!」と言う練習をしておけば買い物にも困りません。
こうして1日20個ずつでも覚えていけば1ヶ月もすればそこそこ会話が成り立つようになります。
しかしそれだけやっても「ベラベラベラ〜」と話し掛けられるとサッパリ解らないときがあります。
そういう時は適当に「ウンウン」とうなづいてみましょう。
そのまま話が続けばそれでいいし、もし相手が困った顔や悲しそうな顔をしたときにはあわてて「違った違った、ノーノー」とごまかしましょう。
この方法なら高い金払って留学する必要もなし!
目指せ!マイナー語マスター!!!
中国的色物事情
香港は無法地帯です。
中国本土に入ると合法か違法なのかはわからないけどほとんど見かけなくなります。
でも「大人用品店」というのがあって、コケシみたいなのがズラリ並んでいる店がデパートの中にあったりしてビックリさせられます。
これは「一人っ子政策」の一環らしく、子作り以外の方向にエネルギーを費やすためだとか。
また、おおっぴらに本とかは売られてないけど、裏道を歩いていると「エロVCD映画館」があって入り口には「色情女子痴態暴露」とか「悶絶快楽絶頂交友」とかものすごく観たくなるようなタイトルが並んでいるので観に入ってしまいました。
しかし中身は香港製のしょーもないコメディーエロ映画だったりしてガッカリ。
漢字は罪ですねえ。
ちなみに「キモチイイ!」は中国語で「爽!」。
「爽健美茶」は中国ではかなりきわどいイメージになるらしい。
中国メシうまい!
安そうな小さな汚い食堂があったので入ろうとしたところ、店主はちょうど麻雀の真っ最中。
「お忙しい中申し訳ないですが一品作ってくださいな」と頼むと店主は負けていたようで大変機嫌が悪く面倒くさそうに調理しぶっきらぼうに出してきた。
しかし・・・
ウ、ウマイ!
あんなに適当に作っていたのに!
ながきに渡り滞在した中国を飽きることなく楽しめた理由の一つにこの中華料理のうまさがあるのは間違いないですね。
どんな所で何食べても基本的にハズレがない。
数ヶ月居ても全メニュー食べるのが不可能なくらいバリエーション豊か。
中国人の友達と行けば調理法まで指定して、更にディープな中華を楽しめること請け合い。
でも残念なのは一皿が大量なので一人旅だと一回に一品しか食べられないこと。
やっぱり中華は大人数でテーブルを囲んでいろいろな皿をつつくのが楽しいですよね。
中国人との付き合い方
中国人はとっつきにくいです。
初めて入る食堂・宿では
「何か知らない変なやつが来やがった」といういやな目で見られがち。
でもそこで勇気を出して入り込み、笑顔で自己紹介すると
「おやまあ、よく来てくれたねえ!」
とあたたかく迎え入れてくれます。
再度行けばもう彼らの友達同然。
周りの人に「こいつはなあ・・」と紹介してくれます。
小さな町だとすぐに町中に知れ渡ることとなり、通りを歩けばみんなから
「メシ食ったか?(仲良い人は「ニーハオ」ではなく、これが挨拶となる)」
の、箸で口にかき込むポーズをしてくれるようになります。
仲間入りできたようでちょっと気分いいです。
2003年8月19日火曜日
去り難しビルマからの道
8月15日、バンコクに向かう便に乗るため空港に向かう。
無事チェックイン、出国審査も済ませ、あとは搭乗を待つのみ。
しかし!
いつまで経っても搭乗のアナウンスが入らない。
1時間、2時間・・・やっと人の動きがあった。
でもそれは乗り込むためではなく係りに詰め寄るための動きだったのだ。
聞けばエンジントラブルのため今日の便は欠航、今日は近くのホテルに泊まってもらい、明朝の便に振り替えるとの事。
そう言えばさっきから外で「キュイーン、キュイーン」と何度もエンジンの音がしてたっけ。
別に急ぐ旅ではないので豪華ホテルにタダで泊まれるならそっちの方がいいや。
その日は豪華ディナーのあとプールで泳ぎACの効いた部屋でフカフカのベッドにもぐりこんで快眠。
翌朝・・・
指定された時間に空港に着くとそこはすでに狂乱の事態。
元々この便の予約をしていた分に昨日の客が入りこんだもんだから大量のオーバーブッキングが発生。
社会人休暇で来ている人は、「これが限界だ!会社にどう説明するんだ!」
と詰め寄るし、昨日の客は、「2便もキャンセルとはどういうつもりだ!」
と詰め寄るし。
私としては別に急ぐ旅ではないので豪華ホテルにまたタダで泊まれるならそっちの方がいいや、と早々に搭乗を放棄しホテルに戻って飯食ったりプールで泳いだり。
この日の夕方の別会社便にも振り替えがあったのだがそれにも乗れずに結局合計3便とばされ、48時間後の4便目にやっと乗れました。
しかしこの間まったく抵抗することなく、逆に嬉しそうに指示に従っている私の態度に職員も気づいていたようで「You have happy life in Yangon!」
とイヤミめいたことまで言われてしまった。
貧乏ってやだね。
成り難しリコンファームの道
バンコク行きの航空券のリコンファームをやりに、ヤンゴン市内のインディアンエアラインズのオフィスに行った時の事である。
予定より早めの便に変更してもらうよう申し出たところ、返ってきた答えは
「早めの便どころか元々の便もないわよ。」
一体何を言っているのかよく理解出来ない。
もう一回詳しく言ってよ。
「8月に入って突然ミャンマー政府がインディアンエアラインズに対し許可を下ろさなくなったため以降の便は全便キャンセル。もしバンコクに行きたいんだったら41ドル払えば別会社の便に振り替えてやってもいいわよ。」
オイオイ!やってもいいわよじゃねーだろ!!
そっちの責任なんだからそっちが代替金保証すべきだろう!
と怒ってみるも
「今はマネージャーがいないので明日もう一回来い。」
明日もう一回行ってみる。
ターバン巻いたインド人マネージャーと対決する。
しかしさすがはインド人、こっちの話には全く耳を貸す様子はなくわびの一言もなし。
「半分しか飛んでないんだから半額返却せよ」と言っても
「これは安チケットだから返却は出来ない」とか、
「なぜ許可却下を事前察知出来なかったのか?業務怠慢ではないのか?」と言っても
「ミャンマー政府がすべて悪いのだ。こっちこそ被害者だ」とか、
「41ドルも手持ちがない(ビルマでは現在カード・TCの使用一切不可)」と言っても
「どっかで借りるかしてかき集めてこい」とか。
挙げ句の果てには
「このままごね続けてもビザが切れて不法滞在になってもっと困った事になるぞ!」
と脅しみたいな事を言われる始末。
それでも交渉の末、何とか30ドルまでまけさせるが、どうも釈然としないままバンコク行きのチケットをひとまず手に入れる事が出来た。
しかしこれで終りというわけではなかったのだ・・・
バングラ・ビルマ比較概論第一(2単位)
バングラデシュとビルマ。
地理的には東西に接する国同士であるが、その性質はまったくもって異なる。
海を挟んでいるわけでもなく、ヒマラヤのような巨大な山脈を挟んでいるわけでもない。
しかしありとあらゆる点が違うといっても過言ではあるまい。
気づいた点を列挙してみよう。
・顔
彫りのふかーい顔立ちのバングラ人。日本人とそっくりのモンドロイド、ビルマ人。ビルマ人の顔はタイ人よりも日本に近いような気がする。親近感が湧きます。
・人柄
外国人を見ればほおっておけない強烈な好奇心を持ち、熱く正義感溢れるバングラ人。シャイで静かなビルマ人。バングラでこれでもか!というくらい質問攻撃を受けてきたのに対し、ビルマではだれも話し掛けてこないので、顔が似てるから気づかないのかな?と思いきや、やっぱり外国人とはわかっているけど声かけるほどの勇気はないらしい。
・食べ物
インドと同じようなカレー・香辛料中心のバングラ料理。いろんな味付けのあるビルマ料理。油っこいと評判の悪いビルマ料理ですが、8ヶ月間カレーばかり食べてきた私にとっては天国のような毎日です。
・服装
男は洋服、女はサリーが標準のバングラデシュ。男性は家の中ではルンギという巻きスカートをはきます。しかしビルマではこの巻きスカートが男女ともに外出着となります。巻き方が両国でちょっと違ってバングラ巻きでビルマを歩くと「違うよ」と注意されちゃいます。でもバングラ巻きの方が緩みにくいので私は好き。
・交通
先行く車があったら追い越さずにはおれない気狂いドライバーばかりのバングラ人。対向車が来るとライト点滅させ端により減速して道を譲るビルマ人。これは歩行者も同じで、ひたすら直進してくるバングラ人と、さっと道を譲るビルマ人。ビルマでは町で信号がちゃんと機能しているのにも驚かされました。
どちらも日本の中古車を大量に輸入しているので、街で見るのは右ハンドルの日本車ばかり。しかし共にイギリス領だったのに、バングラは左通行でビルマは右通行。だからビルマ車は追い抜く時はすごく大変そう。輸入されたバスも右側をぶち抜いて出入り口を付けています。(左側の元々ある扉は開かずの扉)
・ボリ方
観光大国タイとインドに挟まれ忘れられがちなこの2国。観光客が少ない分、どちらも観光ズレしていない素朴な旅が出来るかなあと思っていたのですが・・・
バングラデシュは素朴そのもの。まずボッてくるということ自体ほとんどないのですが、ごく稀に買い物しようとしてちょっとでも相場より高い値段を言おうものならそばにいた客が「てめえ、言葉の不自由な外国人からボろうとはふてえ野郎だ!正しい値段で売ってやれ!ついでにオマケも付けてやれ!」と怒ってくれるのでいつも安心して買い物出来ます。
しかしビルマにおいてとても驚いたのが、庶民向けの店や食堂でも平気な顔してぼってくるのです。しかもそのボリ方が相場の2倍3倍という大胆さ。ぼっている事に気づいて値切ろうとしても頑として譲らず駆け引きを知らない。特に観光地はひどい。一般市民がそれを見ても見ぬふり。政府のやっている外国人料金制度に商店も追随している感じがします。
しかし今回私が見たビルマは都市と観光地だけなので、一面から見ただけでこの国を判断するのはよくないですね。
もっと田舎や普通の町に行けばきっと素朴な人達に会えるんでしょうね。
経済格差
アジアでは観光地や交通機関に外国人料金が設定されていることが多いです。
有名なところでは、
エジプトのピラミッド:5倍(外人300円、現地人60円 7年前の話です)
ヨルダンのペトラ:20倍(外人3400円、現地人170円 これも7年前)
チベットのポタラ宮:40倍(外人1200円、現地人30円)
インドのタージマハル:75倍(外人3000円、現地人40円)などなど
私の知る最高差はこのタージの75倍だったのですが
遂にそれを超えるものが現れた!!
それがビルマの国立博物館!
現地人1.2円に対し、外国人は600円!
その差怒涛の500倍!!
果たしてこれを超えるところはこの地球上にあるのか!!?
ご存知の方は下記までご一報ください!!
東京都港区 世界外国人差別撤廃委員会 日本支部
ビルマの竪琴
今回ビルマを訪れた理由は、昔映画「ビルマの竪琴」を見ていたく感動したかの地を自分の目で見てみたい、というものでした。
実際来てみるとやはりあちこちの寺に「○○巡礼団寄付金¥30000」とかあって多くの日本人がこの地に関係していることが分かります。
そういう寺の参道の土産屋には「ビルマの竪琴そば」や「遺骨収拾に行ってきましたクッキー」が売っていたり、水島上等兵の顔をくり貫いた看板で記念撮影が出来るようになっていたりするようなことはありません。
寺がものすごい数ありもちろん僧侶も沢山います。
彼らは人々から尊敬されてはいますが、大観光地バガンにいたある僧は歩いていると近寄ってきて
「チェンジマネー?」
小坊主がワーッと近寄ってきて、写真撮ってよ、というのでパチリ撮ると
「1$」
観光地は僧侶をも腐らせるらしい。
(写真:お金はあげないよ!)
パスポート作成料99%OFF!!
日本で10年物のパスポートを作ると15000円。
諸外国の日本大使館で作ってもそれ相当の現地通貨を払わなければなりません。
しかし!
ビルマにおいてはそれがたったの120円で出来てしまうのだ!!
スゴイ!大安売り!!太っ腹!!!
からくりはこう。
ここビルマにおいては公定レートと実勢(闇)レートの差が130倍もある。
銀行なら1$=7チャットしかくれないのに闇なら1$=1000チャットくれるのだ。
もちろん銀行で両替する人なんて誰もいないのだが、さすがに政府機関である大使館が闇レートで換算するわけにもいかないので公定レート換算すると、たった120円ぽっちでOKとなってしまうのだ。
だからパスポートの期限が切れそうな年の海外旅行は迷わずビルマにすべし。
戸籍謄本だけもってビルマに行けば観光ついでに新パスポート作れるよ。
ページの増補だけなら15円。
ただし大使館がドルばらいのみ可、とルール変更したら終わりですけどね。
(他国の大使館はみんなドルばらい。こんなばかなことをしているのは日本大使館だけです。いかにもお役所的ですね)
遙かなりビルマへの道
7月28日10:00、定刻通りカルカッタを飛び立ったヤンゴン経由バンコク行きインディアンエアラインズ727便は2時間のフライトの末ビルマの首都ヤンゴン上空にさしかかった。
窓からはヤンゴン郊外の風景が眺められる。
機は徐々に高度を下げその街並みもどんどん間近に迫って・・・
アレ?アレアレ??
だんだん遠ざかってゆく?!?!
錯覚ではなく間違いなく機は上昇しているのだ!
やがてアナウンス。
「何だかよく分かりませんが現在ヤンゴン空港が閉鎖されているのでこのままバンコクに向います。」
2時間後、何だかよく分からないままバンコクに着陸してしまった。
「ヤンゴンに向う方はこのまま席でお待ち下さい」
そう言ったままひたすら待たされる。
スッチーに聞いても
「何だかよく分からないのよ。この後取り合えず再びヤンゴンに向うけどまだ閉じていたらカルカッタへビューンね」
おいおい、ビューンじゃねーだろ。
ヤンゴンに向うのは私以外には、インド仏跡巡礼ツアー帰りのビルマ人団体。
さすが静かなる仏教国の人々だけあって皆おとなしく席に付いて冷静に待っている。
これがインド人だったらみんな口々にわめきたてスッチーに詰め寄りどさくさに紛れてケツを触ったりして大変なことになっていたところだろう。
私の頭の中では色々な考えが錯綜する。
突然の空港閉鎖ということはクーデターでも起こって反乱軍が空港やTV局を占拠し近づいてきた飛行機は無差別に対空砲で打ち落としたりしているのか?
カルカッタに戻らされたとしてもこっちのミスじゃないから代替出来るまで豪華ホテルでウハウハか?
もうビルマに行くのめんどくさいから3度バラナシで時間つぶすか?とか。
そうこう考えているうち機はバンコクを飛び立ち再びヤンゴン上空にさしかかる。
機は高度を下げる。
どうか打ち落とされませんように・・・!
やはり1年おきくらいに初詣に行きおみくじを引いたりするような信心深さが功を奏したのだろう。
何事も無くヤンゴン到着。
結局色々聞いても閉鎖の理由はよく分からないままだった。
今年は初詣に行ってないので、来年は行くことにします。
2003年7月20日日曜日
ありがとうバングラデシュ
いやー、バングラデシュの旅楽しかったですよ〜。
今回は基本的に観光地巡りしかしていないのですが、他のアジア諸国(特に北インド)で観光地しか行かないとうっとうしい輩がウヨウヨ寄ってきて嫌な思いをするだけで終ってしまいがち。
私が自転車旅が好きな理由の一つは、自転車だと必然的に観光地以外の所に行かなければならないのでそういう所ではボラれたり騙されたりすることが無く一般の優しい人たちに会えるからです。
しかしここバングラデシュにおいては観光地巡りのバックパック旅でもその優しさが味わえる!
この雰囲気は中東のシリアととてもよく似ていて(この例えで、なるほど!と思える人は少ないでしょうが・・)とても懐かしい気持ちになりました。
共通点として挙げられるのは・・・
1。どちらの国の人もやたら親切である。
2。どちらもやたら話し掛けてきてすぐ友達になれる。
3。友達になると親戚友人らに紹介するため町中を引きずり回される。
4。どちらも親日的である(バングラは国際援助で、シリアは日本赤軍の活躍で)。
5。バングラはインド・タイという観光メジャー大国の間にあり、シリアはエジプト・トルコの間にあるため忘れられがちである。ゆえに外国人が珍しい。
というわけでバングラデシュは観光客の少ない今が行きどき!(今後そう増えるとも思えませんが・・)
前にも書きましたが、私が今回ここを訪れた理由は子供の頃親から「バングラデシュに連れて行くよ!」と脅されたあの国がどんなものなのか見てみたいというものでしたが、今となってはわざと好き嫌いして脅されたら諸手を挙げて歓迎したい、そんな気分ですね。
(写真:バングラデシュの朝)
ヒソヒソ話
バングラデシュのほとんどの人は井戸水で生活しています。
しかしその地下水から砒素が検出されて問題になっています。
かといって飲まないわけにはいかないのでみんな飲んでいます。
もちろん私も普通に飲んでいます。
とてもおいしい水なので、本当に砒素なんか入っているのかな~?と疑問に思うこともありますが、ミネラルウォーターのラベルにはデカデカと「Arsenic(砒素) Free!」と銘打ってあるところを見ると事実なのでしょう。
こんなことが書いてあるミネラルウォーターはバングラデシュだけだろうなあ。
それでも負けずにみんな元気にやっています!!
2003年7月5日土曜日
カユイ
私としてはバングラデシュはかなり強力にお勧めしたい国であるのだが、もちろん難点もある。
それは虫が多いことだ。
高温多湿の国なのだから仕方のないことではあるが。
川・沼・湿地ばかりだから蚊が多いのも仕方が無い。
寝るとき蚊帳を張ればそれでいいのだ。
(安宿にもちゃんと蚊帳くらいはある)
ベッドに南京虫が居たりするのも仕方が無い。
安宿には付き物だ。
ただ、これはかなわん!と思ったことが一度ある。
それは初めて映画館に入ったときのこと。
席についてしばらくすると何やら体がモーレツに痒くなってきた。
どうやら木製の肘掛けと背もたれがダニの巣くつになっていたらしく、両腕・背中一面ぼこぼこに腫れてしまった。
1週間くらいカユミが引かなかった。
でもバングラ映画はインド映画の豪華さをパワーダウンし、お色気シーンだけはパワーアップしたようなB級映画でかなり笑えます。
ぜひどうぞ。
2003年6月17日火曜日
ベンガル語教室
おそらく言語学的には全くつながりのないと思われる日本語とベンガル語ですが、その中に無理矢理似た言葉を見つけてみました。
その1「コイ」
川で捕れる淡水魚で木に登るらしい。
カレーの具になるが日本の「鯉」とは全く関係はない。
使用例:「日本人はどんな魚を食べるか?」「コイ」
その2「チョット」
少し・小さい・狭い、などの意味で使われる言葉
使用例:「日本人のチ○コはでかいか?」「チョット」
2003年6月11日水曜日
刺線な視線
まだまだバングラデシュには外国人旅行者が少ないので、どこに行っても好奇の目で見られます。
しかもその見方というのがチラチラ見るとかじゃなくて、一心不乱に凝視してくるのです。
食堂にでも入れば従業員・客の全員から大注目を浴びるのは必至。
別にガンを飛ばしているわけじゃなくて気になるから見ているわけで、こっちから笑いかければ向こうもニコッ。
さすがにこういう露骨な見方をするのは男性だけであり、女性の方はもう少し遠慮気味。
ある時下校する女学生の群れに会いました。
やはり皆私の方を見ています。
そこでこっちもそちらの方に顔を向けると全員がぱっと顔を背ける。
また別の方に顔を向けるとそちらもぱっと顔を背ける。
まるで回遊している魚が一斉に向きを変える様を見ているようでした。
このような注目度は中東の方でも体験したことがあり、始めの頃はそのジロジロ感がとても気になったのですが、目の前に珍しいもの(私のこと)があるから見たいと思っているのなら、私にとっても珍しいもの(アラブ人)があったら見ても構わないんだ、と思えたら気が楽になりました。
ある時トルコで眉毛のつながった人がいました。
アラブ人トルコ人は毛深い人が多いので眉毛のつながったのは珍しくないんですが、何とその人の眉毛は横真一文字につながっていたのです!
これはじっくり見とかなきゃ損だ、とジロジロ見続けていたら、しばらくしてその人は嫌そうな顔をしてどっか行ってしまいました。
「勝った!」と思った瞬間でした。
そして時は過ぎ長い旅から日本に帰った時。
成田から都心に向かう電車の中に女子高生が乗ってきました。
久し振りに見るミニスカート・ナマ足・ルーズソックス!
その珍しさに思わずクセでジロジロ凝視してしまいました。
やがてその子は「何よこの変態!」って顔で別の車両に移ってしまいました。
「負けた・・・」と思った瞬間でした。
マイノリティ
インドにおける宗教人口割合は、ヒンズー73%、イスラム15%ぐらい。
バングラにおいてはそれがほぼ逆転し、イスラム88%、ヒンズー10%。
インドにおいては宗教マイノリティーであるイスラム教徒たちは、男はみなトルコ帽にムスリムスーツ、女は顔まで覆う真っ黒なチャドルを着ている。
しかしバングラにおいてはムスリムでもその格好をしているのは少数派で、男は洋服だし女はサリーを着ている。
やはりマイノリティーたちは自分たちのアイデンティティを誇示するためにそうせねばならないのだろうか。
乾燥しているならまだしも、蒸し暑いカルカッタにおいてはさすがにつらいのか、顔の覆いだけは外している女性が多かった。
やっぱり暑いんだろう。
この点は中国において大多数の漢民族が洋服なのに、少数民族は普段から民族衣装を着ている、というのも同じ理由なのかも。
文化の境界
インドにおいてうなずきの仕草は首を横に振ります。
バングラデシュ人は縦に振ったり横に振ったりとあいまい。
お隣のビルマではどうかな?
もし縦振りだったらバングラデシュが境界ということになりますね。
他の例として5本の指先をくっつけて手をすぼめる形はエジプト・ヨルダンあたりでは「止まれ」を意味するのですが、トルコにおいては「ベリーグッド!」を意味するのです。
間のシリア北部の人たちは両方の意味で使っていてややこしかった。
また中国において「ありがとう」の言葉は、
普通話では「謝謝(シェイシェイ)」、
広東話では「多謝(ドーチェ)」。
ちょうどその境界あたりの山間の村では「ドーシェイ」と言っていました。
こうなるとサリー着用の境界、手掴み食いの境界、尻水洗いの境界も気になるところですね。
ものすごいドナドナ
インド・カルカッタに着いたときにまず不思議に思ったことは牛が全く見当たらないこと。
私が歩いて見た限りではなく、他のツーリストに聞いてもやっぱり見たことない、と言うのです。
他の土地では必ずどこに行ってもいて、インドの風景に溶け合っていたのでカルカッタは何かインドのようでインドでない感じ。
考えられる理由としては・・・
1。町の近代化、交通渋滞防止のために政府が駆除(?)した。
2。牛肉OKのイスラム教徒が食べてしまった。
3。たくさんいる乞食の方々が背に腹は変えられず食べてしまった。
4。宇宙人に拉致された。
結局なぞは解けぬままバングラデシュに来てしまったのですが、あるバングラ人がこう言っていました。
「バングラデシュは食用としてインドから牛を輸入している」
1億4千万人のムスリムバングラ人の胃袋を満たすためバングラデシュから目と鼻の先にあるカルカッタから大量の牛が輸出されてしまったため消えてしまった・・・
考えられなくもないですね。
インドでは過保護にされ、八百屋の商品をのうのうと盗み食いしたりしている牛たちも、うかうかしてたらバングラ人に食べられちゃうぞ〜!
2003年5月24日土曜日
イケニエ
カルカッタにカーリー寺院という寺があります。
ここでは毎朝カーリー神への生け贄としてヤギの首がはねられます。
もがくヤギの首を押さえつけ巨大なナタでスパン!
首が落ちるとそのままグデッとなるかと思ったら、ヤギは結構しぶとく30秒ほど足をバタバタさせもがくのです。
その足がさっきまでついていた自分の頭を蹴っ飛ばし、間近で見ていた私の足元へコロコロと転がって来たからビックリ!!
ヤギさんと目が合ってしまいました。
おお神よ!!
ある日・・・
ついにここを去る日が来ました。
いつもはただ過ぎてゆく時間が、今日は一分一分がその時までのカウントダウンのようで貴重に感じられます。
「明日からは子供たちの『カジュー!カジュー!(私のこと)』という声がなくなって静かになっちゃうね。」
そう言われるとますます寂しさ募ります。
5ヶ月過ごした部屋を整理していると、次々と家族の人がやって来て、旅の安全を祈って、と首・腕・指にいろいろなお守りをいただきました。
せっかく荷物を少しでも軽く、と思っていたのにすげー重い壁絵などももらってしまって嬉しいやら困るやら・・
出発の時間は刻々と迫って来ます。
みんななぜか無言。
言わねばならない、でも言いたくない・・・。
よし、あの秒針が12の所を指したら言おう、思わず顔を伏せてしまいました。
この顔を上げなければ秒針はもう一回り猶予を与えてくれる・・・
しかし顔を上げるとちょうど針は12の所を指していたのでした。
「じゃあ、もう出発するよ。」
玄関まで総勢20人以上の家族全員が見送ってくれました。
一人一人と握手し別れの挨拶。
みんな複雑な表情。
こっちも思わずジーンと来てしまいます。
すると中の一人が言いました。
「またきっと戻ってくるんだよ!」
そうだ、私はまたここに戻ってくるんだ。
メソメソなんかしてられない!
込み上げてくる熱いものをグッとこらえて笑顔に戻って言いました。
「また、会いましょう!!」
バラナシの、ある暑い日の出来事です。
2003年5月19日月曜日
打ち出の小槌
いくら貧乏旅行といってもやっぱりお金は必要。
現地通貨を得るための方法としては・・・
1。米ドルキャッシュを両替
長所:これを両替で断られる事はない。普段の支払いがドルキャッシュでOKの場合もある。
短所:盗まれたら一巻のオワリ。円→ドル→現地通貨の二重両替になるので目減りする。
2。トラベラーズチェックを両替
長所:盗まれても再発行してもらえる。
短所:多額になるとかさばって胴巻きがパンパンになる。
3。Citibankのカードで引き出し
長所:手数料不要(残高が十分あれば、だけど)
短所:使えるATMがそんなにない。
4。Visaカードでキャッシング
長所:使えるATMがそこらじゅうにある。ATMが使えなくても窓口にパスポートとサインでOKの銀行・両替商多し。
短所:借金だから当然利子がつく(ただしTCが作る時1%、両替時にも手数料取られる事が多いことを考えると、翌月返済できるならこっちの方が得なこともありうる)
5。現地人の子供に「ジャンプしてみろ!」と言って、チャリンチャリン音がしたらカツアゲする
長所:元手が要らない
短所:多額を引き出すのは困難
2003年5月6日火曜日
鈴木くん佐藤くん
突然ですが「鈴木くん」「佐藤くん」というお菓子を知っていますか?
「知ってるよ」と反射的に答えてしまったアナタ。
おそらくアナタの年齢は25歳以上ですネ。
いや、じつは私は今もそのスナック菓子のパッケージがデザインされた巾着袋を使っているのですが、それを見た人が「何ですかこれ?」とか「佐藤さんという名前なんですか?」とか聞いてくるのです。
オー、この一世を風靡したお菓子を知らない世代かー!と自分の年齢を感じてしまう瞬間でありました。
旅と全然関係ない話でゴメンナサイ。
モンキーマジック
バラナシには猿がいっぱいいます。
しかも結構狂暴で洗濯物を持っていってビリビリに引き裂いたり、家の中にも堂々と入ってきて物を奪っていったり。
私がベランダの扉をあけたままにして寝ていても勝手に入ってきてお菓子や果物を何度か盗られました。
被害総額はかなりなもんです。
地元の人もほとほと手を焼いているようで棒を振りかざして追い払っている姿をよく見かけます。
そんなんでも決して退治したりはしない。
なぜならヒンズー教には「ハヌマーン」という猿の神様がいるからです。
先日道に猿の死体が転がっていました。
みんなでお線香を立て、供養してました。
牛といい猿といい、えらいもんを神にしてしまったもんですね。
でも逆に考えれば、この程度ですんでよかったのかも。
ハエ・蚊まで神様だったら、それこそ「生類あわれみの令」状態ですからね。
2003年5月4日日曜日
超犯罪都市
人通りの少ない路地裏を歩いていた時のこと。
一人の男が話し掛けてきた。
「私はガイドではなくただあなたと話がしたい。」
典型的なガイド勧誘パターンなのでムゲなく断るとその男はアッサリと引き下がっていった。
妙に弱気だな?と不思議に思って再び歩き出したその直後にまた別の男が寄ってきて話し掛けてきた。
「俺はポリスだ。お前は今アイツと何を話していたのだ?お前をボディチェックする必要がある!」
その男はどう見ても普通のそこら辺にいるインド人オッサンだったので、こりゃニセ者だな、とすぐピンと来た。
「だったらポリスの証明書を見せてくれよ。」
「い、いや、今はないが私はポリスである!」
「だったらこんな路地裏じゃなくてポリスステーションでならボディーチェックを受けますよ」
そう言って逆にオッサンの腕をつかんで大通りの方へ引きずり出そうとしたら腕を振り払って逃げていった。
ニセポリスに逢ったのはこれで2度目だ。
1度目はトルコのイスタンブールでのこと。
道を歩いていたら横に車が停まって、中の男が「私はポリスだ。ボディチェックする!」ときた。
「手帳を見せろ」というと、その男はちゃんと手帳を持っていた。
でもその手帳の表紙にはトルコ語で「POLIS」と書くところ、ワザワザ英語で「POLICE」と書いてあったオモチャの様な手帳だったので素早くその手帳を奪って道の向こうに放り投げてダッシュで逃げた。
長らくこの町に居たせいで、やや危険に対する警戒が薄れていたところだったので気を引き締め直す丁度いいきっかけになりました。
2003年4月25日金曜日
脱プン!その3
二度目は逆に灼熱40度下のインド。
夜通し扇風機の風を浴び冷えて腹を壊し「究極の下痢状態」にあった。
昼間はとにかく暑い。
パンツ一丁で仰向けで寝ていたところ5ヶ月ぶりにそれはやって来た。
「来た!」と思った瞬間、素早く身を反転させる。
0コンマ数ミリのパンツの生地を液体が浸透するよりも速い反応速度で動けたことによりベッドの汚染は回避できた。
その後汚れた体とパンツを洗い流し再び横になって30分後、何とまたまたそれがやって来たのだ。
今回も瞬間で身をひるがえし事無きをえ、その機敏さをアピールすることで来期の契約も更改できた。
教訓
「第二波は忘れた頃にやってくる」
脱プン!その2
一度目はヒマラヤ越え中の時であった。
標高5000m弱、外気温零下10度で野営中のことである。
ありったけの服を着込んで寝袋にくるまる身は「究極の下痢状態」にあった。
寒すぎて眠れない中フト寝返りをうった時、何の前触れもなくそれは起こった。
ウワッと思ったが時既に遅し。
寒風吹きすさむ中外に出て残り物を放出しテント内に戻った時まず考えたのは、このままだと尻が凍傷になるのでは・・ということ。
しかしこの寒気の中下半身の衣服すべて脱ぐのはつらすぎたことと、もう随分はき続けていて充分汚いであろうことからパンツの交換はせずそのまま寝続けた。
あんまりいい気分ではなかったが・・・
その時ふと気が緩んだのだろう。
なんと再び何の前触れもなくそれが起こってしまったのだ!
またまた寒風吹きすさむ中後処理。
トホホ、、
脱プン!その1
よわい30の男が公共の目に触れるこの場でこんなことを堂々と発表するのも情けないが、今回の旅中で既に8回ウンコをもらしている。
そのうち4回は下痢をしていて屁をしようとしたら実まで出ちゃった、というパターンであり、それならこれを読んでる読者諸氏も
「その経験なら僕も私もあるあるあるある・・・」
と100人に聞きました的うなずきをしてしまうところであろう。
しかし私にとってはもはやそれごときクソもらしは話題にすべき程の事ではない。
ここで取り上げたいのは更にその上を行く
「究極の下痢状態におけるクソもらし」
である。
「普通の下痢」と「究極の下痢」の境目をどこに置くかに統一的見解はなく研究者によりまちまちであるが三輪式分類法によるところはこうである。
チベットの田舎の民家ではトイレは灰捨て場も兼ねている場合が多い。
究極の下痢状態でこの灰捨て場で脱プンすると固形物が無いためすべて浸透してしまい、跡に残るは染みのみとなる。
こういう状態を「究極の下痢」と称す。
さて、究極の下痢状態に陥った時に最も恐れるべき事態は「屁をしようとしたら出ちゃった」ではなく「何もしてないのに勝手に出ちゃった」的クソもらしをしてしまうことにある。
その体験をお話してゆくことにしよう。
流行モノ
今バラナシでは風疹が流行っています。
どれくらい流行っているかというと、なっていない子は学校でいじめられたり、親に「みんな風疹にかかっているから僕もかかりたい!」と言うと「どうせ2〜3人だけなんでしょ!」といわれるくらい流行っています。
卵や肉から伝染すると考えられているようで(真偽は知らない)私がゆで卵を食べていると怖がって誰も近寄らず、間違って私や私の物に触れてしまった子は体から服から全て石鹸でゴシゴシ洗わなくてはならなくなります。
だから親連中から「しばらく卵は食べないでちょうだい!」と怒られてしまいました。
夜な夜な町のあちこちからは、チャンチャカ鐘の音にあわせて家族の唱えるお経の声が聞こえてきます。
祝詞によって病気を封じようというまじないなのです。
2003年4月13日日曜日
それゆけスキンヘッダーズ!
先日宿の一家のおじいさんが亡くなりました。
計らずもインドのお葬式に参加することとなり、大変不謹慎かもしれませんがその模様をレポートさせていただきます。
それは自宅で寝込んでいたおじいさんの元へ毎日回診にやってくる医者の一言から始まりました。
「おそらくもってあと1~2日でしょう・・・」
すぐにその場に呼ばれてやって来たのはブラーミン(高僧)と子牛。
幾束かの花輪をおじいさんに握らせ、それを子牛の首へ。
お経を唱えてブラーミンと子牛は帰ってゆきました。
そして医者の診断正しくおじいさんは2日後に息を引き取りました。
玄関に寝かせられた遺体の元に、親戚・友人・近所の人などが次々とやって来て最後のお別れをします。
数時間のあと、服を脱がされ体全体に油を塗りたくられ、三重の布にくるまれ竹で編んだ担架に乗せられます。
そこへ家族友人から山のように花輪をかけられ、いよいよガンガー沿いの火葬場に出発です。
原則的に火葬場に行けるのは男性のみ。
女性・子供は家に残ってオイオイ泣き続けるのです。
火葬中は沸騰した脳みその湯気が耳の穴から吹き出してびっくりするなど興味深いこともたくさんあるのですが、火葬の様子は世にゴマンとあるインド旅行記に詳しく記されているのでここでは省略。
男達が火葬場に行っている間に女たちは家の中を水で洗い流し、服は全て替え洗濯、体を洗って清めておきます。
火葬から帰って来た男達は家に入る前に口をゆすぎ、小さな甘いお菓子を食べます。
でも食べる前にひとかけらをとっておじいさんに捧げる皿に盛ってゆきます。
この盛られたお菓子は牛に食べさせることでおじいさんへの贈り物となるのです。
男達も家に帰るとすぐに服をかえ、体を清めます。
そしてその日は食事抜き。
これが死んだ当日丸一日かけて行われる出来事です。
そして死後10日間は喪に服す期間。
この間は毎朝男達はガンガーに沐浴に行きます。
女性は7日目のみ。
食事は一日一回でスパイス抜きの質素なメニュー。
ここでも毎食少しずつおじいさんに捧げる分を集め牛に与えるのです。
10日目、この日は全員でガンガーへ。
男達はここで全員頭を剃りあげます。
つるつるの頭になったところで男女揃って沐浴。
12日目にはおじいさんも含めた御先祖様全員に捧げる祈りの儀式。
17日目にはお世話になった人へのお礼の意味を込めた大食事会。
その後も1ヶ月・半年・一年後に大きな儀式が続くそうです。
私は最初から最後まで家族と同様に儀式に参加しました。
というわけで私もスキンヘッドになったのです。
今はちょっと伸びてカツオ君状態です。
ここの儀式の面倒くささ・長さは並みでなく、僧への御布施・火葬代・食事会代など合わせると10万円近くかかり(インドでは超大金!)家族にとっては大変な負担となるわけですが、家族を何よりも大切にし、
「死」や「生まれ変わり」に関して独特の考え方を持つインド人にとっては、この葬式というイベントは何よりも大切なイベントであるのだなあと感じさせられました。
2003年4月9日水曜日
人生の節目
人生の節目となる大イベントといえば結婚。
ここバラナシでその結婚式に参列させてもらうことができました。
一言で結婚式といっても数日にわたり数々の儀式・イベントがあるわけですが、その内の私が参加したのは、花婿が花嫁の家へ白馬に乗ってお迎えに上がる、といったくだり。
笑っちゃ駄目だよ、当人はいたって真剣だよ、というわけではじまりはじまり。
まず招待を受けた一家はピカピカのドレスに着替えます。
顔には白い粉を塗ります(肌は白い方が良い、という見方があるようです。そんなこと思わなくてもいいのに・・・)。
それを塗るとツヤを失い血の気のひいたような顔色になるので式場はゾンビの集会みたいでちょっと不気味です。
親達は「式に呼ばれるとお金ばっかかかって仕方ないわ」とブツブツ文句をたれながら御祝儀を包みます(ヒンズーのしきたりでは、めでたい時は101、201ルピーのように末が「1」の数を。逆に香典は「0」になる額を包む。)。
会場に着くと振る舞われる菓子・タバコ・料理(酒はない)などをパクつきながらダベっています。
いったいいつになったら始まりやがるんだい!とイライラが頂点に達するころ、やっと白馬に乗ってギラギラに着飾った王子様の登場!
しかしすぐ王女様と対面、というわけではなくまずは町内にお披露目のパレード。
パレード隊がこれまた派手で、まず先頭には轟音立てる発電機(人力で運ぶ)。
その電気は続く電飾隊(頭上にネオンランプを乗せて歩く)20人へ。
更に続くはタイコ・トランペットなどの楽器隊10人。
そしてその音楽に合わせ踊り狂う人(ラリっている)数十名。
やっと最後尾に白馬の王子様。
この一隊が1時間くらいかけて町内を巡るのです。
所々で止まって撮影会があったり、御祝儀の小銭をふりかけられたり。
小銭がばらまかれると、そこへウワーっとガキや乞食が群がってすごいことになります。
当然交通渋滞がおこるが我関せず。
やっとのこさ戻ってきた頃には既に王子様は疲れきっているけどやっとこれからが本番です。
王子様は玉座に座らされ、王女様の登場を待ちます。
またここでもじらせるだけじらせて、やがて家の奥からすっぽりベールに顔を覆い隠された王女様が
シズシズと登場。
王子様は立ちあがり王女様を迎えます。
王子様は王女様のベールをめくり首に花輪をかけると周囲から「おめでとう!」の声。
ここでやっと2人並んで席に着くんだけどここからがまた長い。
あとはひたすら招待客との記念撮影。
ニコニコ笑っているのは後ろの取り巻きばかりで、本人等はぐったり疲れきっちゃった表情が印象的でした。
その晩王子様は王女様の家で初めて一緒の夜を過ごすわけです。
これまでの人生、溜めに溜めたエネルギーをドカン!と爆発させ、摩擦熱で周囲の気温が2度上昇しそうだけど、あの疲れ切った顔で大丈夫かねえ、などと要らん心配をしながらわれらは家路に就くのでした。
当人よりも周りの方が盛り上がり、やたらと金のかかるのはどの国も同じなようで・・・
教育ママ
勉強させたい親と何とかその手から逃げようとする子の戦いはどの国も同じようです。
この宿の親子もしかり。
先日は体操までさせてました。
片足立ちバランストレーニングの次は、手を頭の後ろで組んでひざをピョコピョコ。
スクワットです。
しかしただのスクワットではありません。
これこそ正真正銘、本家本元のヒンズースクワット!
それに気がついた時ガンガーで100回くらい沐浴したくなるようなすがすがしさを覚えました。
以前マルタ島でノラ犬(多分雑種)を見た時、これぞ本物のマルチーズ!と驚き、地中海を50m位素潜りしたくなった気分と似ています。
(写真:目指せ東大!)
2003年4月2日水曜日
マッサージ!
宿のオヤジに「肩がこっている」という話をしたらオイルマッサージを呼んでくれることになった。
いわゆる「出張個室マッサージ」である。
この魅惑の響きに、思わず期待にコカンを膨らませ待っているとやって来たのは普通のジイさんだった。
しかしさすが熟練の腕前、何度も昇天しそうになるのをこらえながら快楽のひととき。
ただ私は普段から体を洗うとき石鹸を塗って流すだけでゴシゴシやらないので、オイルマッサージなのに垢がボロボロ出て来てジイさんは不思議顔。
そういえば以前韓国で本物のあかすりに行ったときもあまりに大量の垢に
「日本民族はこんなに垢が出るものなのか!?」
とアカスリオヤジに驚かれてしまった。
その時のあかすりは観光あかすりではなく普通の銭湯あかすりだったからなのかもしれないが、客もオヤジも完全全裸で、ベッドで横向きにされたときは目の前にオヤジの自家製粗びきフランクがブラブラしており大変素敵な気分になったことを思い出した。
さてタップリ1時間、頭のてっぺんから足の先までみっちりマッサージしてもらって130円ポッキリ。
チップを弾めばジイさんの歯抜けの口でエキストラサービス・・・
なんてことは微塵も考えず、すっきりした体で今日もカレーがうまいのだ!!
駅前留学
宿の家庭の子供たちは幼い頃から外国人が常に周りにいるせいで皆大人顔負けの達者な英語を操る。
インドの小学校は1年生から英語の授業があり、先日そのテストの結果が返ってきたのだが、一番巧みに英語を話す小3の少年の成績はなんと3点(75点満点)!
母親からも「この子は英語が駄目だから教えてやってくれ」と言われるが何を教えられようか。
耳で覚える英語と教科書で覚える英語は全く別物であるのですねえ。
教科書英語が実に使えないのは世界共通なのか??
頑張れ!文部省!!
バラナシでホーリー
3月17.18日はホーリーという大きな祭りでした。
これは春の到来と豊穣を祝い、色水色粉を掛け合う祭りです。
貧富・カーストの差無く、この日は無礼講でインド中が盛り上がります。
ただしここバラナシにおいては(他の町がどうかは知らない)この無礼講の度が過ぎて、夜通し酒をのみ泥酔し(インド人は普段酒飲まないので弱い)、その勢いでインド人同士でも暴行・殺人・レイプなどが起こってしまうらしいです。(今年も外国人を含め何人か死んだそうです)
略奪を恐れ店は全て閉店。
そんな中外国人が出歩こうものなら格好のターゲットとなってしまうため宿からは終日完全外出禁止。
前日のうちに食糧を買い込んでおきます。
祭りというより、テロか暴動でも起こったかのよう。
それを恐れ前日までに多くの旅行者は次々とバラナシを脱出していきました。
インドの祭りでは、他にも町を行く山車に自ら下敷きとなり身を捧げたり、沐浴祭で押し寄せる人波に逆らうことなくガンジス川に流され至福のまま溺死したり・・・と命懸けで参加するものであり、外国人がカメラを構えのんきに見物できる雰囲気がまるでない。
というわけで結論。
インドを旅する時は祭りを外したスケジュールを組むべし。
以上。
トラ!トラ!トラ!
いよいよ戦争が始まってしまったようですね。
もちろんここインドでもテレビや新聞では連日のように報道されています。
しかし私の今いる家のテレビはいつもインド映画や子供アニメにチャンネルが合わされていることもあり、詳しいことはよく知りません。
町の雰囲気も、所詮は対岸の火事といったところで目立った変化はなくいつも通りの生活です。
しかしパキスタンのことになると話は別。
小学生のチビですら「パキスタン」には敏感に反応します。
先日クリケットW杯でこの宿敵同士の一戦があって、結局インドが勝ったのですが、勝利が決った瞬間バラナシの町じゅうから花火があがりまくりました。
また世界的にはあまり知られていない事実ですが、インドは世界有数の地雷埋設国です。
その地雷は踏むとズルッと滑ります。
そして周りの子供に笑われ、精神的ショックで死に至るという恐るべき兵器です。
いくら除去してもすぐに新しい地雷がセットされてしまうため国連も頭を抱えているそうです。